第二部「キャンサー・イン・ザ・ライ〜ライ麦畑の癌組織〜その7」

俺達の盛り上がりをよそに、事件は急速に収束した。


斎藤にとってこの事件がどういった意味を持っていたのかは知るよしもないが、皆が福島さんの受けた仕打ちに閉口し、消沈する中、斉藤は横柄に磨きを掛けた。


事件の翌日から仕事に出なくなった福島さんの代わりに斉藤が詰める事になり、実際の仕事量としては斉藤が割りを食うことになったわけだが、彼女がその事を口にしない日はなく、小さなミスやサボりはますます指摘される機会をなくしたのだ。


そしてその増長が極限に至った頃、自ら丹下マネージャーに面談を申し出でて、

「このまま福島が辞めるようなら、私を残さないと困るだろう、だったら登録販売者資格を取れとは言わないで欲しい。」

という主旨の直談判を行ったらしい。


丹下マネージャーがどんな返事をしたのかは不明だが、斉藤が勝ち誇った顔で休憩室に入っていき、蒼白な顔で出てきた事から、事情は察するにあまりある。


流石にその後数日は、彼女はとても大人しかった。それこそ、死んだように。


彼女にとって更に致命的だったのは、本来、怪文書が送信された時間、彼女は他県で行われていた登録販売者試験の帰路で電車に乗っているはずだった。

ところが、事務局に問い合わせたところ、彼女は午前の部のみ受験し、午後の試験には姿を見せなかった事が解ったのだそうだ。

本来自分のアリバイを証明できるはずのところで、彼女は自分の首を絞めた。

状況証拠は、これでもかと積み上がっている。


かくして残念ながら、中岡が従業員の住所付きの名簿を手にするより早く、事件は急速に終息する。

明けて月曜日、丹下マネージャーより、来週末をもって斉藤が有給消化に入り、その消化をもって退職する旨が通達された。後任人事は不明。


誰もハッキリそうとは言わなかったが、怪文書の件を含めた一連の顛末に対する処分であった事が、まことしやかに囁かれた。


非常に呆気ない結末であった。



「流石にタイミングが良過ぎるよな。」

そしてその週の日曜日、集まる予定にしてしまっていたので、先週と同じファミレスに、同じメンバーで集まった。

荒んだ話題を抱えたとしても、両手に花の休日は悪くない。

「ええ、ただまぁ、斉藤さんらしいと言えばそうなのかも。」

「お、思ったより、冷静だな。」

「日頃の行い的にも、今回の処分は当然です、というか、あんまりもう斉藤さんに興味が無いです。そんなことより一刻も早く、福島さんに戻ってきて欲しいです。」

事件から二週間、福島さんは停職の扱いを受けていた。

被害者である彼女が不利な立場であることは納得いかないが、本人にも身辺と感情を整理する時間が与えられたということらしい。これも丹下マネージャーの采配である。

「福島さんと連絡とか取ってる?」

「メッセージは入れてますけど、返事はないですね。唐柴先生は連絡してないんですか?」

「俺は何も。情けないことに、掛ける言葉が見つからなくてな。」

「何よ蓮チャン薄情だし。何でも良いから声掛けなさいよ、元々福島さんのこと、知ってたんでしょ?」

確かに、こういう時に声を掛けやすいのは、最初から事情を知っていた者だろう。かくいう俺もその一人だが、そういえば一つ引っ掛かる。

「そもそも、福島さんの性別の事知ってた人ってどれくらいいるんだろ。松木は知らなかったんだよな?」

「はい、とても驚きました。」

「中岡ちゃんは?」

「勿論知ってた。社歴だけなら一応あたしの方が長いし。」

中岡が事情通でいられる理由は、勿論単に社歴が長いからというだけではない。

長く誠実に仕事をして、信頼を培ったのだ、当たり前のようだが簡単な事ではない。

そして、知っていたからこそ俺と同じく、驚きよりも怒りの感情が強かったのだろうし、その卑劣を許せず、行動に出たのだろう。

中岡美尋とは、そういう女である。

「他に知ってる人は?」

「元いた××店の店長と古参の従業員は確実だけど、この会社そういう人ばっかりだし、この辺の店舗で現場にいる人は、実質みんな知ってるんじゃない?蓮チャンもそうだし。」


俺と福島さんの古巣である××店での日々を思い出すと、今よりも更に未熟だった自分に恥じ入って頭が痛い。

俺は特に福島さんと一緒に働く時間も長く、その中で本人からカミングアウトを受けたクチである。



それはさておき、これで佐々木さんの話に裏が取れた。

「じゃあ、逆に知らなかったのは?」

「人事部以外の本社の人とか、他のエリアの人達じゃない?うちの旦那も知らなかったって。まぁ、流石にこれで全社に知れ渡ったと思うけど。」

「あ、そうだ!中岡さんの旦那さん、副社長さんだったんですか!?」

M&Aで発布された季節外れの人事通知で本社の人間も変更になった中に、中岡の旦那さんの名前も、確かにあった。

「そう、過去形〜、追い出されちゃった。」

中岡は手をひらひらさせて言う。

「てか松木よ、君は自分の会社の創業者一族の名前くらい知っときなさい。」

創業者一族により構成された取締役会は、その人事を一変することとなっていた。

「そんなの興味ありませんし、知りませんよ。」

「まぁ、ボンボンにはふさわしい末路よ。」

ちなみに彼は一族の長男で、35歳にして副社長の椅子に座っていた「優秀な」男である。

「本人は株式譲渡で得たお金で、今度は自分で起業するんだって息巻いてるけど、どうなることだか。」

中岡はどこか寂しそうに言う。

「アタシも、そのうち追い出されるか、旦那に辞めろって言われるかもね。」

「えー、辞めないでください!」

松木はそう言うが、実際難しいだろう。経営者のこういう軋轢の力は根が深い。

「そんなことより、なんで今更そんな事訊くし?」

「いや、単純だけど、公然の秘密を暴露することに、何の意味があったのかなと考えたら、知らない人達にこそ伝えようとしたんじゃないかと思ってよ。」

「それって、本社の経営陣に知らしめることが目的だったってことですか?それこそ何の意味があります?」

松木の疑問に明確な解答は持てない。

「でも、俺は、何かそこに作為を感じる。」

「何?蓮チャンは今更、斎藤さんがやったんじゃないって言いたいの?」

口にはしないが、中岡も「斎藤にそこまでの思慮はない」事を理解している。

「いや、そうじゃないけど、何かいまひとつスッキリしないなと思って。」

これが今回の一件に対する俺の正直な感想だった。原因と結果の間に、いくつか噛み合わない歯車があるような気がする。

「それこそ偉い人がそういう人達に偏見持ってたら、クビにしちゃおう動きにになるかもと思ったのかもですけど、実際どうですか?」

「たぶん旦那もお義父さんも、そういうのにそもそも頓着しないと思う。旦那にはオカマのお友達もいるし。」

LGBT配慮も昨今問題になっている。偏見を表に出すような愚か者に経営者は務まらない。

一方で斎藤が「経営者ならこういう人種に偏見を持っているし、きっとクビにするだろう」という浅慮を持ったとしても、それなりに説得力がある気もするが、やはり腑に落ちない。


「まぁ、そんな事言ってもしょうがないよ、斉藤さんはもう辞めちゃうし、これも無意味になっちゃったし。」

そう言って紙切れを一枚差し出す。うちの従業員名簿だ。

「一応合わせて見るか?こないだの地図持ってる?というかもう確認してたりする?」

確かに、世の中の全てを合理的に解釈することはできない、しかしそれでも首をもたげた疑問には率直に対応するのが、理系の性というものだ。

「ううん、昨日貰ったばっかだし、なんか一人で確認するのが怖くてさ。」

リストは全員分だが、確認するのは斉藤の分だけだ。


案の定、斎藤の住所は、先週確認した時計回りのコンビニ周回ルートの、始点と終点の丁度間辺りに位置しいてた。

中岡がふぅ、と溜め息を吐く。

「ああ、やっぱりそうなんだねぇ。」

中岡はホッとしたような、それでいて酷く悲しそうな顔をしていた。

「あたしはね、長い付き合いだし、斉藤さんの事、そんなに嫌いじゃなかったんだ。あの人はただ、自分のコンプレックスに上手く勝てなかったんだよ、誰だってああいう風になる可能性があって、ただやり方を間違っただけだと思うし。」

中岡の言いたい事は解る。誰しも自分に多かれ少なかれコンプレックスを持つものだろう、言ってはなんだが、中岡のそれだって、特に分かりやすい。

「だけどさ、あたし、事件の事聞いた時、真っ先に斉藤さんの顔が思い浮かんだ。あたしは他のどの人達より、斉藤さんからの扱いがマシだったのにさ。」

中岡は静かに一筋涙を溢した。

「あたしあの人の事、結局仲間だと思ってあげられなかった。今もこんな顔してるけど、やっぱり斉藤さんだったんだって思ってホッとしてる。」


「あたし酷い奴だわ。」

その言葉で、今更ながら理解する。

中岡は見つけた犯人に「警告する」と言ったのだ。

それは「報復」ではなく、相手の間違いを正し、問題が大きくなる前に反省と謝罪を促す、本当の意味での「警告」だったのだ。

悪いことをしたら、素直に謝って、そして許してもらう。

そういうプロセスを、中岡は犯人に求めたのだ。

そしてその為に「仲間」に助けを求め、行動したのだ。

この結末を阻止するために。

「確信なんてなくたって、もうちょっと早く行動すればさ、もうちょっと早く、何か言ってあげてれば、斉藤さんは追い出されなかったかもしれないし。」



残念ながら、おそらくどんな救いの手も斉藤には届かなかっただろう。

コンプレックスを棚にあげた被害者意識をアイデンティティにして、他人を傷付け続けるようなものに、幸福な結末は訪れない。

中岡の感傷も、所詮は自己満足にすぎないのだ。



「そんなのわかってるし。」

口に出してはいない筈だが、中岡はそう言って俺を一睨みして、松木の胸に顔を埋めた。

程なく、「旦那がヤキモチ妬くし、帰る。」と言い残して、中岡は帰ってしまった。


「私達はどうします?」

夕飯までにはまだ少し時間がある、半端な時間だ。先週は夕飯を3人で食べて解散したが、今日はこれから二人きりだ。

このまま映画でも観て食事して送り狼、というのも悪くないが、今日はそういう気分ではない。

ここのところ天気が悪く、洗濯物も溜まっている。

「あー、ちょっと一人で考えたい。」

「えー。」

男の小袖を女が指でつまんで引く動作は、条例か何かで禁止したほうが良いと思う。

俺はあっさり、誘惑に敗北した。


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