第4話 決心・現実

 合成着色料なし、人工甘味料なし。

 今どきその二つを兼ね備えたアイスキャンディを探し出してくるのは至難の業であったが、友美は愛する我が子の為、それを成し遂げた。

 生協で通信販売されているフルーツアイス詰め合わせセットは彼女のオーガニック信仰と健康志向に応えてくれたのだ。


 イチゴ、ぶどう、レモンの三種類が入ったそのセットは如何にも業務用と言ったパッケージで確かに味も薄かったが、それ以上の甘味を知らない良太には充分であった。(友美としては砂糖も本来入っていてほしくはなかったが、やむをえまい)


 唯一困ることは良太がレモン味しか食べず、他を残すことだ。どういう理屈かは分からないが、ぶどう、特にイチゴ味は彼の舌に合わないらしい。(友美がそれを許すと思うか? 考えるまでも無い)


 数分の沈黙の後、友美へ安堵を与えかけた良太が持っていたのが、そのアイスキャンディであった。


 レモン味だ。


 彼は片手にそれを握って不思議そうに友美を見ている。

 ―あれ? ママはキャンディいらないの?―そんな表情に見え、友美は再び下唇を強く噛みしめた。血が噴き出し、慌てて止めたがもう遅かった。


 呼吸が自然と荒くなって心臓が締め付けられるような痛みで震える。震えながら大きく息を吸って吐き、吸って吐いた。それでも胸の不快感は張り付いたままで、途端に体が重くなったような気がした。

 声を上げようと口を開いたが、声は出なかった。心がもう何を言っても無駄だと悟っていた所為だと友美は思った。

 ひんやりとした畳に顔を押し付けるとリビングが見える。すぐそこ、距離にしては数mも無い場所で自分の腕が腐るか腐らないかを左右するスマートフォンが転がっているのだ。それを思うと凄まじい絶望に襲われそうになった。


 このまま、自分の右手は腐ってしまうのか。


 戸口から良太の姿が消えていた。彼はテレビの前に座り込み、テレビ台のガラス戸を開いてDVDデッキを弄っている。


 息子は母の危機を理解できていないのではないか?

 まさか、そんなはずはないわ友美。そんな人間がいる?― 内なる声が囁きかける。そうだ、そんなはずはない。じゃあ、どうして?

 内なる声はそれ以上反応することはなかった。

 その代わり、友美の中にある強い決心が沸き上がって来た。熱く、陥りかけた絶望の淵から引っ張り上げてくれるような勇ましい決心だ。


 ―自分で解決するのよ、友美― 内なる声ではなく自分で自分に言い聞かせた。

 そうだ、島津友美と言う人間はこれまでどんな困難も一人で乗り越えて来た。決してだれにも頼らない。頼れるのは自分だけ、強く逞しい人間、それが自分だ。

 何としてでもリビングまで辿り着いて、自力でスマホを手に入れる。それしか方法はない。


 友美は動かせる方の手を名一杯伸ばし、畳を固く掴むとそのまま体を引きずってみた。折れたほうの腕が飛び上がるほど痛んだ。痛いのは手首ではなく、肩から二の腕にかけてだったのが奇妙だった。肩から吊り下げられた神経と言う操り糸が強く張って今にも引き千切れそうな感触。


 見ると指先の方は紫を通り越して、黒ずみ始めている。

 その光景は絶望ではなく、彼女の急進力に変わった。

 これを乗り切らなければその内腕は完全に腐り始める。痛みと腕、取るべきものを迷う事はない。失うのは両足と夫だけで充分だ。


 奮い立つのよ、友美。あなたの可愛いあんよをぶっ飛ばしたあのクソ電車の痛みに比べたら大したことなんかないわ!― 心強い内なる声。


そうだ。進むのだ。

 痛みと戦いながら進む友美を他所に、リビングからはきかんしゃトーマスの歌が流れ始めていた。 痛みによる冷や汗を流しながら友美がリビングに目をやると良太がお気に入りのDVDを鑑賞し始めた所であった。


『きかんしゃトーマス ソング&ストーリー』奴のお気に入り。友美は何十、いや何百とこの歌を聞いた。

 音に流される様にして視線を送る。

 テレビにカラフルな文字と人面機関車が浮かぶ。下のテレビ台はドアを開けたまま。

 ガラス戸が危ないから、使った後はちゃんと閉める事― 無意識にそう思いながらフッとそのガラス戸を見た。



 日常。極めてピンポイント(しかし、今の彼女にはとても重要な事だ)な日常について語るとすれば、ことスマートフォンに関する日常はこうだ。

 彼女が愛用しているピンク色の手提げバック、友美はそこに必ずスマホを突っ込んでいる。が、底が浅いのでバックからは体の3分の1がはみ出している。何処へ行くにしても彼女はそれを持ち回り、帰宅すると必ず机の上に置く。

 開いたガラス戸にはそんな日常が綺麗に移り込んでいるはずであった。


 しかし、机の上にはスマホは愚か、バッグそのものが無い。

 なんでないの?― そう思った友美は冷静そのものだった。

 音楽の中、友美は思い返してみた。


 痛み、そこにトーマスの歌が混ざり込み、記憶のリフレインを妨げて来る。それでも必死に、そして確実に時間を巻き戻していく友美は、次第に自分が先ほどとは比べ物にならない絶望に近づこうとしているのを悟った。


 車に忘れたのだ。


 息子を叱責する事に気を取られ、バッグを持ち出すことまで頭が回らなかったのだ。買い物袋もそうだったように………

 二回、友美は床へ頭を強く打ち付けた。

 良太の所為だ、全部、全部、良太の所為だ― 決心がもたらしてくれた胸の熱さがスッと消え、虚無と寒気が友美の身体を包み始める。


 腕が腐る? 自分が愚かな勘違いをしてしまった事がなんだか面白くなってきた。

 腕がもげるぐらいならまだいい、このままでは死んでしまう。理屈も、死へと繋げる論理的な思考も無かったが、友美はその時初めて明確に死をイメージした。


 決意が一瞬で消え去り、単純な考えが再び頭を支配して行く。やはり、息子に助けを呼んで来てもらうしかない。彼を上手くコントロールしない限り、助かる道はないのだ。怒鳴り散らすのは助かった後、それこそ死ぬほどできる。

 それはあまりにも心もとない命綱だった。

 その命綱は瀕死の母を宙ぶらりんにしたまま、あんぐりと口を開け、憑りつかれたように人面機関車を見つめている。



「良太ッ!」

 少し呼び掛けて、すぐにあきらめた。絶望している訳ではない。ただ、良太はトーマスが終わらない限り、こちらを気にすることは絶対にないと思ったからだ。残された体力はもしもの為に温存しておきたかった。


彼は状況を理解できているの?― 内なる声が囁きかけた。無論、理解できるはず、友美はそう答えながらも少し不安になった。

 あの、死んだ魚のようなくぐもった眼。感情を持たない無慈悲な目。はたして、わざとあんな小さな子供出来るだろうか?もしかしたら、この子供は感情が無いのでは?


 たまに不安になる。

 彼は感情なんてものが存在しないのではないかと。

 彼にあるのは反射とパターンのみ。怒られれば泣く、恐かったり悲しかったりするからではない。ただただ、反射的に体が従うままに泣いているだけなのではないか。

 しかしそんなことが到底あり得ないことは友美も分かっている。

 息子はフツー。フツーでただただ、だらしがないやつなのだ

 頭を振ってその考えを打ち消した。


 疑問を抱くのは遠の昔に辞めたはずだ。彼にハンディキャップがあるかどうかなど、もう何回も病院で調べた。

 結果は問題なし。彼はフツーなのだ。

 友美に言わせればフツーに馬鹿、それで決まりだった。

 だからそのだらしなさや馬鹿さ加減に腹が立つのだ。自分が小学3年生の時はもっと賢かったはずなのに。



 長い30分が終わった。

 ぐずぐずしている暇はない。放っておけば彼は10回以上繰り返してDVDを見るはずだ。

 叫んだ。出せる限りの大声で息子の名前を叫んだ。叫ぶたびに横隔膜が蛇腹のようにうねり、体に軋む痛みが走り回った。


 必死さのあまり、良太が戸口に立っていることに気が付かなかったほどだ。

 開いた襖から覗き込むように顔をのぞかせた良太は青白くなった顔で必死に叫んでいた友美を見て、クスクスと屈託のない笑顔で笑った。


 友美は涙が出そうになった。なんでこんな状況で笑えるのか理解できなかった。

 自分が何の酷いことしたというのか。あれほど愛情も注いだではないか。怒りと憎しみで溢れそうになった涙を友美は押し留めて、声を絞り出した。


「良太………良太…………お願いだから、だれか………誰か、誰かを呼んで来てほしいの!」

 口を尖らせ良太は聞いている。


「家から出てもいい。家から出て誰でもいいから助けてっていうの! ママが大変だって!」


 後ろでトーマスが流れ、元気溌剌な子供達が歌を歌い始めた。

 良太は何度も振り返り、母とトーマスを何度も何度も見比べている。


「良太ぁぁッ……お願いだから、外に出て! 助けを……呼んで来てッ」

 と、良太は数歩母に近寄って来るとしゃがまず、見下ろして来た。


「プリウス! エルグランド!」

 やったわ友美! あなたの勝よ!― 内なる声が喝采を上げる。息子が返事を返して来たのだ。


「そう、そうよ! 良太外に行ったら、ママが大変って伝えるの!」


 笑顔を浮かべ、念押しする友美が言い終わらない内に良太はしゃがみ込んでミニカーを数台掴み上げるとそそそッと部屋から出て行った。


 ドタドタと廊下を抜ける音。そして相変わらず、トーマスは明るい音色で歌っていたがその向こうでがちゃんと扉が閉まる音。

友美は嬉しさで叫び声を上げそうになったが、もうそれだけの体力が残っていなかった。



つづく


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