凍てついた墓標(三)
ユーリは中身を検めようとはしなかった。
この封筒を開ける権利があるのは、この世でただひとり。
戦に出たきり帰らない婚約者を、今日までずっと待ち続けた彼女だけだ。
これを持ち帰れば、受取証明書の代わりとしては充分だろう。
ユーリは
レルヒ大尉が生きていようといまいと、それはユーリの与り知らぬことだ。依頼人の個人的な事情に深入りはしないのが配達人の流儀だった。
仕事を終えたユーリは、最後に一度だけバジリスクを振り返る。
バジリスク――伝説に名高い魔眼をもつ「蛇の王」。
もう二度と大空を羽ばたくことのない機体は、この先もずっと人知れずこの谷間で眠り続けるだろう。
遠い未来、いずれ氷河がこの谷にまで進出したなら、バジリスクも飲み込まれるはずだ。永久に溶けることのない氷の奥底で、花嫁衣装を懐に抱いて凍りついた異形の偵察機。ユーリの
谷は墜落地点より先まで続いているが、ユーリはレルヒ大尉の足跡を探そうとはしなかった。それは自分の仕事ではない。すべてはもう終わったことなのだ。
ユーリはサラマンドラのもとへ足を向ける。
氷河の上で主人の帰りを待つ愛機をいつまでも放っておけない。一度は振り切ったティユール空軍の機体が追ってくる可能性もある。
重い荷物を下ろしたためか、帰路は往路よりもだいぶ短く感じられた。
ユーリは機体の点検を手早く済ませ、コクピットに滑り込む。
反応なし――何度試しても結果は同じだった。
どうやら
サラマンドラには冗長性を確保するために二基の発電機が搭載されている。たとえ主発電機が故障した場合でも、副発電機によって電力供給は滞りなく行われる。そして、もし主・副の両方に異常が発生したとしても、
都合三系統ある電気系統がすべて沈黙したとは、にわかには信じがたいことだった。
戦時中からずっとサラマンドラに乗っているユーリは、たとえ戦闘で手ひどく被弾したとしても、そのような事態はそうそう生じないことを経験的に知っている。
故障の原因について思い当たる節はない。ここまで被弾することもなく、なにより出発にあたってテオが入念に機体を整備しているのである。
周囲は早くも宵闇に閉ざされようとしている。
早々にこの場から飛び立たなければ、極寒の地で一夜を過ごすことになる。
ユーリはふたたび機外に出、胴体側面の小物入れを開く。
応急修理機材やサバイバルキットのなかから取り出したのは、取っ手のついた一メートルほどの鉄棒だった。
発動機を手動で始動させるためのイナーシャハンドルである。
先端をクランクに差し込み、手で回すことによってモーターに回転を与えるのだ。
ユーリは渾身の力を込めてイナーシャを回す。
ドロドロと低い音を立ててモーターが回り始める。このままじょじょに回転数を上げ、スターター・クラッチが繋がれば、”竜の心臓”はふたたび息を吹き返すはずだった。
そうするうちに数分が経った。
ユーリはイナーシャハンドルから手を放すと、氷河の上にがっくりと膝をついた。
吐く息が白い。額からは滝のように汗が流れ落ちる。
汗は外界に出た瞬間に熱を奪われ、ユーリの身体は火照る間もなく冷えていく。
”竜の心臓”――アルモドバル二十四気筒液冷X型
サラマンドラに電気式の再始動装置が搭載されているのは、けっしてパイロットや整備員の利便性のためだけではない。
これほどの大馬力とトルクをもつ発動機を人力で始動させるのはまず不可能だからだ。
まして高山のような極限環境では、人間の筋肉は冷えて硬直し、さらに酸素も薄いためにますます始動の難易度は上がる。
これ以上イナーシャハンドルによる人力始動を試みれば、いたずらに体力を消耗し、かえって生命の危険を招くことになるだろう。
ユーリはイナーシャハンドルを小物入れに戻し、代わりに毛布とサバイバルキットを取り出す。
サバイバルキットの中身は数日分の水と
コクピットに戻ったユーリは、冷えた汗を拭いながら水筒に口をつける。
水の冷たさが喉を刺す。内臓が凍りつくような感覚に耐えながら、ユーリはどうにか嚥下する。
風防から外を見れば、白雪を冠した山々の峰が濃紺の闇に浮かんでいる。
バジリスクのパイロット――レルヒ大尉もこんなふうに心細い夜を過ごしたのだろうか。
弾痕はコクピット付近にはなく、座席には血痕らしいものも見当たらなかった。
だが、たとえ生きて機体から脱出したのだとしても、彼が無事に生還出来たとは考えにくい。
なにしろ、ここから最寄りの人里までは百キロ近くある。
季節が真冬であったなら、途中で力尽きて行き倒れた可能性のほうがずっと高いはずだった。
しかし――と、ユーリは瞼を閉じながら思う。
仮にレルヒ大尉が死んでいなかったとすれば、自分が生きていることを婚約者にも知らせずにいまもどこかで暮らしていることになる。
リサにとってはどちらが幸せだろうか。
彼女が過ごしたこの六年間は、どちらにしても報われはしないだろう。
そんな取り留めもない考えをもてあそびながら、ユーリはいつしか眠りに落ちていった。
***
――さよなら、ジュリアン。
遠くで名前を呼ばれた気がした。
それはたしかに自分の名前であったはずなのに、いまはもう誰からも呼ばれることはない。
遠ざかっていく女の後ろ姿がみえる。その傍らには見知らぬ男。待ってくれ。僕を置いていかないで。
母さん、お願いだ。僕を捨てないで。一緒に連れて行ってよ。
――ユリアン、お前は俺のように立派な軍人になれ。そして、お前を捨てたあの女を見返してやるんだ。
耳障りな声が命じた。
シワとシミだらけの陰気な顔が見つめている。
伸び放題の
よれよれの汚らしいガウン。サイドテーブルの上には、残りわずかな安酒の壜と、曇ったグラス。
右腕は肘から先がない。前の戦争で失くしたのだ。戦争の英雄は、俺が生まれたときにはもう酒浸りの廃人だった。
俺の前から消えてくれ、と強く願う。母さんが俺を捨てたんじゃない。あんたが俺を捨てさせた。
そうだろう、親父。
――受勲おめでとう、ユリアン・エレンライヒ少尉。君はわが
次に現れたのは、勲章に埋め尽くされたぴかぴかの軍服の上に弛んだブタ面を載せた中年男だった。
空軍元帥だ。名前は忘れてしまった。どうでもいい。飛行機に乗らなくなった人間など興味もない。
俺はぎこちなく敬礼を返し、いかにも感激している風でメダルを受け取る。
竜が彫り込まれた
いますぐ突っ返してやりたい衝動を抑えながら、俺はサラマンドラのことを思う。
戦争は続いている。戦わなければ。こんなことをしている場合じゃない。
早く俺を戦場に帰してくれ。
――行ってらっしゃい、ユーリ。気をつけて。
ツナギ姿の相棒が手を振るのがみえる。
テオ。
戦争のあと、すべてを失った俺と一緒にいてくれるのはあいつだけだ。
本当ならもっとまっとうな人生を送れただろう。
その邪魔をしているのは俺だ。あいつを縛り付けている。
このままではいけないと分かっているのに、俺はいつまでこんなことを続けるつもりだ?
遠い爆音が聞こえてきた。サラマンドラ。竜が吠えている。
俺に目覚めろと叫んでいる。
***
ユーリは薄く瞼を開いた。
とっさに航空時計に視線を走らせる。
疲れが出たのか、コクピットに座ったまま三時間ほど眠りこけてしまったらしい。
コクピット内は氷の棺みたいに冷え切っている。
高高度飛行用の与圧装置も、飛行服に内蔵された電熱線も、機体からの電力供給がなければなんの役にも立たない。
手足の指が問題なく動くのを確かめる。さいわい凍傷には罹っていない。もし一晩おなじ姿勢のまま眠り続ければ、冷気にやられていた可能性は充分ある。
どうやらティユール空軍の機体にもまだ発見されていないらしい。
ふと空腹を感じて、ユーリは
缶詰入りの乾パンと、未開封のチョレートバーが二本ばかり見つかった。
テオが入れたのだとユーリは思う。サバイバルキットの管理は任せているし、それにあいつは俺と違って甘いものが好きだから。
ユーリは迷わずチョコレートバーを選んだ。銀色の真空包装を破り、茶褐色の菓子に齧りつく。
戦争中、ポラリア軍の兵士は戦闘中でもチョコレートバーをよく食べていた。
大竜公国の軍人はその様子を見て「まるで子供だ」と嘲笑していたが、いまなら敵が好んで食べていた理由がわかる。
二本のチョコレートバーを相次いで胃に収めたユーリは、この状況を打開するための方策を考え始める。
まもなくユーリの脳裏にありありとよみがえったのは、途中で立ち寄った
そして、あのときサラマンドラを売ってくれとしつこく食い下がった同業者の顔……。
ユーリは機外へ出る。
コクピットにいるときは気づかなかったが、一帯には吹雪が吹き荒れている。
視界は白く塗り潰され、数メートル先も見通せない。これでは上空からサラマンドラを見つけることは出来ないだろう。
翼の縁を掴みながら、ユーリはサラマンドラの着陸脚のあいだに潜り込んだ。
そして機体下面のメンテナンスパネルを開き、鉛蓄電池と発電機から
予想は的中した。
送電ケーブルは三本とも切れかかっている。これでは再始動に必要な電力を供給出来るはずもない。
あの同業者がユーリにあしらわれた腹いせにやったのだ。
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