第三話:凍てついた墓標

凍てついた墓標(一)

 その客が飛行場を前触れもなく訪ったのは、すっかり夜も更けきった時刻ころだった。

 午前二時十分。

 時ならぬ呼び鈴の音が秋の冷えた夜気を震わせたのである。

 もともと決まった営業時間は設けていないとはいえ、こんな時間に押しかけてくるのがまともな客であるはずはない。

 金目のものを狙ってやってきた強盗か、それともサラマンドラを押収しようとやってきた軍関係者か。どちらにせよ、すみやかにお引取り願わねばならない。

 それぞれ短機関銃とトルクレンチを構えながら門に近づいていったユーリとテオは、困惑したように顔を見合わせた。

 門の外にぽつねんと佇んでいたのは、ひとりの女だった。

 

「サラマンドラ航空郵便社というのはこちらですか」


 女は二人の顔を交互に見つめると、か細い声で問うた。

 同時に、電灯の薄明かりのなかに女の姿がゆらりと浮かび上がる。

 美しく、そして儚げな風情を漂わせる女だった。年の頃は二十歳を過ぎたかというところ。

 白いハイネックセーターとロングスカートに、ウールの乗馬用外套ルタンゴトを羽織った出で立ちは、いかにも上流階級の子女らしい趣きがある。

 どこか人形じみた青白い顔貌のなかで、口紅ルージュだけがやけに艶かしくあざやかだった。

 蜂蜜色ブロンドの髪をひとつ結びにした女は、氷色の視線をユーリに向ける。


「たしかにそのとおりだが――」

「よかった。じつは、どうしても依頼したいことがあって来たんです」

「それはべつにかまわないが、わざわざこんな夜中に来る必要はないはずだ」

「ごめんなさい。私、夢中で車を走らせて来たもので……」


 ユーリは女の肩越しに視線を走らせる。

 女の背後に停まっているのは、一台の白い自動車だ。

 戦前、大竜公国グロースドラッフェンラントの国民車として普及したハッチバックタイプの小型乗用車である。

 戦後はポラリアからより安価で高性能な自動車が輸入されるようになったことでだいぶ影が薄くなったものの、現在でもアードラー大陸全域で広く使用されている名車だ。

 軍用車両としてもおなじみの丸っこいフォルムを眺めつつ、ユーリはいわく言い難い違和感を覚えていた。


「申し遅れました。私、リサと申します。リサ・キッペンベルグ――」

「ミス・キッペンベルグ。もう夜も遅いことだし、とりあえず話は事務所で聞こう。あんたの車も飛行場のなかに入れるといい」

「いえ……ここで構いません。用件が済めば、すぐに帰ります」


 リサの言葉は丁寧だが、それでいて有無を言わせない迫力が宿っている。


「こちらの会社は、頼めばどこへでも荷物を届けてくれるんですよね」

「誰に聞いたか知らないが、うちは非合法モグリの業者だ。それに料金も安くは……」

「分かっています」


 こともなげに言って、リサは懐から一枚の小切手を取り出す。

 大竜公国グロースドラッフェンラント時代の国立銀行印が捺されたそれは、終戦から五年を経たいまでも効力を失っていない。マドリガーレ中央銀行に持ち込んだなら、額面通りの現金を引き出すことが出来るのである。

 いまリサが手にしている小切手は白紙だった。請求された分だけ支払う意志があるということだ。

 

「これだけでは信用出来ないというなら、どうか前金代わりに――」


 リサが二人に示したのは、ブルーサファイアが嵌め込まれた指輪だった。

 絶妙なカットが施された多面体は電灯の光を浴びて、きらきらと光輝いている。

 本物であれば、かなりの高値がつくだろう。

 テオは指輪を矯めつ眇めつしながら、ほうとため息を漏らした。

 

「これ、もしかして婚約指輪エンゲージリングだったり……?」

「ええ――でも、もう私には必要のないものですから」


 あくまでそっけなく言って、リサはふっと口元をほころばせる。


「私の依頼、聞いていただけますね」


***


 1944年の秋――。

 ポラリア軍はノイモント海峡を超え、ついに大竜公国の北部・ティユール辺境伯領への上陸を開始した。

 本土侵攻という未曾有の危機を前にしてなお、大竜公国の陸海空軍の足並みは一向に揃わなかった。

 三軍が頑迷な縄張り意識セクショナリズムに囚われ、戦場で互いの足を引っ張りあったこともある。だが、問題の根本はなお深いところにあった。

 戦争を始めた張本人である大竜公グロースドラッフェン・ヘルツォーク・ジギスムントがこの年の春に急逝したことで、国政はかつてない混乱をきたしていたのである。

 あらたに即位した十九歳のレオポルトⅢ世は戦争を指揮するにはあまりに若く、必然的に国家運営は亡き父の十二人の側近たちに委ねられることになった。

 十二元老と呼ばれる彼らは、本来であれば若き主君を補佐し、求めに応じて適切な助言を与えるべき立場にある。いわば大竜公のもうひとつの頭脳とでも言うべき存在であった。

 その彼らが真っ二つに割れたのである。

 元老たちの半数はポラリアとの早期講和を、もう半数は戦争の継続を主張し、どちらも一歩も譲ろうとはしなかった。

 玉座に就いてまもないレオポルトⅢ世は両派閥の板挟みとなり、主君でありながら、臣下に対してみずからの意見を述べることさえ許されないというありさまだった。もし旗幟を鮮明にすれば、主張を斥けられた派閥が反乱クーデターを起こす可能性もある。ただでさえ戦況が逼迫しつつあるなかで、国家が割れることは絶対に避けねばならなかったのだ。

 そんなレオポルトⅢ世の気遣いは、皮肉にも戦場において指揮系統の混乱をもたらす結果になった。

 それも致し方ないことだ。中央の方針は両派閥のあいだでたえまなく揺れ動き、時間だけがいたずらに経過していったのだから。

 三軍はポラリア軍への計画的な反攻作戦に出ることもままならず、各地でその場しのぎの防戦を展開するのが関の山だった。

 膠着状態も長くは続かない。ポラリアの攻勢はなおも熄まず、戦線は際限なく後退していくばかりだった。

 

 大竜公国空軍のクルト・ツヴィンゲン・レルヒ大尉に出撃命令が下ったのは、その年も終わりに近づいた十二月末のこと。

 当時ティユールに展開していた第一八戦闘航空団ヤークトゲシュバーダーのなかでも、レルヒ大尉が所属していた第三飛行中隊は、おもに偵察を主任務とする特務部隊だった。

 大竜公国で最もすぐれた速力をほこる単座偵察機――De-910H”バジリスク”を駆り、単独で敵中深く潜入する。そうして能うかぎり敵の情報を持ち帰り、参謀部に提供すること。それが彼ら特務部隊の唯一にして最大の使命であった。

 レルヒ大尉に下った命令は、ティユール沿岸部に展開したポラリア軍の配置図を掴むことだった。敵の制空圏内を突っ切るきわめて危険な任務であることは言うまでもない。

 夜明け前にティユール南東の空軍基地を離陸したレルヒ大尉は、予定のコースをなぞり、すべての偵察行動を終えて基地への帰路についた。

 そしてティユール中央部を東西に横切るランゲンベルグ山脈に差し掛かったところで、彼のバジリスクは突如消息を絶ったのである。

 追ってきたポラリア軍の戦闘機に撃墜されたのか、あるいは吹雪による視界不良のために山に激突したのか……。

 いずれにせよ、レルヒ大尉とその愛機は、まるで幻みたいに忽然と消え失せてしまったのだった。

 もともとランゲンベルグ山脈は航空機の事故が多発する”魔の空域”であり、偵察任務はつねに撃墜される危険と隣り合わせである。

 部隊の指揮官はレルヒ大尉の戦死を報告し、編制表にバジリスク一機の損失を計上しただけだ。軍隊、そして戦争という営みにおいて、個人の死はあくまで事務的な手続きのひとつにすぎない。

 北の空へ飛び立ったきり二度と還らなかったパイロットのことは、部隊でもいつしか忘れ去られていった。


***


「クルトは私の婚約者いいなずけでした。次の休暇で故郷に戻ったら、式を挙げようと約束していたんです」


 リサの面上をふっと乾いた微笑みがよぎった。

 あまりにもおおきな悲しみを抱いたとき、人はこんな表情を浮かべるものだ。

 涙という涙を流しきった者の、それは悲壮なまでに美しい笑みだった。


「どうしても彼に届けてほしい荷物があるんです」

「あいにくだが、いくらサラマンドラでも死人のところには届けられん」

「届け先は、彼の飛行機のところです」


 夜空を見上げながら、リサは坦々と語り始める。 


「すこしまえ、ランゲンベルグ山脈を端から端まで踏破したという登山家からこんな話を聞きました。ある場所を通りがかったとき、谷底に墜落している飛行機を見た……と」

「あの山は飛行機の墓場だ。それが君の婚約者の機体とは限らん」

「いいえ、彼の飛行機です」


 きっぱりと言い切ったリサに、ユーリとテオは揃って胡乱げな視線を向ける。


「べつに当てずっぽうで言っている訳じゃありません。その飛行機は、胴体に白文字でL.Kと書いてあったそうです。リサLキッペンベルグK。私のイニシャルです。彼は、自分の乗る機体にはいつも私の名前を書くと言っていましたから」

「それで、墜落した飛行機に届けたい荷物というのはいったいなんだ?」

「……ウェディングドレスを」


 リサが口にした意外な言葉に、テオは目を丸くし、ユーリはわずかに眉根を寄せた。


「私、彼が帰ってくるのをずっと待っていました。あの人にかぎって戦死なんてありえない。きっとどこかで無事でいるに決まってると、そう思ってウェディングドレスもずっと取っておいたんです」

「いまはもう信じていないのか?」


 ユーリの問いかけに、リサはちいさく首を横に振った。

 何気ないその所作には、千万の言葉にもまさる感情が満ちている。


「私、もうじき遠いところに行かなければいけないんです。未練を断ち切るいい機会だと思って、彼への思いが詰まった花嫁衣装を手放そうと決めました」

「終わった恋にけじめをつけるにしては、すこし大げさすぎるな」

「ええ。本当に、私もそう思います」


 努めて明るく言ったリサに、ユーリは無言で肯んじる。

 目的ははっきりしている。ありがたいことに金払いも申し分ない。

 そうなれば、航空郵便社が依頼を断る理由はもはやない。


「いいだろう――――その依頼、たしかに引き受けた」

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