サラマンドラ航空郵便社

ささはらゆき

プロローグ:火竜の舞う空

火竜の舞う空(一)

 計器盤の上で無数の針が小刻みに震えていた。

 回転計タコメーター油温計オイルゲージ燃圧計プレッシャーゲージ人工水平儀ジャイロスコープ……。

 安全な飛行を続けるためには、ところせましと並んださまざまな計器につねに目を光らせておかなければならない。

 現在の高度はおよそ六三◯◯メートル――時速五五◯キロで南南西にむけて巡航中。燃料は胴体と翼内タンクを合わせてまだ半分以上残っている。

 まるで棺桶みたいなコクピットは、空冷発動機エンジンの耳障りな騒音と、機体のあちこちから伝わってくる不快な振動とに充たされている。

 例によって最低限の与圧しかかかっていない機内キャビンはひどく冷え込んでいるが、パイロットは電熱線入りの飛行服を着用しているため、どうにか凍えずに済んでいる。


 ジルン・ベルカンプ少尉は操縦桿を握ったまま、計器盤中央の航空時計に目をやる。

 一六三◯ヒトロクサンマル

 風防キャピー越しに見下ろす世界は、早くも黄昏の色に染まりつつある。まばらな雲のまにまに、彼方にそびえる山々の稜線がぼんやりとかすんでいた。

 ベルカンプ少尉はふと顔を横に向ける。

 金属の枠によって切り取られた視界のなか、夕日を照り返して輝くのは、編隊を組んで飛行する隊長機と列機の尾翼だ。

 金属の地肌がむき出しの長細いシルエットは、どことなく銀色の鱗に覆われた蜥蜴トカゲを彷彿させた。


 リザード。

 蜥蜴――

 それが彼らの機体の名前だった。

 神話や伝説に登場する有翼竜ドラゴンにちなんだ愛称がつけられるのが習わしだった大竜公国グロースドラッフェンラントの戦闘機にあって、この機体だけに実在する爬虫類の名前がつけられたのは、あるいは見た目からの連想だったのかもしれないとベルカンプ少尉は推測する。

 すくなくともこの機体を世に送り出したグレースアリシア社の技師たちは、まさか愛称がそのまま蔑称になるなどとは夢にも思っていなかったはずだ。

 大戦中期にロールアウトしたGA-41”リザード”は、同じころ実戦配備されたとつねに比較され、不出来な竜もどきの烙印を押されてきた。

 低い翼面荷重に由来する軽快な旋回性をもつ反面、軽量化を優先したために防御力が低く、さらに主兵装である七・七ミリ機関砲は重火力・重装甲化がエスカレートする戦場においてあまりに非力だった。すぐれた生産性はリザードの美点のひとつだったが、低練度の部隊にまで行き渡った結果、同機の被撃墜率は大竜公国のあらゆる戦闘機のなかで最も高いものになったのは皮肉と言うべきだろう。

 その後、戦訓を取り入れた数度の改良を経てもなお、蜥蜴はついに竜になることは叶わなかったのである。


 大竜公国で散々な評価を受けたリザードを拾い上げたのは、皮肉にも公国との戦争に勝利し、あらたにアードラー大陸の支配者となったポラリアだった。

 戦後、旧大竜公国の諸地方を衛星国として独立させるにあたって、軍事力――とりわけ大戦中にその有効性が実証された航空戦力の整備が急務となった。

 数ある候補のなかからポラリア軍首脳部がリザードに白羽の矢を立てたのには、むろん相応の理由がある。

 まず終戦の時点で大量の完成機が存在し、さらには操縦に慣熟した搭乗員パイロットにも事欠かなかったこと。

 そしてグレースアリシア社の生産ラインが幸運にも爆撃の被害を免れていたことが決定打となって、リザードは各国の主力戦闘機として選定されるに至った。


 大陸中央部に位置する内陸国オーディンバルトもそうした国々のひとつだった。

 ベルカンプ少尉らが搭乗する三機のCF-41F「リザード改」がオーディンバルト空軍の基地を飛び立ったのは、いまから一時間ほど前のこと。

 隣国ティユールとの国境付近の哨戒飛行パトロールという名目だが、それもしょせん建前にすぎない。

 オーディンバルトもティユールも、戦後アードラー大陸に成立したポラリアの傀儡国家であり、独立国とは名ばかりの植民地である。両国のあいだに紛争が起こる可能性など万に一つも存在しないのだ。

 それでもこうして連日のように哨戒飛行を行っているのは、実戦形式の訓練という意味合いがおおきい。

 三機編隊がベテランの飛行隊長と若手、そして訓練過程を終えたばかりの新人ルーキーで構成されているのはその証でもあった。


(毎日毎日、退屈な任務だ――――)


 心中でぼやいて、ベルカンプ少尉は酸素マスクのなかで舌打ちをする。

 念願かなって戦闘機乗りになったはいいが、問題はそのあとだった。

 来る日も来る日も、彼らパイロットたちに与えられる任務といえば、退屈な哨戒飛行ばかり。

 飛行士養成学校を優秀な成績で修了し、オーディンバルト空軍でも並ぶ者のない操縦技術を持つと自負するベルカンプ少尉にとって、ただ飛んで帰ってくるだけの任務ほど張り合いのないものはない。いまだ実戦経験のない彼にとって、腕を試す機会もないまま歳を重ねていくことは恐ろしくもあった。今年で二十二歳になるベルカンプ少尉のパイロットとしての旬は、せいぜいあと六、七年といったところだろう。

 終戦からすでに五年あまりが経つというのに、機材が古めかしいリザードというのも面白くなかった。

 実質的な宗主国であるポラリアには、オーディンバルトの軍備を強化するつもりはないらしい。

 しょせん植民地の軍隊と侮っているのか、それとも支配下にある国家間の勢力均衡を図っているつもりなのか。どちらにせよ、旧式化した機材を更新する目処も立たない状況は、血気盛んな若手パイロットたちを大いに失望させた。

 ポラリア空軍の最新鋭機を自分に与えてくれたなら、誰よりもうまく乗りこなしてみせるものを……。

 と、飛行帽備え付けの通話装置から濁った声が聞こえてきたのはそのときだった。


≪ベル――プ――ベルカンプ少尉、聞こえているか≫


 声の主はすぐに知れた。

 飛行隊長のエルンスト・ヴィンクラー中尉だ。

 各機に搭載されている無線機はすこし距離を取るとまるで使いものにならないが、密集隊形であればかろうじて会話程度は出来る。

 べつにリザード改の無線機がことさら低品質という訳ではない。

 大気圏に存在する不可視の帯――強電界層によって引き起こされる電波障害のためだ。無線のみならず、基地に据え付けられている対空警戒レーダーさえも、強電界層の影響のために三十キロ先の物体を捕捉するのがせいぜいというありさまだった。

 ベルカンプ少尉は計器盤のトグルスイッチを跳ね上げ、送受信機のノイズ除去リダクションレベルを最大に切り替える。

 

「こちらベルカンプ。隊長、なにか――――」

≪上方に機影らしきものが見えた。十一時方向。くれぐれも警戒を怠るな≫


 ヴィンクラー中尉に言われるまま、ベルカンプ少尉は訝しげに真上に視線を走らせる。

 まさか、こんな時間にこのあたりを飛んでいる機体があるはずはない……。

 官民の別なく、オーディンバルトの領空を飛ぶあらゆる航空機は、あらかじめ空軍にフライトプランを提出する義務がある。

 出撃前のブリーフィングで何も聞かされていない以上、この空域にはのだ。


 黄昏の色相いろに染め上げられた空には、早くも宵の星々がまたたいている。

 おもわず吸い込まれそうな深い紺青色を湛えた蒼穹を見据えて、ベルカンプ少尉はじっと目を凝らす。

 その目交で、ぎらりとするどい金属光がまたたいた。

 編隊のほぼ直上、高度一万メートル以上の高高度を南西にむかって飛んでいくものがある。まだら雲に遮られて形状は判然としないが、航空機であることはまちがいない。

 やがて雲が途切れた。――というよりは、が機体にからみつく雲をふりはらって飛び出してきたのだ。

 その姿を認めたとたん、ベルカンプ少尉はおもわず息を呑んでいた。


 一匹の竜がそこにいた。

 鱗の代わりに軽合金の装甲でその身を鎧い、血潮の代わりにガソリンと潤滑油オイルが循環する機械の竜が。

 翼端に向かってゆるやかなV字を描く逆ガル型の主翼。

 そそり立つ竜の尾のような垂直尾翼から胴体へと流れる曲線は、わずかな停滞もなくすらりと伸びた機首へと収束していく。

 リザードよりもずっと大柄であるにもかかわらず、その佇まいはあくまで流麗で、いっそ軽やかですらある。

 洗練された外観は、液冷発動機エンジンを搭載した機体の特徴でもあった。ともすれば不格好な胴体下面に張り出した冷却器ラジエーターさえも、竜のにみえる。

 純粋に美しさだけを追求した芸術品にも、これほどみごとな造形を備えるものはそう多くはないだろう。

 それは兵器としての性能を突き詰めた先にだけ存在しうる、恐ろしくも気高い美の結晶だった。


 ベルカンプ少尉は呆然と両目を見開いたまま、震える声で呟いていた。


火竜サラマンドラ――――」

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