第3話 偶然・事故

 理解が後からついてきた。


 が、考え出したのは事態が起きてしまってからで、それはあまりにも遅かった。しかし、こんなことが予測できたのかと言われれば友美は絶対に無理だっただろうと思った。


 車椅子の主輪が巨大な塊になったダイヤブロックに乗り上げ、そのまま横倒しになってしまったのだ。


、全くの偶然と言えた。原因になったらしきプラスチックの塊を友美は見たが、それは女性の拳ほどの大きさで、普段であれば難なく乗り越えられる物であった。


車椅子から投げ出された友美は 首を回して部屋を見渡す。視界が下がったことで部屋が異様な広さをもって感じられていた。

 頭を打たなかったのが不幸中の幸いとして喜ぶべきなのか、友美はまだしばらく思案する必要があった。もっとも今彼女が関心を向けるべきなのは、全体重を掛けてプレスされた右腕に走る鈍痛と身体に食い込むダイヤブロックの刺すような痛みだ

意識はある。だから、「ンッがぅあッ」と悲鳴も上げることができる。


 壁にかかった【タートル・ジャック】のカレンダーが見えた。横向きだ。棚に置かれた乱雑な絵本―いずれも買ったものではなく譲り受けたものだ。彼女はそれを不思議と誇りに思っていた―


 辺りに散乱するダイヤブロック。見事な完成品と呼べるものは一つも無く、友美は見本を持って良太が作ってとやって来ても一度たりとも作ってやった事は無かった。口癖は――だ。


何度も壁や地面に叩きつけて塗装が剥げかかったトミカが数台。

百円ショップで買った粗いスケッチブックから折れたクレヨンがはみ出している。

息子は既に奥の部屋―寝室に消えてしまっており母の緊急事態を知る由も無い。


 こんな状況に陥っても友美の怒りは収まるどころか、息子に対する激しい憎悪が心に渦巻き、彼は愚かしいことをしてしまったことを今後一生後悔するだろう、と奇妙な嬉しさまで覚え始めていた。説教をする新たな口実を手に入れた気分だった。

 その為にはまず、車椅子へ這い上がらなくてはいけない。それ自体は造作もないことだ。右手首の痛みは多少気になるが、ひとまずは座席へ戻らない事には始まらない。


 身体を動かし、車椅子に戻ろうとした友美は愕然とした。


 片方の車輪が見事に外れているのだ。接合面を見ると金具にひびが入っていた。ふ と、先ほど突き飛ばされ壁に激突した時のことを思い出した。


 まさか、あの時に―

 それが分かった所でどうとなるわけではなかったが、息子の固く分厚い拳の感触が胸に戻ってくるような錯覚を受け、少しめまいがする。


 途端に頭が冴えて来る気がした。これは少しばかり、大変なことになったのではないか。

 手元にはスマートフォンも無ければ、緊急を知らせるブザー(友美は最初これを拒んでいたが、彼女の母がこれだけはと持たせてくれたものであった)もない。


 頼れるのは……

 息子を呼ぶのよ―友美の内なる声がそう言っている。それ以外、他にどうしようもない。だが、先ほどまでの怒りと彼女の自尊心がそれをグッと押し留めてしまった。

ここであの息子に頼ってしまえば、全てがパァになる。こんなピンチこそ一人で乗り越え、強い母を子供に見せつけなければならないのだ。


 早急はスマートフォンであった。それさえ手に入れば、助けを呼ぶことも、新たな車椅子の手配も出来る。

 身を起こし、いつも風呂に入る時そうするように両手で踏ん張ってとした(これは正しい表現ではないが、彼女の中では確かに立ち上がる行為だ)。


 同時に、先ほどまで違和感を覚えていた右腕が痙攣するほどの痛みに襲われ、友美は再び地面に倒れ伏す。


 今まで体験したことのない異様な痛みであった。勢いに任せて体で踏み潰したのだ、下手をすれば折れているのかもしれない。


それまで意識も向けていなかった右手に友美はその時、初めて目を落とし、

「ひゃぁぁッ!」

と情けない声を上げてしまった。


 彼女の折れているかもしれない、という推測はある意味では当たっていたが、事実はもっと深刻であった。


 右腕、特に右手首が外側へ綺麗にひん曲がっていたのである。

 支点となった手首は内部出血なのか、濃い紫と黒にじわじわと侵食されている。目の前で起きている事態があまりにも現実離れしているせいで、自分の腕だと分かっていながらも友美は精巧な模型を見ているかのような感覚に陥った。


 言葉を失い、脳が処理しきれ無い腕の変形を眺めている内に脳が回路を痛覚に繋げてしまった。

 彼女は全身が狂い悶えるほどの痛みに跳ね上がり、幾度も幾度も畳へ体を打ちつけた。何処が痛いのか自分でも分からない。手首から先は全く感覚が無く、辛うじて触覚がある手首の先が張っているように痛い。奥の方で何かが突き刺さり、肉に食い込んでいる感じがあった。


 気絶しちゃダメ! 今気絶したら死ぬわ! 自分で自分の頬を引っ叩きたかったが、そこまで気を配れない。だから、今は必死に激痛とそれから逃げようとする脳の神経細胞を全て引き留めておかなければならなかった。


 苦しい作業ではあったが、次第に痛みは波になった。少々大しけの海模様だったが、激痛が途切れる瞬間が少しでもあるのは有り難い。

 人間の身体が上手くできているのか、それとも生命の危機なのか……いずれにせよ、意識を持って戦わなければならない友美には好都合だ。


 痛みの緩和に胸を撫で下ろしている暇はない。事態は一向に良くなっていないのだ。むしろ、悪化の一途をたどっている。

 息子を呼ぶしかないわ― 心の声は友美の考えと呼応するかのようにシンクロした。四の五の言っている余裕は既に消え失せていたのである。


 うつ伏せになり、首を名一杯伸ばすと、唾を呑みこんで喉を潤わす。


「良太ぁッ!」

 反応はない。(彼が一度の呼びかけで来ることなどあり得ない)

「良太ぁぁッ!」

 張り上げた大声が傷に響いて来る。それでも今は叫ばなければならなかった。




 どれほど呼び掛けただろうか。

 あれほど憎んでいた息子の顔が襖の影から覗いた時、友美は安堵で心の底から喜びの声を上げた。


 良太は倒れた母に別段驚く様子も無く、親指を咥えたままジッと下目で友美を見下ろしている。―ママそこで何をしているの?―と言わんばかりだ。


「良太………良太……こっちへ来て」

 声を震わせながら問い掛けたが、息子は微動だにしない。


「良太………お願い、ね? 怒らないから、ママの所へ来て?」

 彼は母親がふざけていると思ったのか、へふふふッと笑うと汗だくで床にもがいている友美に少しずつ近づいてきた。


「良太、携帯取って来て?」

 すぐそばまで近寄った息子は首を傾げた。


「携帯、分かるでしょ? 携帯……」

 息子は口をとんがらせながらしゃがみ込み、ダイヤブロックを掴み上げるとしげしげと眺め始める。


 友美の呼吸が荒くなった。

「け、い、た、い‼ ママがいっつも鞄に入れてるでしょ? ピンクの!」


 突然の大声に良太は驚いて母親を見やり、頭を掻き毟った。まずい、これでは再び寝室もどりかねない― そう思った友美の目にスケッチブックが止まった。


 腕(勿論動かせる方の腕、左腕だ)をそっと伸ばし、スケッチブックを掴んだ。古く錆び付いた自転車のタイヤを回すように体中が軋みを上げて痛む。


 スケッチブックを引き寄せると、乱雑に開く。中には絵とも文字とも付かないぶきっちょな模様が所狭しと描き込まれ、クレヨンのくぐもった臭いが鼻を突いた。


 長方形。顎でノートの端を押さえ、折れて先がぐちゃぐちゃになった黒いクレヨンで友美は必死に長方形を描いて見せた。何処まで詳細に描くのか考えてはいなかったが、とりあえずホームボタンを付け、最後に黒く塗りつぶすことを忘れなかった。

 その間中、良太は爪を噛みながらその様子を見守っていた。


「これ、分かる? ママがいつもバックに入れてる携帯。ね? これをここに持って来てほしいの。分かるでしょ?」


 絵で状況を説明しながら妙な感覚に陥った。彼は小学3年生なのだ。この状況、この言葉、理解できていないはずがない。でも、理解力の無さに腹を立てている余裕は彼女にない。


 友美が念を入れて、要求すると良太は少し首を傾げながらすたすたと隣の部屋に出て行った。

 少しして、良太は戻って来た。片手には黒くてボタンの付いた長方形の物体をしっかりと握りしめている。

 良太は微かに笑顔を浮かべると友美の眼前にそれをポンと投げ落とした。


「ありが―」

 そこまで言いかけて止めた。畜生め、このとっておきの感謝の台詞はお前が成功した時まで取っておく―


 第1回島津友美絵心テストは残念ながら惨敗だ。

 息子は何も間違っていない。

 黒くてボタンの付いた長方形の物体。

 そう、テレビリモコンだ!


 友美は片手に掴んだままにしていたクレヨンをぐしゃっと握りつぶした。もし足があって、右手もしっかりと元の位置についていたら大きく振りかぶってこのガキの頭を殴ってやりたい、しかし今の彼女には立つことも、息子を殴ることも出来ない。

 怒りと敗北感に打ちひしがれながら、下唇を血が出る寸前まで噛み、首をもたげた。


「違うの………違うのよ………惜しいけど……、これじゃないの。バッグ、分かる? ママがいっつも持ってるバック。机の上にあるでしょ? ね?バック」


 第2回島津友美絵心テストを開催しようかと思ったが、掌の中で粘り気を出しているクレヨンを感じて却下した。もう変えのクレヨンはない。


 良太はリモコンを届けると、自分の役目が終わったように座り込み、トミカを掴んで眺め始めた。傷だらけのプリウスを鼻っ面まで近づけると、鼻筋からおでこに掛け、タイヤを走らせた。両眼がその雄姿を確認するべく、中央へ集まる。

 痛みと怒りで今にも泣きそうな息を吐き、友美はグッと耐えた。今は何としてでも彼に携帯電話を持ってきてもらわなければならない。


「良太ッ………お願いだから、バッグ。机の上のバッグ、取って……来て?」


 すっくと良太が立ち上がったのを友美はやっと言葉が通じたのだと確信した。そうでなければ、自分に一瞥くれながら去っていくという事などしないだろう。

 信じるようにリビングを見た。

 少しだけ空かされた襖からテレビ台に置かれたテレビとDVDケースが少しだけ見える。もうあと少し開いていれば、時間を確認することも出来る。

 日差しが差し込み、畳んで置いたままになった洗濯物から埃が舞っていた。



 足音が近づいてきた。

 助かる。安堵が新たな思考の扉を開き、やっと車の中に野菜や生鮮食品を置き忘れて来た事に気が付いた。息子を起こることに夢中で自分は大事な物を忘れて来ていたのだ。


 一つの事に気を取られ、肝心なことを忘れるなんて自分も息子の事を笑えないな、と苦笑いする余裕も出て来た。

 影が襖の影にちらつく。

 来るぞ。結局は似た者同士なのかもしれないダメダメ息子ちゃんが。



 戸口に立った息子の姿を見て、友美はある決心をしなければならなかった。



つづく

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