第33話 鬼髪
*
夕立の甘い香りが、まだ自分の体に染みついているような気がした。
一晩じゅう腕に抱いていれば、いわゆる移り香というものがつくのだろうが、夕立に慰められたのは三日も前だ。いまや岡崎から遠く離れ、駿河まで到達している。移り香など消えていてもおかしくはない。
それでも、凪は何度も思い出しては、香りの残る自分の腕を嗅いだ。
三日前の晩———久しく暑さのぶり返した残夏にいぶされて、にじみ出た人の香り。
いたって普通の香りだ。誰しも体臭というのは、これくらい微弱で、普段の生活では気にも留めないようなものだろう。
けれど、その香りの染みる腕には、少女を抱きしめた事実がある。香りと事実が結びついて、生々しい実感を持たせてくれた。
「何をしているんです」
山道に落ちた小枝を踏みしめて、夕立が背後に立った。
「あ、ああ、何も」
三日も前のことを未だに思い出して、余韻に浸っているとは言えなかった。
当の夕立は、抱きしめられても翌日には平然としていて、まるで何事もなかったように旅支度をしていた。
『大丈夫だった?』
と聞くと、
『あなたはこれまでの人生で、蚊に刺されたことをいちいち気にするんですか。慣れちゃうとそんなもんですよ』
と返された。
慣れている———この言葉が、ずっと引っかかっていた。
夕立は美しい女性だから、男なんて遊び慣れているのかもしれない。———けれど、普通の女の子とは違うそっけない反応が、自分の初心な心を言い表すのを躊躇させた。
「……髪の毛が、意外と気になってさ」
凪は短くなった後ろ髪を触りながら、そう告げた。
髪紐を吉蔵の母親に譲ってしまったから、もう髪を拘束するものがない。長い髪に未練はなかったから、凪は思い切って、髪を短く切ることにした。肩口まで伸びていた髪が、今や、結べるほどの長ささえ残っていない。
「切りすぎですよ。そんなに短くしてどうするんですか」
かくいう夕立も、女が尻まで髪を伸ばすご時世に、肩までで髪を切り揃えている。
「単純に、邪魔だから切ったんだよ。お夕さんだって、短くしてるだろ」
凪はそう言いはしたが、邪魔だから———というのだけが動機ではない。
時代に見合わない短髪。
まるで夕立との共通点を持てたようで、不思議と嬉しい心持があった。
「———そうですね。私も、髪は邪魔なんで」
夕立が辟易としたように言った時、風が山林の中を駆け抜けた。夕立の黒髪を攫い、目元が隠れる。その童女のようなたっぷりとした小ぶりな唇が愁いを帯びていた。
髪が短い夕立は素敵だ。
けれど、
(この子はきっと、長い髪も似合うんだろうな)
艶めく黒髪を束ねて、可愛らしい簪をつけて、女の子らしい春色の着物を着て———。
凪は夕立の趣味など知りはしないが、少女の装いはきっと似合うと直感していた。
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