閑話休題「悪夢はシャワーで流れない」
先にシャワーを浴びて待つ時間が嫌いなのだが、世の中の男はこの時間を一体どうしているのか。
いつぞや入りそびれた寝室にいるわけだが、それにしても、松木の家には物がない。
それなりのスペースであるのに、まさか寝室に本棚どころか化粧台すら無く、簡素なシングルベッド1つだけとは、いかにも寂しい。
研修などでもらった資料などはかろうじて床の隅に積み上げられているが、他に薬剤師としての研鑽を行えるものもないし、パソコンもプリンターもない。
そもそも社内研修の課題は、一体どうやって作っているのだろう。せっかく定期購読していた情報誌、月間ドラッグ・インフォメーション(MDI)も、やめてしまったのか、アーカイブせずに読んだら捨てているのか、いずれにしろ関心しない。
ミニマリストであるならそれで結構だが、俺は少し心配になった。1年目とはいえ、もう半年近く薬剤師としての給与をもらっているのだから、もう少し充実しても良さそうなものだ。
待ち時間の過ごし方は様々だろうが、最悪の待ち方は知っている。
脱いだズボンからはみ出した携帯が音を立てた。
「もしもし、今大丈夫?」
身内からの電話である。
しかも「別の女からの」というカテゴリーでもあるが、致命的なものでなくてよかった。
「うん、大丈夫、姉さんからとは珍しいね。」
正確には実の姉ではなく、伯母なのだが、俺は親しみを込めて彼女を姉さんと呼ぶ。
「日程決まったわ。来月からだって。」
「やっぱり早まったか。」
「やっぱりって?」
「あれ?聞いてない?斎藤さんが辞めるんだよ。」
「えー!あの人が?ほんとに?なんで?」
惜しい人が辞めていく時のリアクションではなく「なぜあの人が退職に追い込まれたのか」という興味の質問であることが、語感から充分に受け取れた。
「いや、姉さんが復帰の条件にしたんじゃないの?」
探りを半分、冗談を半分に訊いてみる。
「まさか、そんなの丹下君が良しとしないわよ。」
それで苦しんだはずなのに、彼女はどこか朗らかだ。
「そうかな、伝説の石井夏子が帰還するなら、大抵のワガママは通るんじゃない?」
そう、先の流産から1年後にもう一度妊娠、今度は無事に出産して、子供が託児出来るようになったことを期に、石井先生は4年ぶりに、弊社への復帰を希望していた。
もちろん、家族親類一同、大反対。
だが、先日丹下マネージャーに声をかけられた夏子姉さんは、ほとんど迷わずに快諾したという。
「確かに、悪いようにはしないと言われたけど、買いかぶりすぎよ。」
そうでもない、と、ここ半月の顛末を話す。結局、月曜日から福島さんは何事もなく復帰することになった。
斎藤を欠いた以上、他に手は無いのだが。それにしても決断が早い。
斎藤和子の排除、福島「さをり」の続投、そして石井夏子の復帰。
約半月の地獄を終わって結果だけ見れば、うちの店舗の戦力は、地域屈指の安定感だ。
「こう言うと悪いけど、なんだか、上手くいきすぎね。」
そのとおりだ。
「でも」
姉さんが何か言いかけたところで、寝室のドアが開いた。反射的に電話を切る。
「だれですか?」
湿気を吸ったタオルだけ身につけた松木が、背後から声をかけてくる。衣服に隠れない彼女の体は、服の上から見立てた通り、均整のとれた美しさだった。
再度の着信。画面には「姉さん」
「お姉さんがいるんですか?」
「あ、ああ、正確には伯母さんなんだけどね。」
「ふうん、あやしい。」
そう言って俺から携帯を取り上げて、通話を切る。
「中は見ませんよ。見てもいい事何もないって知ってるんで。」
怪しいとは心外、と言いかけた時、携帯からポロンと別の音がする。
今度はショートメッセージが来た。
「どしたん?」
松木が俺に携帯をよこす。
「ごめんあとで」
「いいよおやすみ」
姉さんもなにかを察した感があるので、フォローしないとあとが怖い。
「仲いいんですね。」
「まあね。」
言いながら、俺を抱きしめた松木の手が、ゆっくり俺の背中を撫でる。
「私、両方イケちゃう男の人って初めてだから、ちょっと興奮してます。」
「は?」
「汗かいてますよ。」
スルッとタオルが外されて、裸で密着しながら、漂白剤と松木の匂いがするタオルが背中に押し当てられる。
暑くも寒くもなかったが、俺はもう一度シャワーを浴びたくなった。
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