第606戦闘航空団 -JG606,1945-(二)
五月が終わろうとしている。
ポラリア軍による首都ラウテンヴェルクへの空襲は一向に熄まず、それどころか激しさを増す一方だった。
首都には第
それも当然だった。昼夜の別なく飛来する敵機に備えて、パイロットたちはつねに緊張を強いられているのである。
気力・体力ともに消耗した状態では、十全の実力を発揮することなど不可能だ。
機体の性能やパイロットの巧拙を論じる以前に、戦う前から勝ち目のない状況に追い込まれていたのである。
そんななかで、CaZ-170”サラマンドラ”を使用する六◯六戦だけは別だった。
最高の機体を望みうる最高の環境で集中運用することによって戦果を最大化する――。
ランドルフ・シュローダー大佐の提唱した理論に基づいて、六◯六戦には選りすぐりの精鋭が集められた。
世にいう
優秀なのは実際に機体を運用するパイロットだけに留まらなかった。サラマンドラを開発したカールシュタット・ザウアー合同設計局の技術者たちが整備員を直接指導することで、部隊の稼働率はほぼ百パーセントを維持したのである。他の戦闘航空団の稼働率がせいぜい六割から七割止まりだったことを考えれば、これはまさに驚異的な数字だった。
出撃のたびに多大な戦果を挙げる六◯六戦は、いつしか首都防衛の要と見なされるようになっていった。
新聞の紙面には連日のように「竜騎士」の文字が踊り、国営放送は空の勇者を讃える威勢のいい軍歌を一日じゅう流し続けた。
ふだんは王宮から一歩も出ることのない
***
ユリアン・エレンライヒ大尉は、眠い目をこすりながら基地の外に出た。
昨夜遅くにラウテンヴェルクに飛来したポラリア空軍の爆撃機編隊を迎撃したあと、息つく暇もなく味方の救援のために別の空域に派遣されたのである。
すべての戦闘が終わったのは、夜空がすっかり白んだころだった。
ユリアンはいつもの堤防へ足を向けながら、昨晩の戦いのことを考える。
二度目の出撃で交戦したのは空軍機ではなく、ポラリア海軍の艦上戦闘機だった。
大竜公国海軍が制海権を完全に喪失し、敵空母が沿岸部まで進出しているという噂はどうやら真実だったらしい。
海軍と空軍は伝統的に反目しあう関係にあり、お互いに積極的に情報を明かそうとはしない。すくなくとも表向きは海軍はいまなおアードラー大陸の四海を掌握し、ポラリア艦隊の領海への侵入を阻止しているということになっているのだ。
敵に勝つことよりも味方に侮られないことを優先しているのなら、戦争に負けるのも当然だとユリアンは思う。
もっとも、祖国が勝とうが負けようが、ユリアンにはさして重要な問題ではなかった。
パイロットの戦いはどこまでも個人的なものだ。
戦場では敵を墜とすか、自分が墜とされるかの二つにひとつしかない。
たとえ味方が戦闘に勝利したとしても、自分が撃墜されればパイロットにとっては敗北にほかならないのだ。
それが彼らが空の騎士と呼ばれる所以であり、一個の兵士の人格が希薄化した近代戦にあってエースパイロットなるものが存在しうる理由でもある。
大竜公国がどうなろうと、パイロットとしての戦いに勝ち続けることは出来る。
べつにユリアンだけがそう考えている訳ではない。
程度の差こそあれ、それは六◯六戦に所属するすべてのパイロットの共通認識でもあった。
むろん、心のなかでそう思うだけだ。
もしそんなことを迂闊に口外すれば、たちまち糾弾の対象になるだろう。
自分は戦いもしないくせに他人を責めることだけに血道を上げる人間は、戦争の旗色が悪くなるにつれてとみに増えた。
地上にはどちらを向いてもバカバカしい物事が溢れかえっている。
戦争が人を狂わせるのか、それともこの世の中が最初から狂っていたのか、いまとなっては誰にも分からない。
そんな煩わしさから逃れられるのは、サラマンドラのコクピットに座っているあいだだけだった。
基地の正門を出てしばらく歩いたところで、ユリアンはふと足を止めた。
十メートルほど先の路上にひとりの青年が立っている。
年齢は十八、九歳といったところ。地味だが小綺麗な身なりをしている。
ベージュのキャスケット帽を目深に被った青年は、基地の
金網の向こう側にあるものを熱心に見つめているのだ。
その視線の先になにがあるのか、ユリアンはむろん知っている。戦闘機の
夜通しの激戦から戻った愛機サラマンドラも、いまごろ格納庫で入念な整備を受けているはずだった。
竜騎士部隊の活躍ぶりが世間に広く知れ渡るようになってから、この種の見物人もよく見かけるようになった。
金網をよじのぼって基地内に侵入しようとでもしないかぎり、警備兵もわざわざ相手にすることはない。
もとより他人に興味もないユリアンは、足早に通り過ぎようとする。
「あのっ、すみません――」
遠ざかっていくユリアンにむかって、青年は意を決したように声をかけた。
「もしかして、この基地のパイロットの方ですか?」
「だったらどうだというんだ。文句でもあるのか」
「あ……いえ……そういう訳じゃ……」
青年はしどろもどろになりながら、顔の前でぶんぶんと両手を振る。
「言いたいことがあるならはっきり言ったらどうだ」
「私――いえ、僕、子供のころから飛行機が好きで。ここにはすごい飛行機があると聞いたので、ひと目見られないかなと……」
「サラマンドラのことか?」
「そうです! 乗ってらっしゃるんですよね、サラマンドラに……?」
弾むような声で言った青年に、ユリアンはいかにも面倒くさそうに首肯する。
「ついてこい。そんなところに立っているとスパイだと思われるぞ」
「スパイ!? 僕はそんなつもりじゃ……」
「いまの世の中、他人を密告したくて仕方ない連中など掃いて捨てるほどいるからな。それに、そこで眺めていてもサラマンドラは出てこない。格納庫から出るのは出撃命令が下った時だけだ」
しばらく無言で歩いていた二人だが、沈黙に耐えかねたように青年が口を開いた。
「あの、僕、レオといいます! レオ・バイデンフェルト――」
「ユリアン・エレンライヒ。階級は空軍大尉」
「大尉? そんなにお若いのに、出世なさってるんですね」
「べつになりたくてなった訳じゃない」
ユリアンはすげなく言って、ふっとため息をつく。
昇進も悪いことばかりではない。
これまでのように小隊長の指揮で動くのではなく、自分の裁量で戦えるようになった。
もっとも、今度は自分が部下に指示を与えなければならないのは厄介だが。
「エレンライヒ大尉……」
「階級で呼ぶのはよせ。民間人だろう」
「では、どういうふうにお呼びしたらいいでしょう」
「ユリアンでもエレンライヒでも好きなほうで呼べ。俺はどちらでも構わない」
しばらく逡巡したあと、レオはおそるおそる呼びかける。
「では、ユリアンさん」
「なんだ?」
「もしよかったらサラマンドラのこと、聞かせてもらえませんか」
「聞いてどうする。ポラリアの情報局にでも売るのか?」
「絶対にそんなことしません!! 神様とご先祖様に誓います!!」
「冗談に決まっているだろう。堂々と近づいてくるスパイなどいるものか」
そうするうちに、二人は堤防に到着した。
ユリアンはいつものように草むらの上に腰を下ろす。
レオもその隣に座る。あまり地べたに座る習慣がないのか、姿勢はやけにぎこちない。
「僕、本当にサラマンドラのことが知りたいだけなんです。なんてきれいな飛行機なんだろうって、はじめて見たときからずっと心に残り続けていて……」
「あれは戦闘機だ。お前が思ってるような上品なものじゃない」
「そうだとしても、やっぱり僕はあの飛行機が好きです。他のどの機体よりも美しいと思います」
あくまで素直なレオの言葉に、ユリアンは彼方を見つめるばかりだった。
「昨日の夜、俺はすくなくとも四十人殺した――」
こともなげに言ってのけたユリアンに対して、レオは言葉を失った。
ひとりの人間を殺しただけでも重罪人として裁かれる。
まして四十人もの人間を殺したとなれば、おそるべき大量殺人者にほかならない。
そうだ――戦争という状況でなければ。
「ポラリア軍の重爆撃機は八人乗りだ。俺はそれを五機墜とした。サラマンドラの四◯ミリ機関砲が命中すれば、四発重爆でも一撃でバラバラになる。誰も助からん」
「ユリアンさん……」
「お前がきれいだと言った飛行機がやっていることがそれだ。もっとも、やらなければ俺がやられていた。後悔はしていない」
ユリアンの脳裏には、夜空に赤い炎の尾を引いて墜落していく爆撃機の姿が鮮明に焼き付いている。
機体とともに四散した四十人の兵士たち。名も知らない彼らにはそれぞれの人生があり、故郷で待っている家族もいたはずだ。
敵に情けをかけようと思ったことは一度もない。それが戦争だ。殺さなければ殺される。引き金を引くのに迷いもためらいもありはしない。
それでも、戦闘で敵を殺すたび、サラマンドラの翼が黒く染まっていくような気がする。それを思うとむしょうに胸が苦しかった。
レオの言うとおり、サラマンドラはこの世のどんな飛行機よりも美しい。
それを血で汚してしているのは自分なのだ。
だが、もし戦うことを止めたなら、戦闘機であるサラマンドラは存在意義を失うだろう。
戦闘機を操って敵を殺すほかに生きていく術を知らないユリアンも、また。
「ユリアンさん――」
レオは身を乗り出し、ユリアンの顔を覗き込んだ。
大粒の宝石をはめ込んだような青く澄みわたった瞳。
そこに映し出された自分自身の姿に、ユリアンはおもわず後じさっていた。
「あなたは立派です、ユリアン・エレンライヒ大尉。もし爆撃機を撃墜していなければ、ラウテンヴェルクの街はおおきな被害を受けていたはずです。もしかしたら、僕も死んでいたかもしれない」
「……」
「どんな理由であれ人を殺すことが罪だというなら、それはあなたとサラマンドラではなく、助けられた僕たちが背負わなければならない罪です。どうか自分の手が汚れているなどとは思わないでください」
レオは先ほどまでとは別人みたいに落ち着いた声で語りかける。
どこか威厳さえ漂うその声音は、ユリアンの知っているどんな種類の人間とも異なるものだった。
それも一瞬のこと。レオは両膝を抱き寄せると、ぽつりとユーリに問うた。
「ところで、ユリアンさんは郵便飛行機ってご存知ですか」
「むかしはよく飛んでいたな。戦争が始まってからはめっきり見なくなったが」
「郵便飛行機は汽車や車では行けないような遠い場所に手紙や荷物を運んでくれるんです。僕も子供のころ、一度だけ配達を頼んだことがあるんですよ。……そのときは、けっきょく相手のもとには届かずに戻ってきてしまいましたけど」
そう言って、レオは寂しげな微笑みを浮かべる。
二度とは還らない過去に思いを馳せるような、それは悲しくも優しげな表情だった。
「これから突拍子もないこと言いますが、どうか笑わないでくださいね」
空を見上げながら、レオはひとりごちるみたいに呟く。
「僕はこんなことを思うんです。もしサラマンドラが郵便飛行機だったら、世界のどこへでも手紙や荷物を届けてくれるんじゃないか……って」
「バカげた話だ。戦闘機はそもそも荷物を積むようには出来ていない」
「でも、あの飛行機は、敵と戦うよりもそうしているほうが似合うような気がするんです。本当にただの思いつきですけどね」
レオは照れくさそうに笑うと、すっくと立ち上がった。
キャスケット帽を被りなおしているのは、顔を見られたくない理由があるのだろう。
「そろそろ失礼します。ユリアンさん、僕のワガママを聞いてくれてありがとう。では、また――」
遠ざかっていく背中を見送りながら、ユリアンはレオの言葉を心のなかでもう一度繰り返す。
サラマンドラを郵便飛行機にする?
ありえないことだ。
連絡機や偵察機ならいざしらず、よりによって最強の空戦能力をもつ戦闘機を郵便配達に使うなど、あまりに荒唐無稽なアイディアだった。
しかし……と、ユリアンは、武装を取り払われた愛機の姿を脳裏に思い描く。
戦うための爪と牙を捨て去っても、竜はやはり気高く美しかった。
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