凍てついた墓標(四・終)

 吹雪のなかをユーリはひたすら進む。

 谷底に墜落したバジリスクのところへ向かっているのだ。

 サラマンドラの送電ケーブルは規格品であり、他の大竜公国グロースドラッフェンラント空軍機と互換性がある。

 バジリスクの送電ケーブルが無事であれば、サラマンドラの発電機ジェネレーターと接続し、発動機エンジンを再始動することが出来るはずだった。

 だが、白く閉ざされた視界のなか、バジリスクを見つけるのは容易ではない。

 ユーリはコンパスの針だけを頼りに、一歩一歩踏みしめるように前進する。

 人間の感覚は容易に狂う。極限状態では自分よりも計器を信じるのがパイロットの鉄則だった。


 そうしてしばらく進むうちに、どうにか谷の入口に辿り着くことが出来た。

 夕暮れ時とは比べものにならないほど濃密な闇が谷間を埋めている。

 懐中電灯の細長い光条が闇を裂き、バジリスクを照らし出す。

 ユーリはバジリスクに近づくと、コクピット後方のメンテナンスパネルに手をかける。

 パネルのすぐ下には弾痕が斜めに走っている。もし機関砲の弾が送電ケーブルを傷つけていれば、部品を移植してサラマンドラを修理することも出来なくなる。

 ユーリはメンテナンスパネルの内部に懐中電灯を突っ込み、目当てのものを探す。

 送電ケーブルはすぐに見つかった。見たところ傷はついていないようだ。

 安堵している暇はない。

 ユーリは注意深くケーブルを引き抜くと、そのまま担ぎ上げる。

 ずっしりとした重みが肩に食い込む。


「……借りていくぞ、大尉」


 もはやバジリスクのほうを振り向くこともなく、ユーリは来た道を辿っていく。

 サラマンドラが待っている。

 竜はまだ生きている。こんなところで朽ち果てさせる訳にはいかない。

 ふらつき、何度も倒れそうになりながら進むうちに、サラマンドラの輪郭が吹雪のなかに浮かび上がった。

 視界はじょじょに鮮明になっている。吹雪の勢いも先ほどよりいくらか弱まっているらしい。


 上空から奇妙な音が降ってきたのはそのときだった。

 航空機だ。それも、過給器スーパーチャージャー付きの液冷発動機エンジンに特有の爆音である。

 ユーリが頭上を振り仰いだのと、黒い影が通り過ぎていったのは、ほとんど同時だった。

 ポラリア空軍の主力戦闘機AF-15D”バーゲスト”。

 大戦末期に配備された、ポラリア軍機のなかでも最強の性能をほこる重戦闘機である。

 サラマンドラ以外のあらゆる大竜公国側の戦闘機を圧倒したことから、”竜殺しドラゴン・スレイヤー”の異名を取ったことでも知られている。

 ティユール空軍の機体ではない。ポラリアは事実上の植民地であるアードラー大陸の諸国家にけっしてバーゲストを供給しようとはせず、意図的に性能を低下させた輸出用モンキーモデルさえ存在しないのである。


 いまユーリの前に現れたのは、ティユールに駐留するポラリア空軍の機体だ。

 おそらくティユール空軍からサラマンドラと遭遇したという報せを受けて、その真偽を確かめるためにランゲンベルグ山脈へと送り込まれたのだろう。

 ポラリア空軍では、戦闘機はつねに三機編隊で行動するのがセオリーである。ほかの二機は散開して別のエリアを捜索しているにちがいない。

 いま上空を旋回する一機も、吹雪のためにサラマンドラを発見するには至っていないようだ。

 山に激突する危険があるため、思うように高度を下げられないのである。

 とはいえ、それも時間の問題だった。

 これ以上吹雪の勢いが弱まれば、上空からもサラマンドラを視認出来るようになるはずだ。

 そのまえにサラマンドラを再始動させ、吹雪に乗じてこの場を離れなければならない。


 ユーリはサラマンドラの下に潜り込むと、メンテナンスパネルを開く。

 切れかかった三本の送電ケーブルを取り外し、発電機ジェネレーターと発動機をバジリスクのケーブルでふたたび繋ぎなおす。

 コクピットに戻り、始動スイッチを入れる。慣性始動機のフライホイールが低い音を立てて回り始める。

 それからしばらく待っても、機体にはなんの変化も生じなかった。

 ユーリはすばやく計器を確認する。電圧計の針が弱々しく震えている。

 電圧が上がらないため、始動に充分な回転が得られないのだ。

 送電ケーブルが劣化していたのだろう。墜落の衝撃に晒されたうえに、戦時中から山中に放置されていたことを考えれば当然だった。

 悩むまえに、ユーリは機外へ飛び出していた。

 胴体側面の小物入れを開き、イナーシャハンドルを取り出す。

 手動で発動機を再始動させようというのだ。

 先ほどとは異なり、いまは多少なりとも電力の補助がある。人力でフライホイールの回転を助けてやれば、発動機に火を入れることが出来るかもしれない。


 ユーリは上空を睨む。バーゲストはいったん離れたあと、またこちらに近づいてきている。

 もはや猶予はない。

 空中では無敵を誇ったサラマンドラも、地上では無力なのだ。

 バーゲストに搭載されている三◯ミリ機関砲が直撃すれば、無敗の竜はなすすべもなく打ち砕かれるだろう。

 あらんかぎりの力を込めてユーリはイナーシャハンドルを回す。

 三◯◯◯馬力の発動機エンジンはなおも沈黙し、始動にはかなりの力を必要とする。


(駄目か――――)


 諦めかけたとき、ふいに手応えが軽くなった。

 まるで誰かがユーリに手を貸してくれているような、それは奇妙な感覚だった。

 回転数が上昇し、自動点火装置イグニッション・スターターが起動。

 轟音が冷たい夜気を震わせた。

 眠りから覚めたアルモドバルX型二十四気筒液冷発動機エンジンは、みずからの存在を誇示するように力強い咆哮を上げる。

 コクピットに戻ったユーリは、迷うことなくスロットルを全開。燃料噴射濃度を上限いっぱいに、ブースト圧もやはり最大に引き上げる。

 本来なら推奨されない緊急離陸用の荒っぽい操作手順だが、いまはまさにその緊急時なのだ。

 車輪のブレーキを解除すると同時に、サラマンドラはゆっくりと氷河の上を滑り始める。


 上空を旋回していたバーゲストもこちらの存在に気づいたようだった。

 おおきく弧を描きながら、地上滑走中のサラマンドラに対して最適な射撃ポジションを取ろうとする。

 バーゲストへの搭乗を許されるほどのパイロットであれば、地上の標的を狙い撃ちするのは造作もないことだ。

 吹雪を切り裂いて三◯ミリ機関砲の火線が走った。

 サラマンドラへとまっすぐに吸い込まれるはずのそれは、しかし、主翼を掠めてあらぬ方向へと逸れていった。

 折からの視界不良に加えて、地面との激突を恐れたパイロットが操縦桿を起こしたことで、弾道がわずかにブレたのだ。

 バーゲストは再度の攻撃を仕掛けるべく急旋回に入るが、そのあいだにサラマンドラは早くも離陸速度に達している。


 凍てついた大気を力強く掴み、サラマンドラは大地を蹴る。

 必死に追いすがろうとするバーゲストを尻目に、ユーリとサラマンドラは夜空へと駆け上がっていった。


***


 サラマンドラがマドリガーレの飛行場に戻ったのは、その日の夜更けだった。

 途中でオーディンバルト空軍のリザード改に空戦を挑まれるというハプニングこそあったものの、ユーリは追撃を難なくかわし、無傷で帰還を果たしたのだった。

 

「おかえり。もう帰ってこないかと思った――」


 泣き腫らした目元を隠しながら、テオはせいいっぱい明るく出迎える。

 機体を降りたユーリは、事の経緯を語り始めた。


「今回はから目を離した俺のミスだ。お前の整備は完璧だった」


 飛行用手袋フライトグローブを外したユーリは、テオの頭を撫でる。


「それと――チョコレート、ありがとう。今度からは三本入れておいてくれ」

「ユーリ、甘いもの嫌いじゃなかった?」

「好きになったよ。おかげで命拾いしたからな」


 ふっと微笑んで、ユーリはフライトジャケットの内ポケットに手を差し込む。

 取り出したのは、リサ・キッペンベルグに宛てたレルヒ大尉の手紙だった。


「これを墜落現場で見つけた。依頼人に渡したい」

「あのねユーリ、そのことなんだけど……」

「どうかしたのか?」

「じつは……」


 ユーリの問いかけに、テオはためらいがちに言葉を継いでいく。


「ユーリが飛び立ったあと、街の銀行にあの小切手を持っていったんだ。本物かどうか確かめたくてさ」

「偽物だったのか?」

「ううん。間違いなく本物だって認めてもらえたよ。ただ、銀行の人から妙な話を聞いて……」


 テオは言葉を濁す。そのさきを口にしていいかどうか逡巡しているのだ。


「リサ・キッペンベルグは有名な資産家のひとり娘だったけど、戦争が終わる直前に病気で亡くなったって。本人の遺言で口座はそのままにしてあるから、生前のサインがある小切手なら引き出しは問題なく出来ると言われたけど――」


 リサ・キッペンベルグはすでにこの世にいない。

 ならば、あの晩、飛行場を訪れた女性は何者だったのか。

 ユーリはリサが乗っていた車のことを思い出していた。

 明くる日の朝、ユーリは気になって飛行場の前の道路を調べたのである。

 どれほど目を凝らしても、ついに地面の上にタイヤの跡を見つけることは出来なかった。

 

「テオ、彼女が置いていった指輪は持っているか?」

「金庫のなかに保管してあるけど――」

「この手紙も一緒にしまっておいてくれ」


 いつか取りに来たときのために。

 喉まで出かかった言葉を、ユーリは飲み込む。

 リサと会うことはもう二度とない。そんな確信があった。

 ユーリは谷底の残骸のことを思う。

 白く凍りついた大地で、バジリスクは花嫁衣装を抱いて眠り続けるだろう。

 戦争に引き裂かれた恋人たちの、それは幸せな墓標だった。


【第三話 完】

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