ペットボトル
もりひさ
ペットボトル
青い空に溶けていくようにペットボトルのサイダーに人魚が踊った。
青年は教室の窓にペットボトルを置いて人魚と同じように海を見ていた。
窓から海を混ぜ込んだ夕日がこぼれ落ちてきて机の角に当たり青年の長い影を作る。
海は掻き混ぜかけたオレンジと青のパレットがぴったりのようで海沿いアスファルトが貫く道にはお揃いのペットボトルを持って中をじっと見つめる女子高生が隊列を組んでかわいいとか、きれいとか、決まり文句を言って行進していた。
話は少し遡る。
今年の夏、日本中のペットボトル容器の中の液体が水族館になった。
ある日、ある時期、ある時間帯に突然起きてSNSを通して拡散。
夕方のニュースに出てくる専門家はこぞって木偶の坊になり人々はありもしない闇の住人の陰謀論を理詰めで張り巡らせた。
朝も昼も夜も各々が空のペットボトルに水を入れれば魚どこからともなく現れそしてどこかに消えていく。若い男女がこぞって真似をし世界が日本で起きたこの珍現象の動向に注目していた。
「お前のペットボトルなんか変なの入ってないか?」
青年のペットボトルに始めて人魚が確認されたのは夏休みの夏期講習の教室だった。
「うわ、人魚だ」
「すげえ本物じゃんか」
「動画撮ろうぜ」
始めのうちは皆ただの興味だった。しかし徐々にメディアやマスコミがやってきて彼の夏休みの後半は殆どメディア対応に追われた。
「おいおい、一気に人気者じゃんか」
夏休みが明けると青年はペットボトルを持って校長室に連れていかれ厳重な戒厳令を言い渡され全校朝会でもこれ以上人魚の話はしないようにとの厳命が出された。
「まるでフランス革命の前夜みたいだよ」
青年は白紙の進路希望調査票をゴミ箱に放り込んで吐き捨てる。
人魚はペットボトルの中でその時を待っていた。
長い黒髪が抜けてしまったサイダーに揺らいだ。
結局彼が落ち着けたのは秋も深まった頃青年は望んだようなふつうの高校生に戻って放課後を過ごす。
今、刻々と見えない時間が過ぎて夕日が落ちていく。
ふと、うとついて目を落としペットボトルを見た時、青年は人魚と視線が同じになったのを確かに感じた。
青がかった。飾り付けのない黒髪が流れ着きあまり動かさない足の鱗が夕日に反射されにわかにペットボトルが宝石のように光る。
笑っていた。微笑んでいたのかもしれない。青年は始めてペットボトルの中の人魚に触れたような気持ちになって指先で彼女に身体に続いていくプラスチックの壁をなぞった。
人魚はまだ何かを待っている。頭まで浸かる夕日が海の静けさを誘う。
海も人魚も檻の中の魚もその時を待っている。
青年はそう思った。
わずかな水の足音がまだ覚めない青年の耳元を掠めた。
朝の匂い。明け方の街。人々が動き出す箱仕掛の天気予報。
青年は枕元に置き放していたペットボトルを見た。
人魚は青年を見ていた。優しく、青年の顔に深海のような手が触れられたような気がした。
この時を待っていた。
ペットボトルを掴んで青年は走った。寝間着がよれて裸足のままアスファルトの小石が食い込むが心配そうに見つめる人魚の顔も青年には気にならなかった。
明け方、海は色紙を幾重にも重ねて落としたかのように青い。溺れてしまいそうな淡い空に登りかけた朝日が焼き付いていた。
青年は一つ息を大きく吐いてペットボトルの蓋をあける。
軽い音がして甘い匂いと共に人魚は小さい唇を青年の乾いた顔の頰に当てた。
人魚が踊る。次々と小さかったはずの魚たちが海に帰っていく。
どこからともなく、帰っていく。
朝日が昇り人々がペットボトルの中から消えた日常に大騒ぎしていた頃海は何食わぬ顔で揺らいでいた。
青年は残ったサイダーを一気に飲み干した。
妙に甘ったるい舌触りに紛れて彼女の沈んでしまいそうな潮の香りが微かにした。
ペットボトル もりひさ @akirumisu
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