第32話 夕子 (3)
其花糸の首を奪われることとなるのは、豊臣軍を打ち負かし、大阪まで攻め入ってくる前夜である。
はじめは夕立を小手先で弾くだけの腕前があったのに、年月が流れるほどに、其花糸の剣は鈍っていた。夕立が強くなったのではなく、彼の腕が落ちた———そう分かるほどに、衰弱ぶりは明白だった。
ただ年のせいだけではない。其花糸が隠れて喀血しているのを、夕立は見たことがある。年を食って弱った体の中で、病魔はみるみるうちに育っていたのだ。
そうして、其花糸はついに動けなくなった。
歩いて移動することはできても、もう山の中を自由に駆け回ることはできない。
『山を下りろ』
其花糸が夕立にそう命じたことがあった。
『この体では、もう何も教えられん。これだけ上達すれば、たいていのところでは生きていけよう』
『嫌です。弟子が欲しいと言っていたではありませんか』
『流派もないものが、弟子を取ってなんになる』
其花糸は吐き捨てた。
『お前があまりにも泣いて乞うゆえ、弟子ということにしたのだ』
『———』
『何の事情かは訊かんが、帰ることが出来ぬのであれば仕方があるまい』
師はそれ以上、多く語ることはなかった。
彼のことだから、きっとなにか隠した真意はあるに違いない。けれども、聞きすぎればたしなめられると思ったから、夕立は聞かなかった。
『でも……私、やっぱり先生と一緒にいたいです。せめてお亡くなりになるまで、おそばにいてはいけませんか?』
聞かぬ代わり、自分なりに粘ってみた。
其花糸はしばし口をつぐんでいたが、いくらか間を置くと、
『ならば、好きにすればよい』
そう言った。
『———お前が出ていくと思って、炭を余分に買っていなかった。すまんが、麓に降りて買ってきてはくれんか』
そして、柄にもなく唐突に、そのような頼みごとをした。
夕立にしてみれば嬉しい頼み事であるから、なぜ、急にこんなことを聞くのかなど考えもしなかった。元気のいい返事をして、金をもって、意気揚々と山を下っていった。
炭鉢の中に、まだ十分な炭が残っていたことなど知りもせず。
夕立が家へと帰ってきたとき、男の嗤う声が複数あった。それも、其花糸のものではない、若く下品な声だった。
いかに剣を学んでいても、夕立の深層にはか弱い娘の心がある。たまらず、藪の影に隠れて、家の中から出てくる人影をうかがっていた。
その姿を見て、絶句する。
ひとりは小柄な男。もうひとりは爽やかな容姿の少年。
残りのひとりは、あの夕立をさらった侍だった。
次にその顔を見た時は、必ず殺すと誓った男。それなのに、夕立の脚は動かなかった。憎悪よりも先に恐怖が込み上げて、涙が出た。
「おい、そんなものをもってどうする」
一見、清涼然をした容貌の少年が、侍に向かって言っていた。
「
「いいんだよ」
侍は勝ち誇って返していた。
「この傷の仕返しができたからな」
侍の指が伝う胴は、かつて、其花糸が反撃に斬りつけた時の刀傷が走っている。
夕立がようやく立って動けたのは、彼らが風呂敷に包んだ鞠大のものを手に提げて、弾んだ足取りで帰っていった時だった。
「っ……!!」
夕立は慄然として、その場に崩れ落ちた。
彼らの話ぶりから、其花糸が生きていないことくらいは想像がつく。
だが実際に、ご丁寧に首まで切り取られている姿は凄惨だった。戦おうとしたのか刀を抜き放ち、硬く握りしめる胴体の向こうには、まだ十分に炭の残る櫃が置かれていた。
ようやく、夕立は其花糸の糸に気が付いた。
腕こそ鈍れど、気配を感知する才覚だけは鈍っていない。夕立よりもうんと早く、あの侍たちが家に近づいているのを知っていたのだ。だからこそ、夕立を山の麓へと逃がした。
(どうして、私を戦わせなかったんだろう)
それが無念で、夕立はやはり泣くことしかできなかった。
其花糸が夕立を用心棒にしなかった理由は、思い当たる。
戦わせても勝算がない、すなわち夕立では勝てない———そう判断したからとしか、考えられなかった。それが分かったから、余計に無念だった。
肉刺をいくら潰して努力をしても、女の体では彼らに勝てない———そう、言われているようで。
それでも、夕立はまだあきらめてはいなかった。
侍に連れられていた時、京には怪しい業を使う術師がいると聞いた。術師の業であれば救えるかもしれないと思った。
夕立にとって、京に降りることはこの上ない拷問だ。
けれど、
『必ず……必ず助けてあげますからね』
たとえ京じゅうの人間から痴女だと罵られても———其花糸を救えるのなら構わないと思った。
結局、その術師にすら肢体を蘇生させることはできなかったが、夕立にはまだ、師のためにできることがある。
真っ当な剣士の魂は、首に宿るという説がある。
胴体がどのような死に様であっても、首を丁重に弔えば、魂は救われるのだ。
(あの男を殺して、先生の首を取り返す)
夕立は今度こそ、弱い自分を葬った。そのために、誰を踏み台にしようとも。
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