最後の竜騎士(二)

 まばゆい朝焼けが紺青色コバルトブルーの機体を輝かせていた。

 各部の整備を終えたサラマンドラは、発動機エンジンの試運転を兼ねて駐機場エプロンに出ている。

 発動機が低い鼓動を打ち、四枚はねの大ぶりなプロペラがゆるやかに回転する。

 プロペラのピッチを調整し、回転数をじょじょに上げながら、ユーリは油温計とブースト計を見張っている。暖機運転アイドリングを兼ねた動作確認だ。冷えきっていた潤滑油オイルは、熱い血潮となって”竜の心臓”をなめらかに駆け巡る。

 いずれの機能も正常に働いている。

 続いて昇降舵エレベーター方向舵ラダー補助翼エルロン、そして主翼後縁の自動空戦フラップが正常に動くことを確かめる。

 サラマンドラの各動翼はユーリの意思に応じて生けるがごとくに駆動し、わずかな遅延や違和感もない。

 サラマンドラに採用された油圧式操縦索は、従来機よりも格段に楽に機体を操ることが出来る一方、入力に対する応答性レスポンスが鈍いという欠点を持ち合わせている。それを感じさせないのは、ひとえにチューニングの巧みさゆえであった。

 二基の発電機ジェネレーター鉛蓄電池バッテリーの通電、燃料タンクの切り替えも問題ない。

 機体のコンディションはこれ以上ないほどに完璧に仕上がっている。


 ユーリは計器盤から目を上げると、格納庫ハンガーのほうを見やる。

 半開きになった扉の前にテオが立っている。

 翌朝の飛行に備えて睡眠を取ったユーリに対して、テオは一晩じゅう整備に没頭していたのである。

 整備は昨日から続いていることを考えれば、まる一日休んでいないことになる。

 十代の若さだけではない。

 常人にはとても真似出来ない凄まじい集中力のなせる業だった。

 

――もし俺とサラマンドラが帰ってこなかったら……。


 愛機に乗り込む直前、ユーリはテオにむかってひとりごちるみたいに言った。


――そのときは、別の生き方を探せ。お前ほどの腕があれば、どこでだって生きていける。大学に戻るのもいいだろう。俺のせいで寄り道をさせてしまったが、まだ充分取り返しはつくはずだ。


 突き放すようなユーリの言葉に、テオは目を丸くした。

 それも一瞬のこと。


――言われなくても、好きにするよ。

――もしユーリが帰ってこなかったら、僕はもう二度と飛行機には関わらない。なにもかも忘れて生きていくつもり。そんな人生も、きっと悪くないと思うから。


 努めて明るく言いのけたテオに、ユーリは沈黙で答えた。

 平々凡々なごく普通の人生。ささやかだが温かな家庭……。

 世の中の多くの人間にとって幸福だろうそれは、その一方で、さまざまな可能性を手放すということでもある。

 すくなくとも、ユーリにとってはそうだ。

 サラマンドラを降りた先にどんな幸せがあったとしても、それはきっと砂の味がするはずだった。

 

――そんな顔しないで。無事に帰ってきてくれなくちゃ、せっかくサラを完璧に整備した甲斐がないよ。


 言うが早いか、テオはコクピットになにかを投げ込む。

 ユーリが空中で掴み取ったのは、掌に収まるほどのちいさな布袋だった。

 赤紫色に染められたそれは、大竜公国グロースドラッフェンラントで広く人口に膾炙していた魔除けのお守りだ。

 かつて戦に赴く騎士たちは鎧の内側に縫い込み、先の戦争では出征する兵士が軍服の内ポケットにこっそりと忍ばせた。

 もっとも、迷信嫌いのユーリは、戦争中からこの種のお守りとは無縁だった。

 誰かからお守りをもらうのも、正真正銘これが初めてだ。

 

――行ってらっしゃい、ユーリ。気をつけてね。


 テオはせいいっぱい明るい声で言って、すばやく背を向けた。

 顔を見られたくなかったのだ。

 いまも帽子を目深にかぶっているため、表情は杳として窺えない。

 ユーリはふたたび前方に視線を向ける。

 左右の着陸脚のブレーキを順に解除し、スロットルを開く。

 サラマンドラの巨体がゆるやかに動き始めた。


***


 夕闇が朽ち果てた街を覆っていった。

 ラウテンヴェルク。

 かつてアードラー大陸の中心として殷賑を極めた大竜公国の首都は、現在はオーディンバルト北部のとしてその名を残している。

 いまを遡ること七百年あまり昔、大竜公国の開祖ジークフリートによって拓かれた古都は、いまでは無惨な焼け跡が広がるばかりだった。先の大戦においてポラリア軍が実施した度重なる爆撃によって、首都の大部分は灰燼に帰したのである。

 戦後アードラー大陸に進駐したポラリア軍は、破壊されたラウテンヴェルクの再建に乗り出そうとはしなかった。大竜公国の象徴でもあった首都の変わり果てた姿は、敵味方の国民にポラリアの勝利を印象づけるモニュメントとしてこれ以上ないほどに好適だったのだ。

 戦火を免れた市街地には戦後も住民が残っていたが、彼らもやがて家を棄て、ほかの都市へと移っていった。

 最盛期には七百万人もの人口をほこった大都市は、終戦から五年を経た現在ではほとんど無人の廃都と化している。

 打ち捨てられた首都にうごめくのは、焼け跡から金目のものを物色するヤミ業者と、行き場をなくした浮浪者だけだった。


 いま、廃墟の街に降り注ぐのは、発動機エンジンの爆音だった。

 オーディンバルト空軍の防空網を難なくかいくぐったサラマンドラは、ラウテンヴェルク上空に到達した。

 ユーリはコクピットの外に広がる荒涼たる景色には興味も示さず、じっと前方を見つめている。

 手紙に書かれていた住所は、第六◯六ロクマルロク戦闘航空団ヤークトゲシュバーダーの基地のそれと符合する。

 ラウテンヴェルク近郊の運河沿いに位置する小規模な航空基地である。

 五年前のあの日――六◯六戦の最後の総出撃のあと、基地がどうなったかは定かではない。

 大乱戦の最中に被弾したユーリのサラマンドラは、基地から遠く離れたルートを辿ってマドリガーレへと向かったのだ。

 ポラリア軍の爆撃で完膚なきまでに破壊されたか、サラマンドラの部品を接収されることを恐れた味方の手で焼き払われたか……。

 いずれにせよ、基地がそのままの形で残っているとは考えにくかった。

 それでも、ここまで来てしまった以上は、おめおめと引き返す訳にもいかない。


 視界の片隅でぽつぽつと白い光がまたたいた。

 みるみるうちに細長く伸びた光の道が形作られていく。

 上空の機体に滑走路ランウェイを示す誘導灯だ。

 パイロットにとっては見慣れたそれは、しかし、一面の廃墟のなかではひどく異質にみえた。

 位置と方角から判断して、かつての六◯六戦の基地であることは間違いない。

 滑走路が残っていたことだけでも驚くべきことだが、放置されて数年を経てなお誘導灯への電力供給が生きているとはにわかには信じがたい。

 もっとも、誰かがそのように仕向けたなら話は別だ。

 ユーリはサラマンドラをおおきく左に旋回バンクさせ、滑走路へのアプローチを試みる。

 仄明かりのなかに見慣れた基地の情景が浮かび上がる。

 よくよく見れば、管制塔と格納庫はひどく破壊されている。滑走路が無事なのが不思議なほどだった。

 光の帯に導かれて、主脚を出したサラマンドラは滑走路へと降りる。

 両翼後端のフラップをフル・ダウンした大柄な機体は、ゆるやかに停止する。

 そのまま誘導路タキシーウェイから駐機場エプロンへと機体を回そうとしたところで、ユーリは奇妙な違和感を覚えた。

 風防を後方にスライドさせ、コクピットから上半身を出して周囲を見渡す。

 を見つけるのは容易だった。

 崩れかかった格納庫の正面に誰かが立っている。

 その全身は宵闇に黒く塗り潰され、顔貌はおろか服装さえ判然としない。

 戛然かつぜんと軍靴の底でコンクリートを打ちながら、黒い人影はゆっくりとサラマンドラに近づいてくる。

 ユーリは無意識に腰のホルスターに手を伸ばす。

 無骨な革製ホルスターには、大型の自動拳銃が差し込まれている。

 親指でそっと安全装置セーフティを外す。いつでも発砲出来る態勢を維持したまま、ユーリは影を睨む。

 影がふいに薄くなった。誘導灯の光に近づいたためだ。

 

「久しぶりだな、エレンライヒ大尉。元気そうで安心したよ」


 心底から懐かしげに言って、隻眼の男は手にしたたばこに火をつける。

 その声も、その顔も、忘れられるはずもない。

 いま紫煙をくゆらせながらユーリを見上げるのは、ランドルフ・シュローダー大佐その人だった。

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