凍てついた墓標(二)

 白雪をまとったするどい峰々が天に挑んでいた。

 ランゲンベルグ山脈。

 三千メートルから六千メートル級の高山が複数寄り集まって形作られた、アードラー大陸北部を代表する大連峰である。

 大地にそそり立つ城壁のような威容は、古代から人々の畏怖と信仰の対象とされてきた。山々はいにしえの神々が姿を変えたものであり、それゆえに最果ての地ヒュペルボレイオスから北風に乗ってやってくる悪魔はランゲンベルグ山脈を超えられないというのが、大竜公国グロースドラッフェンラントに伝承されている伝説だった。

 その一方で、切り立った岩壁や細く急な峠道は人馬の通行に適さず、毎年のように夥しい死者と遭難者を出したことから、魔の山とも呼ばれたのだった。

 やがて航空機が実用化され、人の支配が天空にまで及んでも、ランゲンベルグ山脈は魔の山であり続けた。

 山の気候は変わりやすく、一年のほとんどの期間を通して山中には濃霧が立ち込めている。雲が低く垂れ込める日には、山頂がまったく見えなくなることもしばしばだった。

 雲のなかを飛行していた航空機が知らずしらずのうちに山肌に激突し、パイロットは脱出する間もなく機と運命を共にするといった悲惨な事故は、知られているだけでも五十件あまり生じているのである。

 パイロットたちがその種の事故を「山に食われる」と表現したのも、あながち不謹慎な冗談とは言いきれなかった。

 ランゲンベルグ山脈で遭難した者のなかには、空を知り尽くしているはずの熟練パイロットも少なくない。

 大竜公国空軍のクルト・ツヴィンゲン・レルヒ大尉もそのひとりだった。

 飛行士養成学校の指導教官を務めるほどの技術と経験をもち、ピーキーな飛行特性で知られたDe-910”バジリスク”を自分の手足のように操ったレルヒ大尉は、愛機とともに魔の山に食われたのである。


*** 


 マドリガーレの飛行場を離陸したサラマンドラは、いったん公海上に出たあと、アードラー大陸をおおきく迂回するようにティユールに進路を取った。

 距離にしておよそ五千キロ超の長旅である。いかに航続距離が長いサラマンドラといえども、補給なしではランゲンベルグ山脈に辿り着くまえに燃料切れに陥る。

 ティユールに入ってまもなく、ユーリは運び屋たちが利用する燃料屋ガス・ディーラーに立ち寄った。

 燃料屋とは言うものの、その実態は戦時中に建設された野戦飛行場に無許可で住み着き、地下の燃料貯蔵タンクに溜め込んだガソリンを売りさばいて利ざやを稼ぐ違法業者である。燃料だけでなく、顧客の求めがあれば機体の修理やパイロットへの食事や宿泊施設の提供、果ては武器弾薬の販売まで手広く対応している。

 どのサービスも相場よりいくらか高くつくものの、航空郵便会社や運び屋にとっては長距離飛行を支えるオアシスなのだ。

 例によって例のごとく、地上に降り立ったサラマンドラは注目の的になった。

 何機分かのスクラップを無理やり繋ぎ合わせたのだろうチグハグな色合いの輸送機や、飛ぶ骨董品といった趣の旧式複葉機のなかにあって、美しくも威圧的な逆ガル翼の大型戦闘機はいやでも目を引く。


――金ならいくらでも出す。たのむ、その飛行機を売ってくれ!


 必死に懇願するを軽くあしらいつつ、ユーリは乾いたサンドイッチを苦いだけの粗悪なコーヒーで流し込むと、ふたたび機体に戻る。燃料補給はすぐに終わった。さんざん荒くれ男たちに鍛えられているだけあって、作業員の仕事は迅速なのだ。

 X型発動機エンジンの独特な爆音を響かせながら離陸したサラマンドラは、そのまま機首をランゲンベルグ山脈へと向ける。

 途中でティユール空軍の哨戒機と出くわすというトラブルこそあったものの、サラマンドラの速度であれば振り切るのは容易だった。


 ランゲンベルグ山脈に到着したのは、日も暮れかかった時刻だった。

 レルヒ大尉のバジリスクが墜落しているという谷には、あらかじめ目星をつけてある。

 そのすぐ近くに数キロに渡って平坦な土地が広がっていることも、周辺の地形図から読み取ることが出来た。

 むろん、山中にだだっ広い平野が存在する訳ではない。決して溶けることのない氷と雪に埋まった深い峡谷、すなわち氷河であった。

 数万年の時を経た氷河は固く引き締まり、表層部はほとんどコンクリートのような硬度をもつ。

 空母への着艦にも耐えるサラマンドラの”竜の脚”であれば、問題なく降りることが出来るはずだった。


 ユーリは危なげなくサラマンドラを氷河に着陸させる。

 機体が氷上で完全に停止したことを確認して、ユーリは機外に出る。

 現在の標高は三五◯◯メートル。

 主要な峠道を離れたこのあたりには、わざわざ近づく人間もいないらしい。周囲には人の気配はおろか、足跡さえ見当たらない。

 黄昏に染まりつつある白い世界はしんと静まりかえって、時おり吹く風の音がいっそう寂寥感をかき立てた。

 ウェディングドレスを詰めたバッグを脇に抱えたまま、ユーリは谷を目指してまっすぐに進んでいく。念のため短機関銃の革帯スリングをたすき掛けし、左手には軍用の懐中電灯を携えている。

 大地に刻まれた亀裂は細く深く、昼日中でも太陽の光が谷底を照らすことはけっしてない。

 いままで墜落した機体が発見されなかったのも道理だった。

 谷を詳しく調べたいなら、こうして徒歩で近づくしかないのだ。


「――――」


 しばらく進んだところで、ユーリはふと足を止めた。

 懐中電灯から伸びた細い光が照らし出したのは、谷底にうずくまった航空機の残骸だった。

 機体は大竜公国空軍のシンボルカラーである暗灰色ダークグレイに塗られている。

 他に類を見ない双胴・双発・双尾翼の特異なフォルムは、バジリスクの最大の特徴だ。

 両翼は付け根から無惨にちぎれ、墜落の際に加わった衝撃のすさまじさを物語っている。

 ユーリは注意深くバジリスクの残骸に近づいていく。

 胴体右側面に書かれたL.Kの白文字はすぐに見つかった。レルヒ大尉の機体だ。

 おそらく着陸脚を出す暇もなく地面に叩きつけられたのだろう。機体の表面は波打ち、各部の継ぎ目はめくれあがっている。

 胴体側面に穿たれた破孔は、口径からポラリア軍の航空機関砲の弾痕とみてまちがいない。

 墜落に至るまでの詳しい経緯はもはや知る術もないが、ランゲンベルグ山脈の上空で敵機の攻撃を受け、操縦系に致命的な損傷を受けたといったところだろう。昇降舵エレベーター方向舵ラダーと連動する操縦索が切れれば、どんな高性能機だろうと飛び続けることは出来なくなる。

 バジリスクに搭載されている武装は自衛用の七・七ミリ機銃だけだ。

 そのうえ機体は高速性能を追求した代償として小回りが利かず、敵機と遭遇した場合はひたすら逃げに徹するほかない。旋回性にすぐれる戦闘機に食いつかれたなら、まず勝ち目はないのである。

 ユーリは機首のあたりを見やる。

 機体が激しく損壊しているなかで、奇跡的に風防キャノピーは割れずに残っている。

 防弾ガラスは白く濁り、コクピット内の様子を窺い知ることは出来ない。

 風防の下部には緊急用の開閉レバーが隠されている。外部からパイロットを救出するために設けられているものだ。ユーリは慣れた手つきでアクセスパネルを開き、ガス圧作動方式のレバーを引く。

 シリンダーが作動する小気味いい音とともに、風防がひとりでに持ち上がっていく。

 やがて風防が完全に開いたところで、ユーリは訝しげに眉根を寄せた。

 コクピットはからだった。

 彼が消息を絶ったのは1944年末。それからわずか六年しか経っていない。

 こんな短期間で死体が跡形もなく分解されるなど絶対にありえない。寒冷な高山には微生物が少なく、条件にもよるが死体は腐ることなくミイラ化するのである。

 レルヒ大尉は墜落後、自力で機体から脱出したのか。

 手がかりを探してコクピット内を調べるうちに、ユーリは座席シート下になにかが落ちていることに気づいた。

 手に取ってみれば、それは一通の手紙だ。

 詳しく調べるまでもなく、達者な筆跡で書かれた宛名に気づくのは容易だった。

『親愛なるリサ・キッペンベルグへ』――。


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