少女画家と戦闘機(六・終)
時計の針が午後二時を過ぎたころ。
早朝からの仕事をようやく片付け、長椅子の上でまどろんでいたジュゼッペ・フロレスを目覚めさせたのは、どこからか流れてきた奇妙な音だった。
重低音にわずかな高音が混じったそれは、未知の怪物の叫び声のように恐ろしげで、それでいてついつい耳を傾けたくなるような響きを含んでいる。
どうやら機械の作動音らしいが、自動車や発電機とはあきらかに様子がちがう。
何事かと鍛冶工房の外に出てみても、眼前に広がっているのは普段と何も変わらないエルベナシュののどかな風景だ。
ただ、音だけは相変わらず聞こえている。
それどころか、こころなしか先ほどよりも大きくなっているようだった。
ジュゼッペの脳裏によみがえったのは、戦争も終わりにさしかかった時期の記憶だ。
あのころ、敵味方の戦闘機が毎日のようにこのあたりを飛び交っていた。頭上を飛び去っていったさまざまな
訝しげに空を睨んだジュゼッペは、村を囲む山々の彼方にぽつねんと浮かぶ黒点を認めた。
数秒と経たないうちに、それははっきりと飛行機の形を取っていた。
逆ガル翼の流麗な機体。
飛行機には疎いジュゼッペだが、その機体の名前だけは知っている。
サラマンドラ――大竜公国が世界にほこる最強の戦闘機。
主翼後端のフラップをフルダウンさせたサラマンドラは、エルベナシュの上空をぐるりとひと回りする。
(あそこに降りるつもりか――)
サラマンドラがどこに着陸しようとしているのかを、ジュゼッペは即座に看破していた。
工房の近くには、辺鄙な土地には不似合いなほど広い道路が走っている。
戦時中に整備されたものだ。来たるべき本土決戦の際には非常用滑走路として利用されるという触れ込みだったが、ついに一度も航空機が離発着を行うことなく終戦を迎えたのだった。
はたして、サラマンドラは太い着陸脚を降ろすと、迷いなく道路へと降下していった。
集落に戦闘機が着陸するという異常事態にもかかわらず、人々が集まってくる気配はない。
それも当然だ。もともと僻地の村だったエルベナシュは、戦中・戦後の混乱と人口流出を経て、いまやフロレス家を含めて十戸ほどの家がまばらに点在しているにすぎない。ジュゼッペの工房にしても、もはや村内では商売が成り立たず、近隣の村々からの受注でかろうじて口に糊しているというありさまだった。
小気味よいブレーキ音とともにサラマンドラは減速し、やがて完全に停止した。
ジュゼッペは覚悟を決めると、おそるおそる機体へと近づいていく。
ふいに風防が開き、飛行服姿の男が身を乗り出した。
おもわず身構えたジュゼッペにむかって、ユーリはあくまで無遠慮に問いかける。
「このあたりに住んでいるジュゼッペ・フロレスという人を知ってるか?」
面食らったのはジュゼッペだ。
いかにも怪しげなこの青年に、自分こそが探している人物だと正直に答えるべきか否か……。
わずかな逡巡のあと、初老の鍛冶師はためらいがちに口を開いた。
「私がジュゼッペ・フロレスだが……」
「ジュゼッペさん、あんたに届け物だ。差出人はラウラ・フロレス」
ユーリがその名前を口にしたとたん、ジュゼッペの顔色が変わった。
四年前の冬の夜、激しい口論のすえに家を飛び出していったひとり娘。
それからまもなくガリアルダ人民戦線によって外部との連絡が断たれ、いまとなってはどこにいるのかも分からない。
あの日から片時も忘れることのなかった娘の名を、まさかこの状況で聞くことになろうとは。
「君はラウラの知り合いなのか? その戦闘機はいったい……」
「ただの郵便配達人だ。この紙に配達完了のサインを。心配しなくても、用件が済んだらすぐに出ていく」
ぶっきらぼうに言って、ユーリは配達証明書とペン、そして梱包材に包まれた荷物を手渡す。
言われるままに書類にサインしたあと、ジュゼッペは当惑したように荷物を見つめた。
「開けても構わないか?」
「好きにしろ。俺の仕事はもう終わった。……連中が楽に帰してはくれないだろうが、それはこっちの問題だからな」
「あんた、まさか海岸の防衛線を突っ切ってきたのか?!」
「抜け道を見つけるのにはすこし手こずったが、機体には傷ひとつついちゃいない」
ユーリは腕前を鼻にかけるでもなく、あくまでそっけなく言ってのける。
硝煙の残り香さえ感じさせない優雅な佇まいは、まさしく空の支配者と呼ぶにふさわしいものであった。
梱包材を解いていたジュゼッペは、やがて感嘆とも驚愕ともつかない声を漏らした。
「これは……」
ジュゼッペの手のなかにあるのは、額装された小ぶりな油彩画だ。
縦長のキャンバスには、仲睦まじげな初老の男女と、二人のあいだに立つひとりの若い娘が描かれている。
娘はほかならぬラウラ自身。そして男女は、ジュゼッペと亡き彼の妻だった。
ジュゼッペがおもわず唸ったのは、十代の少女らしからぬ巧みな描線や色使いに圧倒されたばかりではない。
白いものが目立ちはじめるようになった髪も、細かなシワが刻まれた目元や額も、まるで
「不思議だ。あの子とはもう何年も会っていないはずなのに、なぜ……」
「最後に見た父親の顔をずっと憶えていたんだろう。たとえ離れていても、あんたは彼女のなかで生き続け、歳を重ねていったということだ」
「ラウラは私のことをずっと憎んでいるとばかり思っていた。……あのころの私は愚かだった。親でありながら我が子の才能を認めようとせず、それどころか夢を諦めさせようとしていたのだから。こうして娘と生き別れてしまったのも、自業自得だと自分に言い聞かせていた。だが、そんな私をあの子は……」
「俺が娘さんから託された荷物は正真正銘これだけだ。あんたがこの絵からなにを読み取ろうと、それは俺の口出しすることじゃない」
望みさえすれば、絵と一緒に何通でも手紙を送り届けることは出来たのである。
ラウラがあえてそうしなかったのは、彼女の画家としてのプライドだ。
画家は作品ですべてを表現しなければならない。
たったひと言を添えるだけでもすべてが台無しになってしまうことを、少女は誰に教わるでもなく理解していた。
故郷と家族への断ちがたい思いのすべてを絵筆に込めて、ラウラは現実にはけっして揃うことのない家族の肖像を描き出したのだった。
ジュゼッペは顔を上げると、コクピットに戻ろうとしたユーリを呼び止める。
「すこし待っていてくれ。私からも頼みたいことがある」
そう言って工房に駆けていったジュゼッペは、まもなく息を切らして戻ってきた。
職人らしい無骨な手に握られているのは、細長い木の小箱だ。
「それは?」
「私が作ったペインティングナイフだ。この四年のあいだ試作を重ねて、ようやく納得の行くものが出来た。使ってもらえるかどうかは分からないが、どうかあの子に渡してほしい」
「本当なら荷物の追加は割増料金をもらうところだが、今回は特別サービスということにしておく――」
離陸しようと風防に手をかけたユーリは、何かに気づいたように動きを止めた。
「忘れるところだった」
ユーリは座席の下に手を突っ込むと、一丁の短機関銃を取り出す。
突然のことに立ちすくむジュゼッペをよそに、ユーリは路傍の木にむかってセミオートで三発ほど発砲。排出された空薬莢が主翼の上で跳ね、乾いた音を立てる。
機中での予期せぬ暴発を防ぐために
「もしガリアルダ人民戦線の連中に尋問されたら、不時着した敵のパイロットに燃料をよこせと脅されたと言え。弾痕と薬莢を見せれば信じるだろう」
「気を遣わせてしまって、本当にすまない……」
「料金に見合った仕事をしたまでだ」
それだけ言って、ユーリは今度こそ風防を閉める。
ガリアルダ人民戦線の追撃は念入りに振り切ったつもりだが、油断は出来ない。
すでにこちらの存在を敵に知られてしまっている以上、復路は往路にもまして危険が待ち受けているだろう。
電気式の再始動装置を作動させる。機外でイナーシャハンドルを回さずとも、コクピットに座ったままで離陸準備が整うのはサラマンドラの長所だった。
ぶるん、と竜が身震いするみたいな振動が機体を揺らす。サラマンドラのX型
***
その日の夕刻、サラマンドラは飛行場に帰還した。
逆ガル型の翼を夕陽にきらめかせ、竜は悠然と大地に降り立つ。
機体が
風防を開けて機外に出ると、焦げ臭さと香ばしさが入り混じった独特のにおいが鼻腔をくすぐった。発動機の生み出す熱によって機体そのものが高温になると、どこからかこんなにおいが立ち上るようになるのだ。
ほかの人間なら顔をしかめるだろうにおいも、ユーリには好ましく思えた。
これを嗅ぐことが許されるのは、生き残った者だけなのだから。
砲煙弾雨をかいくぐり、往復三千キロちかい長距離飛行を無傷で終えたサラマンドラは、どこか誇らしげだった。
翼に足をかけたユーリは、こちらにむかって駆けてくるテオとラウラの姿を認めた。
「仕事は済んだ。配達証明書はここに――それと、これを受取人から預かっている」
あくまで坦々と言って、ユーリはラウラに木箱を手渡す。
おずおずと木箱の蓋を開けたラウラは、そのまま言葉を失った。
少女の両目からは止めどもなく涙があふれる。何も言わなくても、それが父からの贈り物だと理解したのだ。
かつては自分の夢を理解してくれなかった父。その父が、いまはラウラの夢を応援してくれている。
遠い距離を隔てて別れ別れになった親子の心は、ふたたび通い合ったのだった。
「ユーリさん、本当にありがとうございます――――」
「あとは配達料金の件だが……」
「分かっています。一度に全額は用意出来ませんが、絶対にお支払いします」
今回の仕事でラウラが支払う金額については、昨日のうちに伝えてある。
戦闘機はとかく金食い虫だ。飛行のたびに燃料を大量に消費し、高品位な部品を使用しているため修理費もかさむ。
サラマンドラも被弾による損傷こそないものの、消耗品を中心に交換が必要な部品はざっと百点以上にもおよぶのである。
そのうえパイロットや整備士の給与、そして飛行場の維持管理のための諸経費などが上乗せされていけば、金額はさらに膨れあがる。
ラウラがサラマンドラ航空郵便社に支払うことになるのは、マドリガーレ国民の平均年収の五~六年分に相当する大金であった。
このさき画家として売れっ子になり、仕事を選ばずに必死で働いたとしても、やはり完済までには三年はかかるだろう。
「ラウラ、無理しなくていいんだよ。うちは利息を取ったりしないし、絵が売れてまとまったお金が入ったときにでも……」
「いいんです。ずっと苦しかった胸のつかえが取れましたから、その分のお礼はさせてください」
テオとラウラのやり取りを横目に、ユーリは思い出したみたいに呟いていた。
「ひとつ言い忘れていたことがあった」
「どういうことですか……?」
「うちは新規顧客に限って特別割引をやっている。もちろん、あんたもその対象だ」
言って、ユーリは請求書の金額に二重の取り消し線を引く。
その上であらためて書き込んだ金額は、当初の半額以下――それどころか、三割にも満たない。
これなら毎月一定額を支払ったとしても、生活への影響は微々たるものに留まるだろう。
実に七割以上のありえない値引きに、当惑したのはラウラのほうだった。
「そんな……困ります! あたし、頑張ってお金を稼ぎますから!」
「勘違いするな。べつにあんたに同情してる訳じゃない。……それに、しっかり金は取る」
訝しげに見つめるラウラに背を向けて、ユーリはサラマンドラの翼に手を伸ばす。
肩に担ぐように取り出したのは、円形の黒いケースだ。
サラマンドラに搭載されているガンカメラのフィルムであった。内部には飛行中に撮影したガリアルダ半島の映像が収められている。
「来週の朝刊の一面を言い当ててみせようか。――我が勇敢なるマドリガーレ空軍の飛行隊は、謎に包まれたガリアルダ人民戦線の偵察に成功せり、だ」
「ユーリ、まさか――――」
「このフィルムをマドリガーレ空軍の上層部に言い値で買い取らせる。ガリアルダ人民戦線の対空配置は、いままでどの国も掴めなかった機密情報だ。
各国は人的損失を厭い、ガリアルダ半島に偵察機を派遣することさえためらっていたのである。
あくまで一部とはいえ、犠牲を払うことなく対空陣地の詳細な位置と戦力が判明するのであれば、千金を積んでも惜しくはないはずだった。
戦死者の遺族にこのさき何十年も年金を支払う負担に比べれば、平均年収の数年分で済むのはむしろ破格といえるだろう。
高級将校たちの制服には真新しい勲章が輝き、ことによれば何人かの階級が上がるとなればなおさらだ。
「金はあるところから取るにかぎる。だからあんたはなにも心配しなくていいんだ、
「でも! 無理なお願いを聞いてもらった上に、こんなに親切にしてもらって、あたし……」
あくまで頑ななラウラに、ユーリはふっとため息をつく。
「そこまで言うなら、ひとつあんたにしか出来ない仕事を頼もうか」
***
朝の陽光が燦々と降り注いでいた。
闇に閉ざされた格納庫から、サラマンドラはゆっくりと陽射しの中へと進み出る。
排気音の変化に耳を澄ましながら、テオはコクピットにむかって叫ぶ。
「ユーリ、サラの調子はどう?」
「問題ない。
そうするうちにも、サラマンドラは完全に格納庫の外へと出ていた。
竜の尾のごとくそそり立った垂直尾翼には、先日まではなかったものがある。
手紙を咥えた竜のペイントだ。美麗な線で描かれたそれは、巨大な機体のなかでもひときわ目を引いた。
機体を誘導しつつ、テオはしみじみと言った。
「やっぱりラウラに描いてもらってよかったねえ」
「俺もお前も絵は壊滅的だからな。こういうことは本職に任せるにかぎる」
「失礼だな、僕はユーリほど下手じゃないよ」
むっと頬を膨らませたテオに、ユーリは軽く手を振ってみせる。
「出力を上げる。危ないから離れていろよ」
言うが早いか、あたりに爆音が響きわたった。
例によって例のごとく、今回の依頼にもかなりの難物だ。
だからどうした、とユーリは思う。どんな危険も困難も、サラマンドラには問題にならない。巨大な翼を羽ばたかせ、軽々と飛び越えてゆくだろう。
力強く大地を蹴って、竜ははるかな蒼空の頂へと駆け上っていった。
【第一話 完】
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