第31話 夕子 (2)



 夕子が自由の身となったのは、それから一年が過ぎた夏の晩である。


 戦が少なくなり、侍はついに盗賊まがいの所業に手を染めるようになった。それでも侍は夕子を殺すことも、手放すこともせず、住まいを変えるたびに一緒に連れて歩いた。


 それが、侍にとって仇となる。


 ひとりで山中を歩いていた壮年の男に目をつけ、追剥にしようとしたが、男の手には剣があった。


 このとき、侍がなにを思ったのか、夕子を拘束する荒縄を手放した。


 だが、侍の抜刀は間に合わず、男が放った刃はそのまま、侍の胴を引き裂いた。


『ぎゃっ』


 短い悲鳴とともに侍が、弱弱しく首をもたげて気を失った時、夕子は初めて、逃げられると確信したのだった。


 もう、なんの誇りも持っていなかった。


 地面に頭をこすりつけ、壮年の剣士に必死で助けを乞うた。


 何でもする。


 たとえ体を要求されても、侍の元にいるよりはよいと思って、何度も頼みこんだ。


『ならば、自分の家へと帰ればよい』


 男は言ったが、


『京には帰れません』


 夕子には、京に帰ることのできない理由があった。


 この侍は、夕子を隠して京に出入りすることもある。だから、あの淫らな絵を、誰かに横流ししたかもしれない。夕子には、自身の痴態が知れるのが、死ぬより恐ろしかった。


『帰りたく、ありません……』


 京に戻ったら、家族が、友人が、夕子を指さして揶揄するかもしれない。


 京中の人間が、夕子を見たとたんに指をさして嘲笑し、石を投げてくるような気がした。


 すると、


『ならば、儂の弟子になるか』


 男に聞かれて、夕子は考える間もなく頷いていた。


 男は名を名乗らなかったから、夕子でも、その本名も、出自も知らない。死する時まで明かされなかった出生と名前、加えて壮年になっても衰えない力量。今になって思えば、彼はかつて、どこかの国に仕えていた間者なのかもしれない。


 流れ、うねる霧のような独特な太刀筋の男を、仮に其花糸それがしとするが、夕子は名を呼ぶことなく、其花糸を「先生」と称した。






 其花糸は夕子に「夕立」の名を与え、京と近江の狭間にある山小屋へと連れ帰った。


 これといって夕立に何かを迫ることはなかったが、其花糸がかたく、


『何があっても、男の前で泣いてはならぬ』


 それだけを誓わせた。


 その誓いは厳格だった。


 温かい風呂に入れてもらって、邪念のない飯を食わせてもらった時、その優しい計らいからたまらず涙を流すと、食べかけの茶碗を取り上げられた。


『泣くな』


 其花糸は結局、泣きやむまで茶碗を返してはくれなかった。


『よいか、夕立よ。泣いてはならん。女は気性が優しいから、泣けば罪悪感でなにもしてこなくなる。だが男は、野猿と同じだと思え。男は女が泣いてもなんとも思わぬ。男にとって、女は同じ人ではなく、牛や豚だ。男にとって、女の涙は餌なのだ。卑怯者に餌を与えてはならん』


 それはまるで、あの侍のことを指しているような言いつけだった。


 泣いている限り飯も風呂も与えられないので、最初は施しを受けたいがために泣くのをやめた。そのうち、あの侍から受けた辱めに対し、ようやく深い憎悪を覚えた。


「いつか殺してやる」


 強くなれば報復ができる。


 そう確信し、いつしか泣くのをこらえて刀を握るようになった。毎日のように竹が育ち、ふた月もすれば道も変わるような山の中を、毎日走り続けた。手の肉豆をいくつも潰し、幾千と刀を振るった。


 両親のもとへ帰りたい心は、弟子となって一年もするころには消えている。親を思う以上に、師を慕う心が育っていた。


 そこには少なからず、男として意識している面もある。年を重ねた渋い声、壮年であっても分かる顔の整いぶり。それでも、其花糸の口から亡き伴侶の存在を聞いてからは、涙を呑んで諦めた。


 大切なものをひとつずつ捨てていくほど、太刀筋は鋭くなってゆく。


 女の体でも平穏に生きてゆくために、其花糸とともに生き続けるために、腕を磨いてゆくうち三年の年月がたった。


 


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