待てど、暮らせど
諸星モヨヨ
第1話 足のこと・息子のこと
もうほとんど夢に見なくなってたが、それでもやはり事故の記憶と言うのは今でも鮮明に思い出すことができる。
意外にも覚えているのは恐怖や、激痛ではなく、音だ。
モーターの駆動音と車輪が高速回転する音、そして鳴り響く警笛。
その猛烈な音は
決して順風満帆とはいかないが―人生なんて大体そんなもんだ―一人息子を抱えるシングルマザーとしての自分を、友美は誇りに思っているし、その育児に関しては並々ならぬ熱意があった。
小さい頃からしっかり者として周囲に頼られて来た彼女にとって、誰かに頼る、助けてもらうという行為は一種屈辱にも近い感情を沸き立たせてくる。(事実、彼女が事故後夫と別れたのはこれによるところが大きい)
たとえ、両足を失おうともそれを理由にはしない。五体満足である息子なら尚更だ。強く逞しく、頼るより、頼られる人間になれ、息子には毎日そう教えているはずである。
だから、一人息子―
自宅マンション―ヴァンベール北府中の地下駐車場に帰宅した友美はラクティスを難なく、駐車させると、ドアを開け、座席を後ろに大きく倒した。
寝そべる様にして、後部座席に折りたたんだ状態で積んであった車椅子を体の上を通し、外へ出すと、勢いよく地面へ降ろす。
アシストグリップを掴んで身を起こすと、不意に薄暗い地下駐車場にフロントガラスが反射し、隣に座ってポケッとその様子を見ている息子と目が合った。鼻を掻きながら自分を見つめている息子から意識的に目をそらすと、再び作業に戻る。
グリップを力強く握りしめるとそこに自分の全体重を掛け、体を持ち上げた。ドスンと位置を量ったように友美の身体は車椅子のシートへ着地する。慣れた手つきだった。最初のうちは幾度も失敗し、一つの行程を終える度に息を切らせていたものだったが今は殆ど流れ作業で降車する事が出来る。
確かに慣れていても骨の折れる作業だが、今はそんなことを考えている余裕はない。今彼女は一刻も早く、息子を叱責したい気持ちで一杯だった。
車椅子を動かし、車の前までやって来ると既に降りていた息子がその恍けた顔で母親の姿を見ている。友美は怒りに満ちた不穏の表情で迫っていたが、彼にはそれが分からないようであった。
「なんでなの?」
トーンの高い声で友美は息子に叫んだ。
音の大きさに驚いたのか、それとも母の怒りに震えたのか、良太は目を見開いて困惑の表情を見せた。
「なんで、あんなことしたの?」
良太は驚きの表情のまま、友美を上から下、下から上へと見回す。その如何にも自覚無しを装う息子の顔に友美は声を震わせて畳みかけた。
「ねぇ? ママ、いつも言ってるでしょ? お店の中を走り回っちゃいけないってッ! ねぇ?」
良太は黙っているが、理解できないわけがない。息子は今年の四月から小学3年生なのだ。もっと言えば、小学生にもなろうという子供が店の中で走り回った挙句、店の商品を破壊してしまうなんてことがあるのか? まるで、赤ん坊ではないか。友美はその馬鹿さ加減と知能の低さにも腹が立っていた。
「あんた、幾つになったの? ねぇ? 自分で言ってみて?」
良太の表情は次第に、驚きから困惑、そして………
それに気が付いた友美は思わず、舌打ちをしてしまう。彼が爆発寸前であることを悟ったのだ。そう、彼が体の中に持っている小さく、巨大な爆弾がちくたくと嫌な音を上げている事に気が付いたのである。
しかし、それを恐れるほど友美は易しくなかった。
「また、泣くの? ねぇ? 泣いたら終わりなんて思わないでくれる?ねぇ?」
退避行動を進めるランプが友美の心の中で灯り、彼女は巧みに車輪を反転させるとエレベーターへ向かって車椅子を進め始めた。
さあ来るぞ。
ヒーローが爆発を背にして去っていくのを友美は思った。
「うぬぅぅうあああああああああぁぁああああッ!」
彼―良太にしてみればそれは泣き声なのだろうが、周囲の人間には叫び声、いや狼の咆哮に近い。野性味あふれる、肺から絞り出すような唸り声。
ただでさえ、頭と心に響く絶叫は石壁に反響し、幾重にも増幅されて駐車場内を制圧する。
友美は一度も振り返らず―それは当然だ。彼女が一体何回この叫びを聞いたと思っている―エレベーター前まで辿り着くと昇りボタンを手を伸ばして押し込んだ。
上層階に止まっていたエレベーターはゆっくりと地下まで降りて来る。その間も小さな獣の咆哮は鳴り響く。
友美は無視を決め込み、大きく何度も何度も深呼吸をして自分を保った。この絶叫にまた怒りの火を再燃させられてしまえば自分の負けだ。
彼女にしてみればこんなものは全てが予定調和。
いつも通りの叱責と、いつも通りの号泣。それでも怒らずにいられないのは愛があるからだ、と友美は思っていた。
程なくしてエレベーターが開き、友美が乗り込むと良太はぱたりと泣くのを止め、エレベーターへ駆け込んでくる。
5階の自宅に着くまで、息子の顔から申し訳ない、辛い、などと言う表情は綺麗さっぱり消え去っている。(いや、もともとそんな感情あるのか、と友美は疑いたくなる。普通の子どものように謝りはするし、反省したような口も利く。だが、それが次に生かされることはない。一度としてだ)
こうやって泣き叫べば大人は自分を慰め、こうやって謝れば誰もが納得してくれる。そんな風に思っているのが友美には腹正しい。自分が息子と同じぐらいだった頃、多少親に反発はすれどもここまで狡知に長けていただろうか?
いや、無意識かもしれない。自分をエレベーターの中に残し、そそくさと廊下へ出ていく息子を見ながら友美は考える。
もし、無意識にこんな防御行動をとっているのであれば、ますます自分が息子を正さなければいけない、そう強く友美は思うのであった。
つづく
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