カルメンタ
芥原
第1話
三万日ぶりに山を下りたとき、カルメンタはあたりの寂れようにたいそう驚きました。
しきりに口の中に入ってくる髪の毛を払いのけながら、カルメンタはさむいさむい山の麓まで降りると、近くの民家に向かって歩き始めました。
まだすこしだけ雪の残っている道を歩いていると、カルメンタは一本のリンゴの木の下で困っている少女を見つけました。
「どうかしたのかい?」
とカルメンタが声をかけると、少女は眉を下げながら振り返りました。カルメンタよりも一つ多く目を持つ少女は、一本の細いリンゴの木を指さしてカルメンタに言います。
「見てわかるでしょう? 困っているの」
「お前さんの目が一つ、余計にあることがかい?」
カルメンタはついふと、口に出していました。
「なんの話? あたし、リンゴの木が実らなくて困っているの。このままじゃ、家族みんながおなかをすかせてしまうわ」
「なら、木の根っこに籾殻をたくさん撒くといい」
カルメンタは服のせいで随分とくぐもった声で少女に言いました。すると少女は、赤くなった鼻を擦りながら、首をかしげました。
「どうして?」
カルメンタは声に魔法を乗せて少女に伝えました。
「籾殻は熱を逃がさないから、より果物が早く育つのだ」
少女がカルメンタの言ったとおりにすると、たちまち少女の頬のように真っ赤なリンゴの果実が、いくつも実りました。少女は飛び跳ねながらカルメンタにお礼を言うと、取れたばかりのリンゴをカルメンタに一つ分けました。
リンゴが好きなカルメンタは、いつでも食べられるよう、受け取ったリンゴを、かぶっている頭巾の中の、うなじのあたりに入れておくことにしました。
カルメンタはまた歩き始めました。
カルメンタは歩き続けました。道を覆っている雪は減ったものの、風がびゅうびゅうと吹いているあたりの道はまだ肌寒く、カルメンタは着ているローブに顔を埋めながら進んでいく必要がありました。
カルメンタが長い道を歩いて行くと、どこかから女の泣き声がしました。金属同士を摺り合わせているような、いやな声でした。カルメンタはこの手の女はどうにも苦手でしたが、しぶしぶ足を止め、泣き声のする家に行ってみることにしました。
家の中に入ってみると、ある夫婦が布に巻かれたなにかを抱きしめながら、わんわんと声を上げて泣いていました。
口の位置がカルメンタとは逆の場所にある夫婦は、カルメンタに気づくとやはりわんわん喚きながら布を指さして、なんとか事のあらましを説明しました。
「私たちの子供が、生まれてすぐに死んでしまったのです」
「それはまあ、たいへんなことだね」
「ついこの間も、生まれたばかりの馬の子が死にました! 私たちはどうすれば良いのでしょう」
カルメンタはすっかり困った様子で辺りを見回すと、燻製にされた魚がたくさん入っているカゴを見て、ひらめきました。カルメンタがそのカゴの縁を二回叩くと、中の魚に魔法がかかりました。
「しからば、その馬にはこの魚を食わせると良いだろう」
「それはまた、どうしてなのでしょう」
「魚とは死者の象徴であるとともに、多産や豊穣の象徴でもあるのだ。これを馬にやりなさい。きっと良い方向に向かうだろう」
妻と夫は鼻を何度もすすりながらそれを聞いていました。カルメンタは二人から布にくるまれた子供の骸を取り上げると、自分の指を子供の額に何度も押しつけました。
「子供は、このまま灰にしなさい。しっかりと家の炉で。そうしたら、灰と火はそのままに、その日はずっと炉の前にいること。そうしたらこの子は随分と強くなって、またお前の子として生まれ直すだろう」
二人は涙を拭うのも忘れて、大急ぎで言われたとおりにしました。するとカルメンタの不思議な魔法のおかげで、馬は何頭も元気な子を産み、妻はそれと同じくらいの時間に子を宿しました。
二人はわんわん涙を流しながらカルメンタにお礼を言いました。
カルメンタが次の場所に向かうとき、彼らは燻製にした魚を一つ、カルメンタにやることにしました。カルメンタは魚が嫌いでしたが、悪い気はしなかったので、それをしぶしぶ受け取ることにしました。
「ところで、ずいぶんと大きなローブねえ。体がすっぽり隠れちゃっているじゃないの」
と妻が言いました。
「ずっと気になっていたんですけど、ちゃんと前、見えているんですか?」
カルメンタは次の場所に向かい始めました。
緩やかに吹く風の中に、微かに潮の香りが混ざり始めました。
カルメンタはふと、目についたところにサフルーとラーセルピキウムが生えているのを見て、つい嬉しくなりました。カルメンタはそれらを気が済むまで愛でると、先ほどよりも軽い足取りで進んでいきます。
ずんずん進んでいきますと、カルメンタは困った様子の家族と出会いました。カルメンタの、イチイの実を潰したような赤毛とはかけ離れた、真っ黒な髪を持つ人たちでした。
機嫌の良かったカルメンタは、その家族から事情を聞くことにしました。すると、おじいさんが一人の少年を指さして説明し始めます。
どうやら聞くところによると、三年ほど前に息子家族に男の子が生まれたのはいいが、その男の子というのが今まで何をしても笑ったことがなく、すっかり困り果ててしまったみんなは、あれこれワケを考えていたということなのです。
「なるほど」とカルメンタ。
「あんたなら、どうにかできるのかい?」
「ああ、できるとも」
カルメンタはこほんと一つ咳をすると、懐から小さな果物ナイフを取り出して、少年に一歩近づいてみました。言われていたとおり、少年は終始むすっとした顔をしているだけで、笑おうとする気配はありません。
「あのね、笑いという行為は、死から生に移行するときに伴う物なんだよ」
カルメンタは続けます。
「それがないってことは、まだ冥界からうまく抜け出せていないって事なんだろうね」
そこまで言い終わると、カルメンタは果物ナイフで、少年の額にほんの小さな傷をつけました。途端に少年は目を閉じて倒れ込みます。きゃあと少年の母が悲鳴とともに駆け寄って、少年を抱き起こしました。
「しからば、いっそのこと、もう一度冥界に帰ってみれば良いのだ。あそこで笑わないわけにはいかないだろうから。こりゃ、アルレッキーノもびっくりの冥界下りだよ」
少年の母は訝しげな顔で、カルメンタのことをするどく睨みつけていました。カルメンタは急にぎくりとして、不安が胸の中に広がるのを感じて、居心地が悪くなったような気がしました。
しばらくすると、少年がびくりと体を震わせ、けたたましい笑い声を上げながら飛び起きました。家族全員がぎょっとする中で、少年は顔を真っ赤にしながら、体をあちこちにねじって笑っています。少し立つとそれも収まり、少年は目元をごしごしと拭いながら母に向かって、陽気に話し始めました。
どうやら冥界では相当滑稽な物が見られたようです。少年は真っ赤な顔のまま、同じくらいの背丈のカルメンタのことを抱きしめました。
家族は心底安心した様子で、カルメンタに何度もお礼を言いました。その家族は、庭で育てているエンドウ豆をカルメンタにお礼にと与えました。カルメンタはエンドウ豆は好きでも嫌いでもありませんでしたが、大喜びでそれを受け取りました。
カルメンタは胸が温かくなるのを感じながら、穏やかな心持ちでまた先に進みはじめました。
出発したときは一抹も無かった自信が、今は体中になみなみとみなぎっていました。
いつの間にか、大きな街のはしっこにたどり着いていたようでした。人が行き交う大きな道を避けながら、カルメンタはローブの裾をひっぱって自分の姿を隠しながら進んでいきます。
道はすべて石畳のものだったので、自分の履いている木靴と石がぶつかる音に、カルメンタはなんだか急に落ち着かなくなりました。
カルメンタはどんどん進んでいきました。石畳から逃れようと歩いているうちに、ある林の方まで来てしまっていました。
カルメンタはあたりを見渡して、すぐそばに立派な建物があるのを見て取ると、ここはこの国の王様の庭に違いないと確信しました。カルメンタはぴょんぴょん跳ねながら建物の入り口まで行って姿を消すと、兵隊たちのささやき声に耳をそばだてました。
辺りが暗くなる頃には、カルメンタは頭がクラクラするくらいの十分な情報を手にしていました。数ある噂話の中から、特にカルメンタの気を惹いたのは、この国の王女が一切子供に恵まれず王様や大臣が困り果てているというものでした。
カルメンタは、夜が明けたら王女のところに行くことに決めました。そういう悩みを解決するのは、カルメンタの得意分野です。
翌朝、カルメンタは人の目をくぐり抜けながら王女のいる部屋に入っていきました。
見ていて惚れ惚れするほど美しい王女は、窓際で縫い物に没頭していましたが、カルメンタの姿を見ると飛び上がりました。
「ずっと子供に恵まれなくて困っているって、そう聞いたよ」
とカルメンタ。王女はそれを聞いて、ああ、とどこか納得した様子で顔をしかめました。
「じゃあ、あなたが新しい医者ね。でもわたし、たくさんの手を試してみたのよ。今更あなたみたいなのにどうにかできるなんて、考えられない」
そう言うと王女は、大きめのローブを着ているせいで布の塊のようにも見えるカルメンタを興味深そうに見つめました。
「まあ、見てなよ」カルメンタはあの夫婦からもらった魚を取り出しました。
「ああ、美味しそうね」
「魚は多産の象徴だよ。まずはこいつを試してみるんだ」
王女は言われたとおりにしました。カルメンタは王女が魚を食べ終わったのを見ると、自信に満ちあふれた様子で部屋から出て行きました。王女は口をまごつかせながら、縫い物を再開しました。
次の日、カルメンタは王女の部屋を訪れてみましたが、王女が子供を授かっている様子はありませんでした。
「まさか、もう魔法が切れていたのだろうか。確かにあの夫婦に会ったのはずいぶんと前のような気もするが、そんなに早く切れるようにかけたつもりも無いんだがなあ」
カルメンタは首をひねりました。が、やがて気を取り戻すと、今度はあの家族からもらったエンドウ豆を取り出しました。
「はあ、今度はエンドウ豆ね」と王女は不満そうです。
「エンドウ豆も豊穣の象徴さ。なあ、まさかイーストなんて食べていないだろうね? 王女様。イーストはだめだよ。子供が出来なくなっちまう」
カルメンタはエンドウ豆に魔法をかけると王女に食べさせました。王女は苦い顔をしながら、それを口に運んでいきます。
全部食べ終わると、カルメンタは少し不安げな様子で部屋を後にしました。王女は口の中に残ったエンドウ豆の味をお茶で洗い流すと、また縫い物に取りかかりました。
次の日になっても、王女が子供を授かっている様子はありませんでした。これにはカルメンタも頭を抱えます。自分の矜持が踏みにじられたような気分でした。
王女はもっと残念そうな様子でした。カルメンタが床に座り込んでいるのを尻目に、窓際で、猫のように背を丸めながら針を延々と動かしています。
ふと、王女は自分の指にぷすりと針を刺すと、何かをブツブツと言い始めました。
「ああ、赤ちゃん、私の赤ちゃん、どうして姿を見せてくれないの! この際、生まれてきてくれるのなら、魚のような子でも、お豆のような子だって愛すのに!」
カルメンタははっとして、飛び上がりました。
王女もびくりと肩をふるわせてカルメンタの方を見ます。カルメンタは大声で王女に言いました。
「あんた! まさか、そうやって縫い物をするたびにそんなことを言っていたのかい!」
「ええ、そうよ」と不安そうに王女。「そんなにいけないことなの?」
カルメンタはぴょんぴょん跳ねながら、キーキー声で王女に抗議します。
「良いも何も! 王女様、それは立派な呪いだよ! 魚のような子供でも良いって言えば、本当に魚のような子が産まれてくるもんだ! そうかそうか、魚やエンドウ豆にかけた魔法が効かなかったのは、そういうことか!」
王女はたいそう驚いた様子で大きく口を開けていました。が。やがて顔をくしゃりとひしゃげると、
「なに、なんてことを……じゃあ私、どうすれば良いって言うの……」
と泣き出しました。カルメンタはそれとは対照的な明るい声で言います。
「原因がわかったんなら、もう怖がる事なんて無いのさ、王女様。だってこのカルメンタが居るんだ。そんな悩みなんて、たちどころに解決してやるさ」
カルメンタは、王女が自分にかけた呪いを解いてやると、ローブの頭巾の中から、後で食べようと思っていた、あの少女にもらったリンゴを取り出して、王女に差し出しました。
「今度はリンゴね」
「今度こそ、これでおしまいさ」
王女は鼻をすすりながらリンゴを食べ始めました。王女の真っ白な前歯がリンゴの果肉に突き立てられるのを、床に座り込んで眺めているカルメンタは、そわそわしながら棒のような指でローブの裾をいじくりまわしています。
「ねえ王女様。その悩みが無事解決したら、一つお願いをかなえてほしいんだ」
「ええいいわよ」
むしゃむしゃとリンゴを咀嚼しながら、
「もし解決したらね」
次の日、カルメンタが王女の部屋を訪ねると、王女は無事子供を授かっていて、カルメンタは自分のことのように大喜びしました。
王女は大粒の涙を流しながら、カルメンタのことを抱きしめました。カルメンタの胸中に、歓喜の念が流れ込みます。
「ねえ、悩みを解決したら、お願いをかなえるって約束したわね。何が願いなの?」
カルメンタはどきりとしました。
しばらくの間、落ち着かない様子で両手をもみしだいていましたが、意を決して王女に願いを打ち明けます。
「友達になってほしいんだ、王女様。このカルメンタと」
王女はそれを聞くと、花の咲くような笑顔を浮かべました。
「なんだ、そんなこと」
牡丹のような笑みをそのままに、「もちろん良いに決まってるわ!」
カルメンタは、うれしさのあまり飛び上がりました。
体を覆っていたローブがふわりと浮き上がり、カルメンタの頭を覆っていた頭巾が後ろにずり落ちて──。
王女の顔が凍り付きました。
赤毛が覆うカルメンタの顔には、ぎょろりと大きな目が一つ、鼻は無く、口は後ろのうなじのあたりにあり、とがった刃のような歯が髪の間から見え隠れしています。
王女は恐怖に顔を引きつらせると悲鳴を上げました。カルメンタの体も強張ります。すると、その悲鳴を聞きつけた兵隊たちや王様が、すぐにわらわらとすっ飛んできました。
「助けて!」と王女様。「怪物が、怪物が!」
そして各々が王女の前にいる、醜いカルメンタの姿を認めると、困惑と嫌悪に満ちた声が四方八方から聞こえてきました。
がん、と頭を殴られたような衝撃が襲いました。カルメンタはついに耐えられなくなって、その場から逃げ出しました。誰にも見られないよう、ローブで全身をぐるぐる巻きにしながら必死に走ります。
カルメンタは懸命に走りながら、一つしか無い大きな目から大粒の涙を次々と零しました。街を抜け、潮風の混じる道を走り、まだ少し雪の残る道、そして雪山の中に戻っていく間、カルメンタは大声を上げながらずっと泣いていました。
皮肉なことに、カルメンタの涙が落ちたところには、すぐに青々とした立派な草花が生い茂りました。
山に戻ってもカルメンタは泣き続けました。王女のあの悲痛な声が離れず、悲しみは三日三晩続き、カルメンタの流した涙は、草花や穀物、魚を育てる川となって、後々、人々を喜ばせることになりました。
真夜中になって、涙も涸れ、すっかり疲れ切ってしまったカルメンタは、また三万日ほど、山の中で眠ることにしました。
次に起きたときには、人々に受け入れられることを夢に見ながら。
カルメンタ 芥原 @keshiko
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