第2話 帰宅・成長

 息子のダメさ加減の一端に自身の責任を感じていた友美のそんな気持ちも、部屋のドアを開けると同時にすべてが吹き飛んで行ってしまった。

 外の灼熱を癒してくれる素晴らしい冷気がドアから溢れだし、友美の頬を撫でたのである。息子が店内で暴れた所為で、買い物は予定の2倍以上の時間が掛かっている。かなりの長い時間、この部屋は誰の為でもなく、冷却され続けたのか。

 

 良太は部屋の扉が開くと、靴を後ろに投げるようにして脱ぎ捨て、奥へ入っていった。恐らく、子供部屋―正確にはリビングと寝室を結ぶ一室なのだが、今は良太が占拠している―のダイヤブロックを弄りに行ったのだろう。


 友美は目を瞑って大きく鼻から息をした。ドアが開いた状態で怒鳴り散らすほど、まだ彼女の平静は乱されていない。


 車椅子を部屋にあげると、震える手で車輪を丁寧に拭いていく。その間も不思議なことに彼女の怒りは留まるどころか、肥大化して行った。次から次へと頭に息子の愚行の数々が去来する。


 電気代の事で腹が立ったのではない。

 部屋のエアコンを消すよう、外出時息子に呼びかけたのだ。それも4回も。

 良太は物覚えがひどく悪い。一度言われたことをすんなりと聞き入れた事などただの一度も無い。それはエアコンに限らずだ。


 車輪の汚れを拭いとった布巾を乱暴に投げ捨てると、大きく息を吸う。


「良太ぁッ!」


 抑えたつもりだったが、思いのほか声が出ているのが自分でも分かった。返すように奥で動いていた物音がぴたりと止み、最大風量で駆動するエアコンの音がいやにくっきりと聞こえて来る。


「良太ッ! こっちへ来なさいッ!」


 少しして、奥からすたすたと足音が聞こえて来た。

 どこか重く感じられていた足取りに友美は少しばかり不安気な息子の顔を期待していたが、片手にダイヤブロックの塊をひっさげ、ひょっこり顔をのぞかせた彼の顔に強く下唇を噛みしめることになった。


 なんでしょうお母さま、この聡明なわたくしが何か粗相を致しましたでしょうか―とでも言いたげな顔。唇をとんがらせ、出来ることならすぐさま部屋に戻って遊びの続きがしたいという態様の良太はペタリペタリと気怠そうな歩みで友美へ近づいてきた。


 ブロックを持っていない片手はその内無意識に口へ運ばれ、彼は充分短い爪を噛み始めた。

 爪を噛んではいけない―それも何十、何百言い聞かせて来た事だったが、この期に及んでそれまで注意する気にはなれない。


「なんで、ママが怒ってるか分かる?」


 分かるもんなら、言ってみやがれ―ほとんど噛む所の無くなった爪をそれでもガチガチ噛んでいる息子を友美は睨みつける。皮肉なことに車椅子に座った彼女の視線と良太の視線はほとんど同じだ。


 パチッと何かが弾けてしまうのを友美は覚えた。


 説教とは文字通り、教えを説くための物である。しかし、たった今友美が息子に向かってしていることは到底説教と呼べるものではなかった。


 何度言い聞かせても聞かない子供への鬱憤。そしてそれは自分の努力不足なのではないかと言う自責。その全てをフルボリュームで一切の休みなく、友美は良太に浴びせ続けた。これで何かが変わるなんて思ってはいない。しかし、止め板を開けるように一度噴き出した感情は、洪水の如く溢れだし、自分ではもはや止めることなど出来なかった。


 怒鳴り散らす間、友美は怒鳴りつけている自分を俯瞰している気分になった。頭がスッと冷めていく感触があり、耳鳴りが遠くの方から響いて来る。

 息が続かなくなるまで思いの丈を全てぶつけ続けた友美は、喉のイガイガした痛みで次第に冷静さを取り戻していった。


 こんなに叫んだのは初めてであった。今まで溜めに溜めていたありとあらゆる物事が全て爆発したのだ。


 聞こえるほど大きな呼吸を何度かしながら、息子を見た。(これも奇妙なことだが、怒鳴っている間息子の姿は一切目に入ってきていなかったのだ)

 良太は友美の金切り声に顔を顰め、眼を瞑って両手で耳を塞いでいた。体が小刻みに震えている所をみると相当煩かったのだろう。彼はゆっくりと目を開くと、嫌悪の表情で友美に視線を送る。


 再び、彼の時限爆弾が炸裂するとばかり思っていた友美は少々肩透かしを食らい、また苛立ちを募らせた。


「なんなのその目」


 息子は言葉にならないうめきのような物を少し漏らして首を振っている。

 出し切ったはずの怒りの感情は再び胎動をはじめ、彼女の右腕をスッと前方へ向けさせた。

 母親に腕を掴まれる、その恐怖を良太はその時初めて察知していた。


 相手が小学生とは言え、車椅子と生身では分が悪かった上に、まさか友美も良太があれほど軽い身のこなしでサッと体を引くなど思っていなかった。


「逃げるなッ」

 友美はさっきよりも素早く、そしてより遠くへ体を伸ばした。逃がす気など毛頭ない。


 再び逃げようとした良太であったが、母親の機敏な動きには対応できず、がっしりと母の手に細い腕を握り付けられてしまった。

 爪が肌に食い込み、骨までグッと掴まれているような痛みが走り、良太は身をよじった。そんな息子を友美は手元まで乱暴に引き寄せると、もう片方の手を振りかざした。


 ほんの数秒の間に行われたその行動は、友美に自分が車椅子であるということを忘れさせていた。

 重心のかけ方が、両足があったころのそれだったのだ。足が無い所為で息子を掴んでいる方の手に力が入らない。

 それは小学3年生の力でも簡単に振りほどくことが出来た。

 上下に強く振るって母の拘束を解いた良太はその勢いのまま、両手で母の胸をドンっと強く突き飛ばす。


 皮肉にも息子の成長を感じた久しぶりの瞬間であった。

 どっしりと地面に踏ん張った両足を軸にして繰り出された息子の突きは、想像以上の力でもって車椅子の友美を後方へ跳ねのけたのだ。


 慣性の法則にしたがって、かなりのスピードで後退した車椅子は、激しい衝撃と共に壁にぶつかって制止した。フレームが鋭い軋みを上げて震える。


友美は激突の反動で振り落とされぬよう、必死に掴まっているだけで精いっぱいで、怖さを覚える暇など無かった。(これは幸いであったかもしれない)


 ショック(この場合のショックは息子が初めて行った反撃に対するショックであった)に怒りは少しの間消え去っていたが、先ほどの一連の流れが相当に危険な物であったと考えれば考えるほど息子に対する許せないという感情が大きくなっていった。

 言う事を聞かないだけではなく、実の母親に手まで上げる。なんて、自分の息子は落ちぶれてしまったのか。


 脇に心地の悪い汗を感じた。


「うぐぅッ………」

 歯を食いしばってしゃがれた唸り声を漏らした。


「許さないから…………」

 肩を大きく回しながら静かに呟くと友美はハンドリムを掌にしっかり納まるよう握りしめる。


 良太は既にリビングから来た道を戻り、隣の和室へ飛び込んで消えていた。友美の算段では彼はそこを抜け、寝室に籠ろうとしているのだろう。

 リムを勢いよく回転させると、息子へ向かって進みだした。手さばきは荒かったが、それでも確かに車輪は進み、巧みな操作でリビングを横切る。


 半開きになった襖を勢いよく開けると、作りかけのダイヤブロックとレールの無いきかんしゃトーマスのプラレールがそこら中に広がっていた。とは正にこういう状況だろうと友美は考え、自分には足が無いがと思って少し笑った。


 今の友美にはこれらの玩具類を車輪で踏み潰しながら進んでいくことには何の迷いも無かった。例えこれがどれだけ息子にとって大事な物であったとしても、彼はそれを破壊されても文句が言えない程のことをしたのだ。


 バリバリッとゴムタイヤがブロックを容赦なく踏み潰す。ブロックは白く、劣化し曲がって二度と遊べない程に変形して行く。悪路を走破するのはたまらない快感であった。


 しかし、そんな愉快な気持ちも次の瞬間には消え去ってしまった。


 気づいた時にはすでに手遅れで、車椅子は前につんのめる様にして傾くと、友美の掴んでいたリムを軸に半回転してそのまま床へ倒れ伏した。


つづく

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