第四話:第606戦闘航空団 -JG606,1945-

第606戦闘航空団 -JG606,1945-(一)

 最後の大竜公グロースドラッフェン・ヘルツォークレオポルトⅢ世――本名レオポルト・トゥーゲンフルス・ゼッケンドルフが崩御したのは、終戦から二年後の1947年の晩秋だった。

 享年二十歳。

 レオポルトⅢ世には正室であるマルガレーテ妃のほかに三人の側室がいたが、いずれの妻妾とも子を成すことはなかった。

 彼の死によって、およそ五百年の長きに渡ってアードラー大陸を支配してきたゼッケンドルフ朝の血統は断絶した。

 その臨終を看取ったのは、四人の妻とわずかな側近だけだった。

 彼が君臨すべき大竜公国グロースドラッフェンラントは敗戦とともに消滅した。戦後のレオポルトⅢ世はポラリア本国に連行され、事実上の軟禁状態に置かれていたのである。

 国を挙げての荘重な葬礼も、祭壇を埋め尽くす弔花も、巨大な陵墓みささぎも、亡国の帝王にはどれひとつとして与えられなかった。

 亡骸はポラリア政府によって入念に火葬され、遺灰は海に撒かれた。死後の神格化を防ぐためであることは言うまでもない。

 レオポルトⅢ世の死がアードラー大陸の全土に通達されたのは、それからさらに一年後のこと。

 ポラリアが猛反発を懸念したのとは裏腹に、その早すぎる死を悲しむ者はあまりに少なかった。

 戦後の混乱期を生きる人々にとって、大竜公も大竜公国も、すでに過去のものとなっていたのである。


***


 白い雲が流れていった。

 ユリアン・エレンライヒは、川の堤防に寝転がって空を見上げる。

 遠くで列車の汽笛が聞こえる。風が吹き抜けるたび、背の高い雑草がそよそよと葉擦れの音を立てた。

 空軍基地から歩いて五分とかからないこの場所は、首都ラウテンヴェルクの郊外とは思えないほどのどかな風景が広がっている。

 出撃から戻るたび、ユリアンはここに足を向けた。

 基地の喧騒から離れるためだ。人間が多いところは苦手だ。戦果報告を終えればすぐにでも逃げ出したかった。

 どのみち、一度出撃すれば八時間は搭乗シフトから外れるのだ。サラマンドラとは一緒にいられない。

 

「やはりここにいたか、エレンライヒ大尉」 


 ふいに声をかけられて、ユリアンはとっさに背後を振り返った。

 視界に飛び込んできたのは、空軍の制服を身につけたひとりの男だった。

 年齢は三十七、八歳といったところ。

 引き締まった長身と短く刈り上げた黒髪が見るからに精悍な印象を与える。

 片目は菱形の眼帯に覆われている。隻眼なのだ。

 軍服の右胸には大佐の階級章と、ロートの殊勲メダルが光っている。

 

「シュローダー大佐――」

「よせ、よせ。俺たちの部隊JG606で堅苦しいのはやめろ。これは命令だ」


 とっさに敬礼しようとしたユリアンに、シュローダー少佐はいかにも迷惑そうに首を横に振る。


 ランドルフ・シュローダー空軍大佐。

 ユリアンが所属する第六◯六戦闘航空団ヤークトゲシュバーダーの指揮官。

 彼は各部隊のエースパイロットを招集し、最強の戦闘機であるCaZ-170”サラマンドラ”を集中運用する竜騎士ドラッフェンリッター計画の発案者だった。

 自身も現役の戦闘機乗りであり、二百三十三機という撃墜スコアを持つトップ・エースであるシュローダー大佐は、曲者揃いのパイロットたちの元締めだ。軍人というよりは、その風貌が示すとおり無法者のかしらと言うべきかもしれない。

 ここでは純粋に実力だけがすべてだった。パイロットは上官に対する敬礼や敬語すら徹底されず、軍服を着崩したり髪を伸ばすことさえ許されている。

 第六◯六戦闘航空団、通称「六◯六戦ロクマルロクせん」は、空軍で最も功績を挙げているエリート部隊であると同時に、最も風紀が乱れた部隊としても知られているのだった。


「大尉昇進おめでとう。空軍ルフトヴァッフェの最年少記録だぞ」

「よしてくれ、大佐。俺は嫌だと言ったはずだ。なぜ昇進を止めてくれなかった」

上層部うえが決めたことだ。それに、いつまでも記録は誤魔化せん」


 飄々と言ったシュローダー大佐に、ユリアンは露骨に眉をひそめる。

 ユリアンは前々からように頼んでいたのである。

 自分が稼いだスコアを僚機に分け与え、実際の撃墜数よりも少なく申告する。それがだいぶ前からのユリアンのやり方だった。

 実際の撃墜数は百七十機を超えているが、記録の上では百五十機をようやく超えたところなのだ。

 むろん、昇進しないようにとの気遣いからそうしているのである。

 階級が上がれば、パイロットは戦闘以外にもさまざまな仕事を担うことになる。

 作戦指揮やパイロットの人事、機材の手配といった裏方仕事をこなさなければ、部隊は回らない。

 いまなお愛機を駆って第一線に立ち続けているシュローダー大佐にしても、指揮官として地上勤務によりおおきな時間と労力を割いているのである。


「とにかく、昇進はここで打ち止めだ。佐官になったら余計な仕事が増える」

「大尉、俺と一緒にデスクワークをするのはそんなに嫌か?」

「俺は戦闘機乗りだ。だから六◯六戦に呼ばれた――いいや、あんたが呼んだんだ、大佐。人を二階に上げておいて梯子を外すような真似をするな」

「もしうっかり昇進してしまったら?」

「そのときはあんたを殴って降格処分にでもなるさ」


 とても上官と部下とは思えない会話を交わしながら、それでも二人のあいだに険悪な雰囲気はまるでない。

 シュローダー大佐は軍服の懐から両切りの紙巻きたばこを取り出すと、オイルライターで火を付ける。

 戦争の長期化に伴う物資不足が深刻化するなか、いくら高級将校でも公然とたばこを喫うのは気が咎める。国から配給されるたばこは年々品質が低下し、高級なたばこや葉巻は法外な高値で取引されるようになっているのだ。

 この場所であれば、誰に気兼ねすることなく心置きなく一服することが出来る。

 大佐はたばこを一本ひょいと摘むと、ユリアンに差し出す。


「お前もたまにはどうだ?」

「知っているはずだ。俺はたばこはやらない」

「一日でも長くサラマンドラに乗っていたいから……だったな。すまん、すまん」

 

 白々しく笑いながら、シュローダー大佐はぷかぷかと紫煙の輪を吐き出す。


 変わり者ぞろいの六◯六戦でも、ユリアン・エレンライヒは飛び抜けた変人として有名だった。

 酒もたばこも博打も女も、金灰色アッシュグレイの髪の青年はまるで興味を示さない。食事といえば代用コーヒーと黒パン、そして塩漬け肉の缶詰だけ。

 パイロットには潤沢な食料と高額の給与が与えられているにもかかわらず、誰に命じられた訳でもないのに囚人のような生活を送っている。

 幹部将校のための社交サロンに出入りする資格を持ちながら、そういった華やかな場に顔を出したことなど一度もない。

 そんな彼が唯一真剣になるのは、自分が乗っている戦闘機――サラマンドラのことだけだ。

 人間というよりはむしろ機械のようなこの青年を他の隊員は敬遠したが、シュローダー大佐はむしろ好ましく思っていた。


「心配しなくても、お前はこれ以上昇進することはないだろう」

「なぜそう言い切れる?」

「この戦争はもうじき終わる。大竜公国の負けだ」


 それきり二人のあいだに沈黙が降りた。

 やがて口を開いたのはシュローダー大佐だった。


「どうした、大尉。なにか言うことはないのか?」

「あんたを祖国侮辱罪で憲兵隊に突き出す――とでも言ってほしいのか」

「そうしたければ好きにしろ。軍刑務所で休暇というのも悪くないかもしれん」

「間違いないんだな」

「お前も薄々分かっているはずだ。ティユールの絶対防衛線は崩壊した。大竜公国軍にはもう反撃に転じる余力は残っていない。ポラリア軍はこのままラウテンヴェルクめざしてまっすぐ南下してくる。もっとも、その前に爆撃で跡形もなく灰にされるかもしれんが……」


 ユリアンは黙り込む。

 前線のパイロットの実感として、すこしずつ敗北の影が忍び寄っていることは分かっていた。

 空襲の頻度が日を追うごとに増えているだけではない。

 この数ヶ月のあいだに、首都ラウテンヴェルクに来襲するポラリア軍はあきらかに様変わりした。

 それまで敵の爆撃機といえば四発の大型重爆ばかりだったのが、最近ではそれよりちいさな機体が目立つようになっている。

 それは取りも直さずポラリア軍の前線基地が南下し、航続距離の短い中・小型機であっても爆撃に参加出来るようになったということだ。

 護衛戦闘機の数も以前とは比較にならないほど増えている。どれもサラマンドラの敵ではないが、いずれ対応しきれなくなることは火を見るより明らかだった。


「とにかく、覚悟だけはしておくことだ。俺たちがどんなに頑張っても、戦争の勝ち負けにはこれっぽっちの影響も与えられん」

「俺はサラマンドラと一緒に死ねるならそれでいい」

「勘違いするなよ、大尉。あれは空軍の機体だ。お前の所有物じゃない」

「分かっている。だから、あの世に持っていけば、誰にも取り上げられずに済む」


 こともなげに言ってのけたユリアンを、シュローダー大佐はあっけに取られたような面持ちで見つめる。

 わずかな沈黙のあと、隻眼のエースは腹を抱えて大笑したのだった。

 

「ついでにひとつ悪いニュースがある」

「戦争に負けるよりもよくない報せか?」

「時期は未定だが、大竜公グロースドラッフェン・ヘルツォークレオポルトⅢ世陛下が我が六◯六戦に視察に来られることになった。普段は大目に見てきたが、陛下の御前ではせめて行儀よくしていろよ」

「たしかに最悪だな、それは」


 ユリアンは軍帽で顔を覆う。

 早く空に戻りたい。地面の上は、どっちを向いても面倒事ばかりだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る