第5話 待てど・暮らせど

 時計が無い為に今が何時何分なのか、そして息子が助けを呼びに出てどれほどの時間が経ったのか定かではないが、少なくとも30分は経過していることは分かる。

 DVDの2週目が終わり、ポーズ画面に映し出されていたからだ。


 折れ曲がった手首は既に痛みを感じるのを止め、脳が体から切り離す準備をしている。やばい状況には変わりなかったが、おかげで友美は冷静になれた。


 1人になった友美は部屋の中をぐるぐると見回してみた。部屋に散乱する息子の玩具やスケッチブック、そして絵本。息子との思い出が去来する。

 思い出は友美を死の淵から引き揚げ、安堵と優しい気持ちで一杯にさせた。


 確かに自分は息子を叱りつける。それも頻繁に。

 だが、それは彼が悪いことをしたからだ。テレビニュースでよく見るような理不尽さに任せて怒りをぶつけたことなど一度も無い。

 彼自身にちゃんとして欲しいから、だから叱り、時にはぶつことだってある。でもそれは愛だ。


 良太もそれをきっと分かっている。素直にならないのはまだ反発心があるからだろう。(男の子と言うのはそう言う物なのだと友美は本で読んだことがあった)

 だから、今だって息子はちゃんと助けに出て行ってくれた。最初私を助けなかったのは多分、パニックで頭が真っ白になっていたからだ。(恐怖の前で笑ったりするのは退避行動と言うらしい)


 きっと、きっと、きっと、きっとそうだ。

 私は息子を愛している。だから、息子も私を愛している。



ふと、友美は部屋に起こった些細な異変に気が付いた。


熱い。


確実に先ほどにも増して室温が上昇している。


まさか………


無音になった部屋で友美はじっくりと祈るような気持ちで耳を澄ませてみた。


エアコンの音が消えている。


「部屋を出る時には必ず消すこと」まさか、彼がそれを実行したのか!!

渾身の力を込めて友美は自分の頭を床に打ち付けた。先ほどぶつけた場所がどうやら痣になっていたらしく、それ以上ぶつける勇気が出せなかった。


こんなことがあっていいのか!!

どうして、どうしてそんなことが分からないのだろうか。(分かってやっているとも思えない、いいや思いたくも無い)


 あのクソ馬鹿アホ間抜けのクソガキめ、私の遺伝子が入っていながらあの有様か! いいや、この馬鹿さ加減はきっとあのクソ亭主に似たんだわ!― 一瞬にして息子への思慕の念が消えうせ、息子の間抜けっぷりに憤慨した。


 時計が無いという状況がこれほど苦痛になるとは考えもしなかった。一分一秒が永遠に感じられる上に、部屋の温度がぐんぐんと上昇しているのが分かる。

 蒸すような熱さが部屋を支配し、友美の額には冷や汗に打ち勝った滝のような汗が噴き出し、流れ落ちていく。畳に肌がじっとりとへばりつき、不快感。

 あとどのくらいこの状態が続くのか、見当もつかない救助までの時間が苛立ちと不快感を募らせていく。

 しかし、彼女にはそれよりも気にすることが出来た所為で、死の恐怖はまだ薄らいだままであった。


 なんでこんな時に― 友美は思う。


 欲求自体はかなり前からあったのであろうが、それに勝る腕の痛み、そして死への恐怖がその欲求を押し留めていたのだろう。そしてそれらが無くなった今、やっと極めて原始的な欲求が顔を覗かせ始めたのだ。


 そう、肛門の辺りから。


 腹痛、カッコよく言えばそうだが、分かりやすく言えば便意だった。

 熱さと救助によってただでさえ引き延ばされていた一分、一秒が便意によって更により長く延長される気分だ。


 我慢しながら友美は朝食(オートミール)、そして昼食(釜たまうどん)が工場にて栄養を搾り取られ、パッケージングされた(表面にはうんち! のプリント)残りかすがベルトコンベアで運ばれていく様子を思い浮かべた。

 高速道路の料金所に無数の車が押しかけ、大渋滞を起こしている映像がフラッシュバックした。


 もし誰かが助けに来たとき、自分が糞尿塗れであったらどう思うのだろうか。恐らくその場で笑いはしないだろう。だが、どこかで話のネタにされるかもしれない。もっと心の清い人で誰にもその事を言わなかったとしても、糞便に塗れ身動きの取れない自分を想像するととても許容できなかった。


こんな状況でも彼女の羞恥心はまだ作動していた。

が、それもすでに限界に近い。

意識を尻の周辺に集中する。極めて液状に近いそれと知れ、益々不安と躊躇いを生む。

限界だった。



 歌の事を考えた。

 トム・ジョーンズの『よくあることさ』を頭の中でかけた。それは排泄の不快感を少しでも頭から追い出す為。


 そう、よくあることさ。よくあること。人間が死ぬまでどれだけ糞をすると思っている。自分はそのたった一回を畳の上でしただけ。それも全部綺麗に出し切って。それだけ。何か悪い? この家の家賃を払っているのは私よ!


 とどめていた涙がドッと溢れて来た。肩から全ての力が抜け去り、体が畳の中に沈んでいく。もう、何もなにを考えることも出来ない。何をする気も起らない。


 彼女の肛門はその役目を終え、既に安寧のひくつきを見せていた。下半身は汚濁し、気味の悪い生温かせで満たされている。股の間がぬるぬると擦れる。

 臭気は一挙にして部屋中に広まり、高い室温と混ざり合って、呼気にも自分の糞尿が混ざっている様だ。

 惨めな気持ちに流れ出す涙を拭く気力も無い。


 まだまだ帰ってこない息子に腹は立たず、今はただ一刻も早く戻ってきてほしかった。

「助けて………助けてよぉ………ねぇ………ねぇぇ………」

 その声が部屋に木霊すると益々惨めな気持ちになった。

 部屋はどんどん熱く、全身ににじみ出るようなべっとりとした汗をかき、頬と首筋に焼けつくような痛みを感じる。

匂いの所為もあって頭がボーッとする。呼吸は深く、ゆっくりだ。



 もがこうとすれば、腕は痛み、加えて体力がもうほとんど残っていないことを知った。

 周りを虚ろな目で見まわすと息子のおもちゃが並んでいる。元々は小学校に上がる時に捨てる予定だったものだ。自分が小学3年生の時はこんなくだらないおもちゃなどで遊ぶことなどとっくの昔に卒業していた。

 しかし、息子が断固拒否した為仕方なく一部だけを残したのだ。




 それを見ると友美は目の奥と鼻の奥に違和感を覚え、ぐっと唇を噛んだ。

 息子が愛おしい。

 しかし、悔しい。

 何故ここまで愛しているのに、伝わらないのか。彼は決して馬鹿ではない。自分がもっと、もっと熱心に教えていればこの愛は伝わったのではないか?


 不意に死を意識した。


 そしてそれは瞬く間に伝染病のようにして脳に伝播して行き、自らが死の淵に立たされていた事を知った。

 どれぐらいの時間が経ったのだろう。10分だと思えば、10分のような気もする。1時間だと言われればそんな気だってしてくる。


 息子は今どこにいるのか。


 息子は私を助ける為に帰って来るのだろうか。

 

 出来の悪い息子にぶら下げられた命を必死で掴もうとしている自分を俯瞰で見ている気分に陥った。恐怖はしっかり胸の奥に座り込んでおり、追い出すことは最早無理だ。


どこかで救急車が走っていく音がする。






耐え切れなくなって友美は嗚咽しながら泣いた。

恐怖。

息子への愛。










しかし、それでも息子は帰ってこない。


待てど、暮らせど。









おわり


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待てど、暮らせど 諸星モヨヨ @Myoyo_Moroboshi339

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