アヒルたちの栄冠(四・終)

「考えだって?」


 訝しげに問い返したユーリに、ゴルドンはいつになく真剣な声色で答える。


≪カーゴポッドを海上投棄しろ。増槽とおなじ要領でコクピットから出来るだろう≫

「正気か、軍曹。そんなことをすれば血清は使えなくなる」

≪ポッドにも多少は防水性はあるはずだ。海に浮かんでるうちに俺がシードラゴンで近くに降りて、こっちに荷を積み替える。水上機なら滑走路が潰れていようと関係はねえ≫

「しかし、どうやってポッドを回収するつもりだ?」

≪俺はパイロットである前に漁師の息子で海兵だ。これでも泳ぎにかけちゃ自信があるんだぜ≫


 ユーリは答えなかった。

 ゴルドンの提案はほとんど自殺行為と言っても過言ではない。

 台風の眼に入って風雨が落ち着いているからといって、海が荒れていることに変わりはないのだ。

 どれほど水泳に長けた者であっても、荒波に飲み込まれてたちまち溺死するのが関の山であるはずだった。

 だが、この状況ではほかに選択肢がないことも事実だ。

 こうして逡巡しているあいだにもサラマンドラの燃料は失われ、血清の到着を待っている島民の生命も危うくなる。

 

≪迷っている時間がねえことは、旦那、あんたにも分かってるはずだ≫

「死ぬことになるかもしれないんだぞ、軍曹」

≪死ぬ? 俺がか?≫


 無線機からあふれたのは、ゴルドンの豪放な笑い声だった。


≪心配すんな――水上機乗りは不死身だ≫


***


 ゴルドン・ベルグマン軍曹は、それきり戻らなかった。

 血清を島の病院に無事に届けたあと、帰路で消息を絶ったのである。

 不幸中の幸いと言うべきか、細菌兵器による死者は出なかった。ゴルドンはこの事件における唯一の死者となったのだった。

 台風が過ぎ去ったあと、マドリガーレ海軍の艦艇と航空機による大規模な捜索が行われたが、ついに機体の断片すら発見することは出来なかった。

 乱気流に呑まれて墜落したシードラゴンは、そのまま人の手の届かない深海へと沈んでいった……。

 それが調査部隊の導き出した結論だった。

 軍当局は規定に則り、ゴルドン・ベルグマン軍曹の遭難を認定。あわせて生前の海軍軍人としての多大な功績を鑑み、少尉へと二階級特進させる措置が取られた。

 水上機パイロットが尉官に昇進したのは、大竜公国グロースドラッフェンラント時代も含めて史上初の例である。ほどなく水上機という兵器そのものが姿を消したこともあって、ベルグマンの誕生は、水上機とそのパイロットたちの戦いの歴史の掉尾を飾る格好になった。

 意外なことに、その余波は政界にも及んだ。

 ガブリエル・ジルベルト大統領はみずからの生命を捨てて島民を救った勇敢な水上機パイロットを激賞する議会演説をぶち、保守派の一部からも支持を取り付けたことで劣勢を挽回。明くる年の大統領選で対立候補を退けてみごと再選を果たしたのは、また別の話である。

 のちに海軍資料部が作成した公式調査書には、ベルグマン少尉は危険をかえりみず吹きすさぶ嵐のなかを、任務を達成したあとで非業の死を遂げたとだけ記されている。

 彼の最後の任務に同伴していたもう一機の航空機について、あらゆる資料はかたくなに口をつぐんでいる。

 

***


「今回はとんだ骨折り損だったねえ」


 駐機場エプロンに停まったサラマンドラにホースで水を浴びせながら、テオは深いため息をついた。

 洋上を飛行したことで、機体は塩分を含んだ風をたっぷり浴びている。こうして洗浄してやらなければ、外装に傷みが生じるのだ。

 ユーリはやや離れた場所に置かれた木箱に腰を下ろし、やはり潮風を浴びた部品を丁寧に拭っている。


「それにしても、マドリガーレ海軍もケチだよね。飛行場が使えなかったのはこっちの責任じゃないのに、手付金しかくれなかったんだから」

「それは違うな。連中は取り決めどおりの料金を払うつもりだったが、俺の方から断った。約束どおり仕事を果たせなかった以上、報酬をもらう訳にはいかん」

「もう、ヘンなところで律儀なんだから……」


 呆れたように言って、テオは機体にモップをかけていく。

 しばらく無言で作業に没頭していた二人だが、ふいにテオが口を開いた。


「ねえ、ユーリ。……そのゴルドンって人、やっぱり死んじゃったのかな」

「俺はそうは思わない」

「だって、そんな大嵐のなかで消息を絶ったなら、まず助かる見込みなんて――」

「普通の飛行機は海に墜ちればあとは沈むだけだが、水上機は船とおなじように浮かぶことが出来る。たとえ飛べなくなったとしても、発動機エンジンが生きてさえいれば前にも進める。それに……」

「それに?」


 首を傾げたテオに、ユーリはふっと微笑んでみせる。

 無愛想な青年がめったに見せることのない、それは昔の友人を懐かしむような表情かおだった。


「奴は最後にこう言っていた。――――水上機乗りは不死身だ、と」


 言って、ユーリは顔を上げる。

 晩夏の空から降ってきたのは、遠い発動機エンジンの鼓動だ。

 青く澄みわたった空を区切るように、白い飛行機雲がひとすじ流れていく。

 ユーリはまぶたを閉じる。

 いま現実に飛び去っていく機体はシードラゴンではなく、パイロットはゴルドン軍曹ではありえないだろう。

 それでも、ユーリの眼裏まなうらにありありと描き出されたのは、果てしない青空をただ一機で渡っていく下駄履き複葉機の姿であった。

 まばゆい陽射しのなか、夢と現の機影は、どちらも幻のように遠ざかっていった。


【第二話 完】

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