地球へむかって歩け

山田沙夜

第1話

 ナツミはコホンと咳をして唇を濡らした。かすかに香ったコーヒーの香りが、ふっと消える。

 テーブルに頬杖をついて、緊張感皆無の所長が、嫌味か皮肉かどっちを聞きたい? とばかりに口元をにやりとゆがめた。ぬるそうなコーヒーを一口すする。

「所長、昨日から鼻がむずむずしています。これからエアクリーナーをチェックします」

「ちょっと待て、逃げるなナツミ。きみは今日の客の担当だろ。どうだ、きみの鼻までコーヒーのにおいが届いているかな。におわないだろ? きみも詰めが甘いねぇ」

 空気は正常に清浄されている。

「わたしが今日のお客の担当だなんて聞いていません、所長。まだみんなでジャンケンもくじ引きもしてません。なので客担当はまだ決定されていません」

 姿勢を正し、顔には無表情を貼り付け、寸分の弱みさえ見せることなき態度で言った。油断すると笑ってしまう。

「前回はじゃんけん、その前はくじ引きでナットとウォンが客担当に当たっちまって、予想通り、ホテルからクレームがあった。強面も程度の問題だよな。……であるから、所長一存で決めることにした。ブレル、念のためエアクリーナーを見てきてくれないか。で、客の相手はナツミとローレンだ。そろそろ到着だ。ほれ、ホテルの装甲移動車を目視確認できるぞ。」

 即座にブレルの二つ返事と、ローレンのブーイングが響いた。


 この基地の誰一人、観光客の受け入れを歓迎していない。

 不幸なことにここはルナ観光ホテルから一番近く、おまけに月の地平線に触れそうな地球が見られるという絶好の眺望なのだ。

 ルナ観光ホテルから見られる地球は、ほわんと空間に浮かんでいる。

 月開発機構もホテルに押されて、客の受け入れを依頼してきた。諸般の事情を鑑みると、無下には断れないらしい。

 研究施設としてのこの基地の、七八の研究テーマの中に、「人の居住による月への影響」というテーマが掲げてもあるのだ。


 職員と研究者も使用することを条件に、観光客用の最新宇宙服五着を基地へ寄贈する。

 ホテルは客一人につき一人、屋外活動訓練を終了した警護員をつけること。

 万が一事故があっても基地と基地関係者に責任を問わない。観光客の保険はホテルの責任で契約する。

 警護員と観光客の水と酸素、屋外活動用酸素はホテルが持参する。ゴミは持ち帰る。基地では観光客の飲食はなし。水は例外とする。

 客の年齢は十五歳以上であること。

 観光客の受け入れ一度につき三万ドル、客一人につき五千ドルを基地に払う。

 これ以外に問題が発生した場合、即座にホテルが対処すること。


 という条件をホテルと機構に吹っかけたがあっさり受理された。

 条件を策定した所長と職員と研究者は、自らの金銭感覚が貧しすぎるのではないかと疑うことになった。

 なにより観光客のもたらす金は、基地の財源の余裕となり、さまざまな「最新」をもたらしてくれるのだ。


 三年前のことだ。

 基地建設に関わった関係各国の視察団に加え、出資者、スポンサーの視察があった。一度にまとめて基地に入るわけにはいかないので、入れ替わり立ち替わりでの視察である。

 視察団到着前に、職員の一人が基地からの視界に入る距離まで、地平に浮かぶ地球へ向かって歩き、足跡を残した。その横をローバーが往復、徒歩の職員を拾うとともに轍を残した。

 その職員とローバーの運転者はとっくに地球勤務となり、その行為についての調書はないので、本意はわからない。

 しかし足跡と轍は視察団に強い印象を残し、伝説をつくってしまった。


 あまりに美しい地球に魅せられて、歩いて地球へ帰ろうとした者がいた。やがて力尽き、酸素も尽きて死んだ。

 一人行方不明だと気がつき、ローバーで足跡を追ったが時すでに遅く、死体を回収することしかできなかった。


 それなりの地位の者が、「地球へ帰還する足跡」を喧伝したものだから、その基地へ行き、宇宙服を着て基地の外へ出、その足跡とともに歩きながら地球を観たい、という希望者が出始めたのだった。


 ローレンとナツミは、ホテルへ帰っていく装甲移動車を、こっそり中指を立てながら見送った。

 観光客が踏み荒らした「地球へ帰還する足跡」と観光客と警護員、それにローレンとナツミの足跡は均して、ふたたび「地球へ帰還する足跡」が残される。


「ホテルの差し入れだ。今日は……おお、なんと! フレッシュフルーツのケーキとナッツのタルトだ。いいねえ、豪勢だねぇ」

 職員と研究者の全員分プラス三人分の余裕がある。そして本物の肉のローストビーフも差し入れられていた。

 所長はさっそく、あとでケーキをめぐって喧嘩が勃発しないように、ケーキとタルトを食べた者チェックリストと監視カメラを置いた。


 第三ベースこと月三号研究基地の研究者と職員は観光客を歓迎していない。しかし受け入れを停止する気はまったくない。

 そして研究者と職員全員、「地球へ帰還する足跡」は所長が企んだものだと思っている。


 noteより転載(2018/11/09擱筆)

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