第34話 泣き女神


 *


「きれいな絵ね」


 取るに足らない飯盛り女———売女が、男の筆先より生まれた女の絵を称賛した。


 たなびく絹織りの羽衣で裸体を隠しながらも、地獄の業火に身を焼かれて失墜する女神。身を焦がす灼熱に苦悶の表情を浮かべる女神が、見る者の欲情と哀愁を誘った。


「こんな絵を描く男が、傭兵だったなんざ考えもつかねえや。侍なんぞにならなくたって、絵で食っていけたろうに」


 誰ぞがぼやいた。


 侍になるのに志はいらない。名のある家とは違い、野侍は国を渡り歩き、雇われ、戦った手当で生計を立てる。稼ぎがいいうえに、戦場では暴力も乱交も許される。去時化はむしろ、野侍でいた時のほうがよほど楽しかった。


「おまけに顔も男前ときた。まさしく女神様とやらに愛されてるに違いねえ」


 休み処へ立ち寄った旅人衆でさえ、女神の絵は目を瞠る美しさだった。


 否———女神そのものの顔は、取るに足らない平凡な女だ。だが、はかなげに散らされるその悲運ぶりが、女神を美しく見せた。


「ねえ、お侍さん。名前をなんというの。せっかく止まっていくんだ、名前くらい教えておくれよ」


 しなだれかかる売女に対して、去時化は返事をしなかった。


「寄るな。醜女に用はない」

 

 吐き捨てた。


 この売女、休み処では一番の美女だとはやし立てられていたそうだが、来てみればそれほどでもなかった。


 表皮を化粧で押し固め、少しでもよさそうな男がいれば自らの売り上げのために寄りかかってくる。こんな場末で働いている売女は、股が緩いうえに心が強い。暴力の降るい甲斐がない。


「なにさ」


 怒って引っ込んだ売女を放って、筆を走らせる。


 この女神は、まだ完成ではない。


 柔筆がその頬を撫で、嘆き苦しむ女神から、ひとひら流れる涙を描いた。女神が落涙して初めて、去時化は鳥肌を立たせながら興奮する。


 この奇妙な絵描きが、自らの描いた女に昂っているのを見て、周りに寄り集まった男衆もたまらず息を飲んでいた。


 この去時化という男、休み処の男衆に頼まれて、女の春画を書いた。その淫らな絵で金にはなったが、描いた女の体にはなんの欲望も見いだせなかった。


 強い女が、金のため積極的に男を食いに行っているさまは、見ても描いてもつまらない。こんなもので勃起できる男も、こんなつまらぬ絵に金を出せる男も、どうかしている。


 ———女はやはり、嫌がって泣いているほうがいい。


 この男は駿河に来て初めて、この悲運の女神の絵で昂ったのである。


「お前さん、この顔好きだな」


 男衆の一人が言った。


「お前さんはここ数日、ずっとここにいるだろう。前にも似たような絵をかいていたぜ。こないだの絵はどうした」


「燃やした」


 去時化は静々と告げた。


 絵を燃やすのは常なることだ。絵を描くたびに、記憶の中からその風景を呼び覚ますことができる。描いてしまえば、もう不要となる。


「———俺はたった一度だけ、女神に出会ったことがある」


 ぽつりとつぶやいた。


 まだ男にもなっていなかったころ、この女神によく似た娘を攫い、飼っていた。


 それは春の盛りで、どうしようもなく自身が昂っていた頃合い———いつもなら面倒で、手で慰めたりもしたが、その時は手ですら物足りなくなってきた。


 手ごろに抱ける女が欲しいと思っていたときに、その娘を見つけた。———否、本心を言えば、女なら誰でもよかった。最初に目についた女を犯そうと思っていた。


 その娘を襲った理由は単純に、『最初に目についたから』に過ぎない。


 だが、男というのは不思議な心理を持っている。


 最初に抱いた女のことを、生涯忘れられないのだ。


 去時化とて例外ではなく、いちど抱くとやめられなくなった。どこへ行くにも連れ歩いて、好きな時に犯した。酷く扱うほどに娘がすすり泣くから、それが気持ちいい。


 あの娘が———どこの誰とも知れぬ爺に奪われてからというもの———去時化はどの女でも満足できずにいる。


 *


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羅刹の風 八重洲屋 栞 @napori678

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