第一話:少女画家と戦闘機

少女画家と戦闘機(一)

 八月の陽射しが世界を灼いていた。

 海岸沿いの田舎道は白く乾ききって、潮の匂いさえもざらついている。

 温暖で乾燥した気候は、アードラー大陸の最南端に位置するマドリガーレ共和国の特徴でもある。

 かつてマドリガーレと呼ばれていた時代は、王都の冬の寒さを厭う貴族たちがこぞってこの地に別荘を建設し、大竜公国グロースドラッフェンラントでも指折りの行楽地として殷賑を極めていた。

 それも今は昔。大戦の惨禍はこの地にも及び、往時の華やかな風情を偲ばせる事物はほとんど失われてしまった。

 時を経ても変わらないものは、まばゆい太陽と透き通る海、そして抜けるような青空だけだ。


 いま、砂浜に面したバス停にぽつねんと佇むのは、旅行鞄を携えたひとりの少女だった。

 年の頃は十七、八歳といったところ。

 つば広の麦わら帽子の下から覗くのは、赤みがかった栗色ブルネットの三つ編みだ。

 生成色エクリュベージュのワンピースが健康的な肌の色を引き立たせる。歩きやすさを優先したのか、靴は戦後に流行したミュール・サンダルではなく、飾り気のない夏用ブーツであった。

 四阿ガゼボにベンチが置かれただけの簡素なバス停には、他の利用客の姿は見当たらない。周囲には人家もなく、ただ寄せては返す潮騒の音だけが規則的に響いている。

 少女は懐中時計を手に取ると、不安げな面持ちで文字盤を見つめる。

 午後二時十五分。

 次のバスがやってくるはずの時刻をもう二時間も過ぎている。

 ここマドリガーレではバスや列車が定刻通りに運行されることのほうが珍しいとはいえ、いくらなんでも遅すぎる。

 どこかで事故にでも遭ったのだろうか……。

 ふと喉の渇きを自覚した少女は、水筒を探して旅行鞄をまさぐる。


 バス停の外から発動機エンジンの甲高い音が聞こえてきたのはそのときだった。

 よかった、やっと来てくれた! ――そう思って顔を出した少女は、すぐにがっくりと肩を落とした。

 道の向こうからやってきたのは、一台のサイドカーだった。

 不整地走行に耐える太いタイヤ。まるで飾り気のない無骨なカウリング。軍用品であることは遠目にもあきらかだ。

 かつて大竜公国軍で広く使用されていたこのタイプのサイドカーは、戦後は二束三文で民間に払い下げられた。民生用とはいうものの、機関銃や小銃を固定しておくための銃架マウントやガソリンタンクの防弾板さえめったに取り外されることはなく、そのほとんどは適当に色を塗り替えただけの代物である。

 バス停に近づいてくるサイドカーもご多分に漏れず、車輌全体があざやかなオレンジ色に塗装されている。なにもかもが白々と褪せた世界にあって、ややもすると悪趣味なほどに派手な色彩はいっそう映えた。

 運転手はひとりだけだった。やはり軍で使用されていた歩兵用ヘルメットとゴーグルを身につけ、そのうえ顔の下半分を覆うようにマフラーを巻いているために顔貌は判然としない。

 少女は身体を強張らせる。女ひとりで人気ひとけのない場所にやってきた迂闊さを後悔したところで、いまとなっては後の祭りというものだ。

 サイドカーはじょじょに速度を落とすと、バス停の手前で停車した。


「ねえ――君、そこでなにしてるの?」


 声は意外なほど高かった。

 まさか女ではあるまい。まだ変声期を迎えるまえの少年だろうか。

 走っているときは気づかなかったが、大型のサイドカーに対して運転者ライダーはかなり小柄だった。

 上背は少女とおなじくらいか、もしかしたらいくぶん低いかもしれない。


「なにしてるの、って訊いてるんだけど」


 ふたたび呼びかけられて、少女ははたと我に返ったように背筋を伸ばす。

 警戒したのも一瞬のこと。大人の男ならいざしらず、自分より小柄な相手であれば、そこまで恐れる必要もないと判断したのだ。


「あたし、バスを待ってるんです」

「バス? ここで?」

「そう。だけど、もう二時間も待っているのにぜんぜん次のバスが来る気配がなくて――」


 覆面のライダーはマフラーの下でくっくと忍び笑いを漏らした。

 訝しげに見つめる少女にむかって、ライダーはゆるゆると首を横に振る。


「残念だけど、いくら待ってもバスは来ないよ」

「……どういうこと?」

「このさきにバス停はないからさ。ここが終点。そして、街へ戻るバスは今日はもうおしまい。この路線は一日に一本しかないからね」

「そんなはずないわ! だって、この紙にはたしかに……!!」


 言うなり、少女は旅行鞄の中から一枚の紙を引っ張り出す。

 十字の折り目がついたそれは、バスの運行表だ。

 ライダーはしばらく紙の上に視線を滑らせたあと、右端に印刷された数字を指で突いてみせる。

 1944年。いまから六年前、大竜公国とポラリアの戦争が終盤に差し掛かったころだ。


「よくごらんよ。君の持ってるそれ、戦争中に発行されたやつじゃないか」

「それがどうかしたの?」

「むかし、この先にはちいさな港町があったんだよ。戦争が終わる直前にポラリアの艦砲射撃で焼け野原になって、生き残った住民はみんなよそに移っていった。住んでる人がいなくなっちゃったんだから、当然バス停も廃止されたってわけ」

「そんなはず――――」

 

 言いさして、少女はそれきり沈黙した。

 ここまでの道のりを振り返ってみれば、思い当たる節がなかった訳ではない。

 バスを降りるとき、運転士には「本当にここでいいのか」と何度も念を押された。

 そっけなく「ここでいい」と言った少女に向けられた視線は、どこか哀れみを含んだものだった。

 ライダーの説明が正しいなら、すべてに合点がいく。

 

「よかったら、この先になんの用があったのか教えてくれないかな。さっきも言ったとおり港町はもう誰も住んでないし、わざわざ観光に行くような場所でもないと思うんだけど」

「あたし、郵便配達を頼みに行こうと思ったんです」

「へえ?」

「この道をずっと進んでいった先に、という航空郵便ルフトポストの会社があると聞きました。その会社はすごい飛行機を持っていて、依頼すれば大陸のどんな場所だろうと荷物をかならず届けてくれるって。半信半疑だったけど、あたし、どうしても諦めきれなくて……」


 いつのまにか少女の声には嗚咽が混ざりはじめている。

 これからどうしていいか分からずに途方に暮れているのだ。

 目的地に向かうにせよ、いったん街に戻るにせよ、この熱暑のなかを延々と歩き続けなければならない。旅行鞄を抱えての強行軍は、大の男でも顎を出すだろう。

 それが嫌なら、民家はおろか街灯もないこの場所で一夜を明かすしかない。

 ライダーはしばらく考え込むような素振りを見せたあと、側車のカウルをぽんと叩いた。


「乗っていきなよ。歩いて帰ったら街に着くまえに夜になっちゃう。このあたりは日が暮れると野犬だって出るんだから」

「え?」

「今日はもうひとりがお留守番でラッキーだったね。それに、じゃなくて。君、もしかして西部生まれ?」


 ライダーはヘルメットを取り、マフラーを首元まで下げる。

 ゆるやかにウェーブした黒い猫っ毛。少年とも少女ともみえる、まだあどけなさが残る中性的な面立ち。

 一見するかぎり、年齢は少女より二つ三つ下だろうか。

 戸惑う少女にむかって、ライダーは白い歯を見せて微笑みかける。


「僕の名前はテオ。――――僕らの航空郵便会社ルフトポスト・ゲゼルシャフトにようこそ、久しぶりのお客様」

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