火竜の舞う空(二)

 火竜サラマンドラ――。

 正式名称はCaZ-170”サラマンドラ”という。

 カールシュタット・ザウアー合同航空設計局が生み出した、天翔ける鉄の竜。

 大竜公国が配備したさまざまな戦闘機のなかでも、いまなお最強の呼び声高い重戦闘機である。


 そのサラマンドラには、ひとつの伝説がある。

 大戦を通して製造されたサラマンドラの総数は五十八機。

 離着陸時の事故や整備不良、友軍の高射砲の誤射などのによって最終的に半数ちかくの機体が失われたものの、空戦での損失はついになかった。

 すなわち、大戦中期に実戦投入されてから終戦までのあいだ、ポラリア軍の戦闘機に対して無敗を誇ったということだ。

 サラマンドラはきわめて高価な戦闘機だったが、しかし、けっして張子の虎ではなかった。数多の作戦に参加し、大戦末期には本来想定されていないはずの爆撃機の邀撃ようげき、果ては爆弾を搭載して地上支援機ヤーボとしての運用さえ行われたのだ。

 その過酷な戦歴を考慮すれば、被撃墜を免れたことはまさしく驚異的な戦果というほかない。

 他方、そんな無敗神話に懐疑のまなざしを向け、荒唐無稽なプロパガンダにすぎないと一蹴する者も少なくない。

 確実に言えるのは、ポラリア側にもサラマンドラを撃墜したという記録は存在しないということだ。

 戦時の資料が物語るのは、「火竜狩り」に挑んだポラリア軍のエースパイロットたちがいずれも未帰還に終わったという事実だけであった。


 そのサラマンドラも、終戦とともにすべて失われた。

 ”竜の心臓ドラッフェン・ヘルツ”と呼ばれる二十四気筒X型エンジンを筆頭に、サラマンドラには大竜公国の最先端技術が惜しみなく注ぎ込まれている。

 ポラリアへの接収と技術流出を恐れた軍司令部は、残存していたすべての機体を跡形もなく破壊するように命じたのだ。

 かくして最強の竜は、一度として敗北の味を知らないまま、この世から跡形もなく姿を消した。――そのはずだった。

 

「隊長――間違いありません。本物のサラマンドラだ! しかし、なぜあの機体がここに……!?」


 ベルカンプ少尉は興奮ぎみに無線電話にむかって叫ぶ。

 しばらくして返ってきたヴィンクラー中尉の声は、意外なほど落ち着いていた。

 

≪分かっている。だが、空軍にフライトプランは提出されていない。いまの時間、このあたりの空域を飛んでいるのは我々の小隊だけのはずだ≫

「では、あれは……」

≪国籍不明機による領空侵犯と判断するほかないな≫


 ヴィンクラー中尉が言い終わるが早いか、ベルカンプ少尉はおもわず声を張り上げていた。


「隊長、自分にやらせてください。近づいて警告射撃を実施し、そのまま最寄りの基地に着陸させてみせます」

≪よせ、少尉!≫

「なぜ止めるんです? 自分は領空侵犯に対する正当な対応手順を述べたまでです!」

≪相手は武装している可能性がある。もし戦闘になれば、リザードでは勝ち目がない。戦争中、あの機体の強さは何度もこの目で見てきた……≫

「いくらサラマンドラでも、相手はたかが一機です。三機同時にかかれば勝算はあるはずだ」

≪我々だけならいい。だが、いまは未熟な新入りを連れていることを忘れるな≫


 くそ、足手まといのヒヨッコめ――。

 おもわず口を突いて出かけた罵声を飲み込み、ベルカンプ少尉は強く唇を噛む。

 むかっ腹が立つのはヴィンクラー中尉もおなじだ。

 なにが勝ち目がない、だ。大した腕もないくせにおめおめと大戦を生き延びた臆病者が、階級を盾にでかい面をしやがって。

 ベルカンプ少尉は深く息を吸い込むと、あくまで落ち着いた声で切り出す。

 

「隊長は新入りについていてください。自分だけでも奴を追いかけます」

≪やめろ、少尉。上官抗命は重大な軍規違反だぞ≫

「軍規に背いているのは隊長、あなたもおなじだ。みすみす領空侵犯機を見逃したと軍法会議に提訴すればどうなるかお分かりでしょう」


 ヴィンクラー中尉はそれきり二の句が継げなくなったようだった。

 建前がどうあれ、哨戒飛行という任務の性質上、敵を発見した場合は然るべき対応を取らなければならない。

 すくなくとも、この状況ではベルカンプ少尉に理があることは明白だった。敵前逃亡の罪は上官抗命よりもなお重いのだ。

 すでに四十歳ちかいヴィンクラー中尉は、パイロットとしては最晩年に差し掛かっている。

 ここで問題を起こせば、今後の昇進と地上勤務のみちは閉ざされる。定年まで大過なく勤め上げ、満額の軍人年金をもらうことだけが望みのヴィンクラー中尉にとって、経歴に傷がつくことはなによりも恐ろしいはずだった。

 上官が沈黙したのを確認して、ベルカンプ少尉はあらためてサラマンドラを睨む。

 

「あのサラマンドラを仕留めたとなれば、宗主国ポラリアの連中も俺を認めるはずだ。こんなチャンスは、きっともう二度と巡ってこない……」


 ひとりごちて、ベルカンプ少尉はスロットルレバーを緊急出力へ叩き込む。

 回転計タコメーターとブースト計の針が勢いよく跳ね上がり、どちらも赤く塗られた限界領域ゾーンへと駆け込んでいく。

 発動機エンジンに組み込まれた水・メタノール噴射装置が作動したのだ。約四分という制限時間はあるものの、そのあいだは定格値を上回る高出力を発揮することが出来る。

 空冷式の星型発動機エンジンが轟然と唸りを上げる。

 戦後ポラリアが施した改修によって二◯◯◯馬力にまで引き上げられた最高出力は、かつて竜もどきと蔑まれた機体にあらたな生命を与えた。

 まるで獣が胴震いするみたいな振動が機体全体に伝播し、コクピットを激しく揺さぶる。

 ベルカンプ少尉は速度計を見やる。すでに時速六五◯キロを超えた。機体は早くも諸元スペック上の最高速度に到達しようとしている。猛烈なダッシュ力は、推力重量比パワーウエイトレシオにすぐれるリザード改の最大の強みだ。

 充分に速度が乗ったことを確認したところで、ベルカンプ少尉は操縦桿を手前に引く。

 空気抵抗を押しのけて機首が上がる。

 ズーム上昇。水平飛行で稼いだ速度が、そのまま上昇力へと変換されていく。

 猛烈な加速度が加わり、身体が座席に押し付けられる。

 血液が下肢に集まっていくのが分かる。世界があっというまに彩度を失い、暗闇が視野を埋めていく。

 失神ブラックアウト寸前で、ベルカンプ少尉はどうにか機体を水平にもどす。

 同時にスロットルをオフ。水・メタノール噴射装置が停止し、振り切れていた回転計とブースト計の針がじょじょに戻っていく。

 いまだ狭窄したままの視野のなかから高度計を探す。すぐに見つかった。現在、高度一万二◯◯◯メートル。

 機体の振動はますます激しくなっている。与圧がろくに効いていないコクピットは、この高度になると電熱服を着ていても凍りつきそうだ。

 酸素マスクを装着していなければ、数秒と経たずに意識を失う極限環境なのだ。

 リザードはもともと低中高度での格闘戦ドッグファイトを主眼に置いて設計された機体である。その基本的な特性は、リザード改においても変わらない。

 大気の希薄な一万メートル以上の高高度では、発動機エンジンの燃焼効率が著しく悪化し、出力も低下する。

 緊急出力を使用しても通常の七割程度の馬力を捻り出すのがせいいっぱいなのだ。こんなありさまでは、水平飛行を維持することさえおぼつかない。

 昇降舵エレベーター方向舵ラダーを忙しなく操作してどうにか機体の安定を図りながら、ベルカンプ少尉はすばやく周囲に視線を巡らせる。

 探していたものは、意外なほど近くにいた。


 サラマンドラ――巨大な翼を広げた一匹の竜は、暮れなずむ空によく映えた。

 この距離まで近づけば、機体上面を覆っている紺青色コバルトブルーの塗装もよくみえる。下面の淡灰色ライトグレイとのツートンカラーだ。

 かつて大竜公国で運用されていたサラマンドラには黄と緑と黒とがまだらに入り混じった独特の迷彩塗装が施されていたはずだが、どうやら塗り直したらしい。

 あくまで悠然と蒼空を舞うその姿は、同じ高度に上がっただけで青息吐息の竜もどきリザードをあざ笑っているようでもあった。

 サラマンドラのX型二十四気筒液冷発動機は、三◯◯◯馬力という戦時中の戦闘機としては規格外の大出力に加えて、高高度戦闘用の多段式過給器ターボチャージャーが標準装備されている。一万メートル以上の高空にあっても、竜の心臓は一向に弱まることなく、力強い鼓動を打ち続けるのだ。


(ここまで来て、後に引けるか――)


 ベルカンプ少尉は怖気を振るい、自機をサラマンドラへと近づけていく。

 水・メタノールタンクの残量はほとんど底を突きかかっている。緊急出力が使えるのは、長くともせいぜいあと数十秒といったところだろう。

 逸る気持ちを抑えつつ、セオリーに従って共通周波数で着陸を呼びかける――応答なし。

 サラマンドラに搭載されている無線電話機の性能なら、この距離からの通信は問題なく受信出来るはずだ。おそらく装置そのものを切っているのだろう。

 望むところだ――と、ベルカンプ少尉は闘志を奮い立たせる。

 リザード改は機体をわずかに傾斜させながらゆるやかに右旋回、サラマンドラの後方に占位する。

 あっけなく後ろを取れたことに拍子抜けしつつ、ベルカンプ少尉はすかさず攻撃準備に移る。

 光像式照準器の十字指標レティクル越しに捉えた火竜の後ろ姿は、おもわず見惚れてしまいそうになるほど壮麗だった。

 彼我の相対距離はおよそ五◯◯メートルほど。

 リザード改の主兵装は、両翼に内蔵された一三・七ミリ機銃四門と、戦後の改修であらたに胴体に追加された二◯ミリ機関砲二門である。

 二種類の火器は、いずれも機体の前方二◯◯メートルで交差するように調整されている。それ以上遠ければ弾道がぶれ、近すぎれば破片を浴びるおそれがあるのだ。


 ベルカンプ少尉はふたたびスロットルを緊急出力へ。

 高高度で出力は低下しているとはいえ、リザード改は持ち前の軽さを活かして猛然と加速を開始する。

 リザード改とサラマンドラの相対距離はまたたくまに縮まっていく。

 四五◯……三◯◯……二◯◯。

 サラマンドラが射界に入った瞬間、ベルカンプ少尉は操縦桿に備え付けられた火器発射ボタンを迷うことなく押下していた。

 耳をつんざく発射音とともに、リザード改に搭載されている六門の重火器が一斉に火を吹いた。発射の反動リコイルが機体を揺らす。

 あくまで威嚇射撃とはいえ、発射されているのはまぎれもない実包である。

 これほどの砲火をまともに浴びれば、さしものサラマンドラとてひとたまりもないはずであった。

 そして、敵機に食いつかれた戦闘機は、往々にしてぶざまな姿を晒すものだ。実戦経験のないベルカンプ少尉も、模擬戦で何度もそんな光景を目にしてきた。攻撃に動揺したパイロットはがむしゃらに機体を操り、どうにか危機を逃れようとする……。

 そんな予想に反して、サラマンドラは至近距離を銃撃が掠めても微動だにしなかった。

 凪いだ海面うなもをたゆたうように、大柄な機体はなおも泰然と水平飛行を続けている。

 最初の一斉射は威嚇射撃だと見越していたのか、それとも、実戦において有効射程ぎりぎりから発射された弾はまず当たらないことを知悉しているのか。


「警告はしたぞ――――」


 ベルカンプ少尉はなおもサラマンドラに追いすがる。

 接近するうちに、サラマンドラが胴体下面に増槽タンクを懸架していることにようやく気づいた。

 予備の燃料を搭載した増槽は、銃弾が命中すればたやすく引火・爆発する危険物である。たとえ中身がほとんど空であったとしても、戦闘ではやはりデッドウェイトでしかない。

 したがって敵機と遭遇した時点ですみやかに投棄するのがパイロットの常識であり、増槽をつけたまま戦闘に入るのはありえないことだった。

 サラマンドラが増槽を捨てない理由として考えられるのは、次のふたつ。

 故障によって投棄したくても出来ないか――あるいは、わざわざ増槽を捨てるまでもないと敵を侮っているかのどちらかだ。

 ベルカンプ少尉の意識はまたたくまに怒りに染め上げられていった。

 射撃を受けても回避するそぶりさえ見せなかったのも、雑魚は眼中にないとあしらっているつもりだったのだろう。

 たとえそれが乗機に対するものであったとしても、ベルカンプ少尉には技量を活かす機会もないまま植民地の空軍で腐っていく自分自身への許しがたい侮辱として映ったのだった。

 

「なにが無敗伝説だ。なにが大竜公国グロースドラッフェンラントの最高傑作だ。そんなものがはったりだということを証明してやる……!!」


 サラマンドラが動いたのは次の瞬間だった。

 逆ガル翼の機体は、その巨体からは想像もつかない敏捷さで左向きに旋回。

 機首を下方に向けると同時にひらりと反転し、背面のまま動力降下パワーダイブに入る。

 液冷X型発動機エンジンの独特な排気音を残して遠ざかっていくサラマンドラを追って、リザード改も急降下する。

 もつれ合うような軌跡を描きながら、火竜と竜もどきはともに雲海へと突っ込んでいった。

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