閑話休題「2018/10/01」

福島さんのいない調剤室は、チェーンオイルの切れた自転車のようだった。


ギシギシと軋む音をあげるだけならまだしも、普段より前に進むのに力を掛けねばならず、その上でなかなか前に進まない。


背後では斉藤が松木を急かす。今日は止める丹下マネージャーがいないので、忙がしかろうと通常運行だ。

お、スゴいぞ、松木が何か言い返してさっさと患者のところに言った!

修羅場でピリピリとイライラが極地に至ると、脳から滲み出るアドレナリンで新人が成長するらしいが、これは望ましいものではないだろうなぁ。

キャンキャンと五月蝿いブルドッグだが、受付で処方内容の入力に四苦八苦している中岡が見えないのか?兄弟3人分だぞ、松木の邪魔してないで一人くらい受け持てよ。

そう思いながら、服薬指導を終えた直後に中岡の方に手を伸ばし、一人分引き受ける。

「ゴール見えてきたぞ、もうちょい頑張ろう。」

残念ながら処方箋が届くファックスの音は鳴り止まない。

絶望的な顔の中岡がこちらを見たが、苦笑いするしかなかった。

「唐柴先生こっちお願いします。」

板倉が叫ぶが、中岡が行かないでくれと袖を引く。

「大丈夫、中岡ちゃんが2人目の入力終わる前に帰ってくる。」

自分を頼る女を振り払うなんて最低の決断だが、今日は合理が勝った。

何せ相手が最悪だ。

患者は71才男性。当薬局では比較的珍しい生活保護受給者。

そして本日は2018年10月1日。

「何でいつもの薬じゃないんだ!」

叫ぶ。そうでしょうね。

「今日から、生活保護受給者の方のお薬は、原則ジェネリック医薬品を使うことになったんです。」

この厚生労働省通達は、周知される前に実施されたって非難がとても多かった。現場にいてこの手のトラブルに出会わなかった薬剤師の方が、恐らく少数派だろう。

「何でだ!おかしいだろこんなの!」

おかしくはない、何故なら、処方箋上はメーカーの指定が一切ない。つまり、何らかの理由でジェネリック医薬品が使用出来ない場合を除き、基本的に先発品は使用出来ない。

「先月もこのお話させていただきましたよね。厚生労働省通達ですので、文句は厚生労働省にお願いします。」

俺は勿論、先月この患者に釘を刺している。どうしても先発品が使いたければ、医師にそう言って処方箋に先発品を使う旨の記載を、理由付きできちんと書いてもらうようにと。

だから「患者がジェネリックの使用を不安がる」という事を、先発品を使う理由としたとしても、処方箋にその旨を記載するのは医師の仕事だ、ここで文句を言われる筋合いはない。

加えて、この患者には、記録で確認出来る範囲ではジェネリック医薬品の使用実績がない。

過去に薬疹の経験でもあれば話はまた違うが、理由もなく不安であるという主張をそのまま医師に照会するわけにはいかない。

「とりあえず今回使ってみて、何かご不便があったら戻すというのはいかがですか?」

何の捻りもないテンプレートの説得だが、この人の場合は本当に、そう言うしかない。

使ってみて、効果が得られない、副作用が出るなどという万が一があり、他に手がないのなら、堂々と先発品を使えば良いだけの話だ。

「そんなの人体実験じゃないか!人権侵害だ!安物の偽薬なんて飲みたくない!」

三点とも実に見事なツッコミどころである、まず「飲んでみてダメなら薬を変える」が「人体実験」なら、近代医療は人体実験だらけだ。

次に「生活保護受給者の方のお薬は、原則ジェネリック医薬品を使う」のは、恐らく国民皆保険制度を確保するための措置という解釈をされる。

つまり、公共の福祉を守るためである。

憲法に示される「基本的人権」は公共の福祉に反する場合は制限されるのだ、勿論、ジェネリック医薬品の使用が「人権侵害」に当たるのかどうかを実際に何処かに問い合わせたことはないが、おそらく人権問題にはなり得ないだろう。

最後に、その人の状況がどうあれ、勤労も納税もせず、医療費の自己負担も無い人間が、一生懸命医薬品開発に従事する人間が作った薬を「偽薬」呼ばわりする事が、どれ程無礼で感謝の無い行いであるかは言うまでもない。

「こちらではこれしか用意出来ません。ご納得頂けないようでしたら、処方箋をお返ししますので、別の薬局に行ってください。」

後ろで待っている患者がいる以上、不当な主張に長く時間は割けない。

薬局は患者を拒否することはできないが、適正な内容を患者自身が拒否して自主的に帰る事を引き留める必要も、また無いのだ。

「名前覚えたからな!これでもし何かあったら訴えてやるからな!」

そう言い捨てて、薬袋を掴むと、男性は立ち去った。


2018年10月からの約1ヵ月後にアンケートを取った結果、これに比類するトラブルに見舞われたと答えた薬剤師が約13%。


俺は毅然とした態度をとることにしたが、「本当に訴えられたら、そして責任が認められたら、人生が破滅する」と考えて、こういった理不尽に屈する薬剤師は大勢いるだろう。

もし仮に、万が一彼に薬疹が出たとき、誰も薬剤師を守らないとしたら、無難にやり過ごすのが賢いのだろうし、もし彼が「薬疹の既往を訴えたのに無視された。」と嘘を吐き、その主張が認められたとしたら、裁判は避けられないだろう。勝つにしろ負けるにしろ、確かに厄介ではある。

更に万が一敗訴すれば、本当に人生を台無しにするかもしれない。


しかし、医療を担う人間として、例え道理に合わない事でも患者の意向にただ従うことだけが、果たして正しい選択か?


隣では松木が怒鳴られている。


58才女性

「私はガンなのよ!待ってられないの!待たせるなんてあり得ないでしょ!」

今日は彼女より先に待っている患者が何人もいた。

それは彼女にも待合室にいる人数を見れば分かることだ。

「それは、他に待っている患者さんよりあなたを優先しろと言うことですか?」

松木は真っ直ぐに患者を見つめている。

医療従事者だとしても、そうとは認めてもらえないただの薬の販売者だとしても、俺達は奴隷ではない。

だから理不尽な患者には毅然とした態度を取ること。

自分が教えたことを愚直なまでに実行するその姿勢を、俺は素直に嬉しく思う。

「私の口からそうは言わないけど、そうするのが当然でしょう?」

当たり前だが、受け付けてから出来上がるまでの時間は、処方内容によって様々である。

十数種類の薬を用法毎に分ける人が先に来ても、目薬1本渡すだけの人の方が先に準備出来るに決まっている。

こういった場合に目薬の患者を待たせるような薬局は間違っているだろう、だから必ずしも受け付けた順番通りに渡すとは言わない。

だが、それでも概ねは、受け付けた順番に準じて対応するのが常識的だ。

「申し訳ありませんが、弊社では、病気の内容を理由に混雑時の順番が変わることはありません、どんな状況でも早く欲しいとおっしゃるなら、そういう配慮をしてくれる薬局を探される方がいいですよ。」

風邪で辛そうにしている子供と、5年生存率20%で、混雑時の薬局で待ち時間に文句を言う元気のある女性のどちらかを優先するかといったような、正解の無い選択を常に迫られ続けて、まともな精神を保ち続けられる人間はどれくらいいるだろうか。

このストレスを回避する最も単純な方法が、どの選択にもある程度の基準を持つことである。

どこかで割り切らなければこの手の仕事は出来ないし、患者側にも、ある程度それを理解してもらわないと、医療は成立しないのだ。


財政にしろ、人的リソースにしろ、医療における資源は無限ではない。

現代日本の医療、皆保険制度は、言わば国民全員の為の救難船だ、乗り心地は良く、乗務員は一人でも多く救おうと必死になっているし、サービスは手厚い。


だが、自力で泳げる者や、救難船に乗っているという分別の無い態度の者まで乗せていると、やがて沈んでしまう。


そして患者側にモラルを問う事に、現場は既に限界を感じている。


だったら、不遜と疎まれ、人でなしの謗りを受けて憎まれようと、被害者を気取るだけの迷惑な乗客を、船から蹴落とす役割の者が必要なのかもしれない。


「こんなに高いお金を払っているのに、どうしてそんな偉そうな事を言えるの!?」

確かに単価が高い抗がん剤の売り上げは大きい。

だが、患者は薬効に対して然るべき金を払っているのであって、サービスを受ける為に余分な金を払っているのではない。

そして当然、薬局側は売り上げを目的に特定の患者にサービスなど行うべきではないし、患者もこれを求めるべきではない。

「支払った金額に応じて患者を優遇する医療機関が健全だと本気で思うのなら、彼女の言うように、どうぞ、そういう薬局に行ってください。」

誰が好き好んでこんなことを言いたいものかと思うが、気が付くと横槍を入れていた。

2対1になったからか、患者が閉口した。

患者の沈黙が開けるのを待つ時間すら、今の我々には惜しい、待っている患者は他にもいるのだ。

「お薬のお話をさせていただいていいですか?いいですね?」

松木は間を置かずに手早く服薬指導を済ませると、患者は大人しく金を払って帰っていった。

「もう来ないですかね?」

「かもしれんが、これは仕方ない。気にしなくていいだろ。」

可愛い後輩と、忙しい合間に本の一瞬笑い合い、すぐにお互いの仕事に戻る。

10万円弱の売り上げを棒に振ったが、雇われ薬剤師の我々には、何の関係もない。

「イチャイチャしてないで、どっちでもいいので助けてください!」

ほんの一瞬忘れていたが、中岡が泣いていた。


後日、本社に「薬剤師にひどく怒鳴られて怖い目に遭った、薬局を変えるつもりはないが、同じ人に担当してもらいたくない。」

という旨のクレームの電話が入ったらしい。

名乗らなかったそうだが「自分から謝れと言うつもりはない。」という決め台詞で誰だかすぐに分かったので、即日要注意認定が周知された。

翌月から旦那さんが薬を取りに来るようになったので、たいした意味は無かったが。


「やっぱり福島さんいないと駄目だな。」


斉藤も最低限は働いてくれるが、力量はあっても協調性が無いし、中岡は経験値不足、免許交付までの期間に福島さんに医療事務の仕事を叩き込まれた俺や、斉藤の尻拭いで事務仕事を覚えた板倉はなんとかフォローに入れるが、松木には薬の知識はあっても保険や福祉の知識がやや足りない。


しかも今日はやたらに混雑した。午前中の4時間で受付患者70名、ルーキー込みの薬剤師3人医療事務2名では完全にパンクだ。

最長1時間の待ち時間を掲示し、一度帰った患者の処理などが終わった頃、斉藤以外が休憩をとることのないまま、午後2時を迎えた。


「6時間ぶっ通しはなかなかタフだったな。」

流石に打ち止めと言わんばかりにピタリと処方せんが止まったので、板倉の指示で、松木と二人して休憩に入る。二人とも空腹はとっくに通り越して、食欲が無い。

「修羅場初体験の感想は?」

松木はほとんど放心していて、答えない。

「いやー、あれだけ忙しいと、松木でも斉藤さんを上手くいなせるんだって、ちょっと感心したよ。」

実際、松木が言い返すところなど初めて見た。

反応が返ってきそうな話題をえらんだつもりだったが、やはり返事がない。

「松木?」

心配になって声を掛ける。

俺の怪訝な顔に気が付いて、松木がふと我に返ったような顔をする。

「あ、大丈夫です。私、ゴールが見えてれば頑張れますから。」

疲れた顔で健気に笑う姿には、心臓を掴まれる思いだ。

「そうか。」

頬が紅潮し、急に不整脈になった俺はなんとかそれだけ言って、備え付けの冷蔵庫から今朝出勤前に買ったコンビニのエクレアを取り出す。

「あげる。」

「え、良いんですか!?」

「うん、なんか今胸がいっぱいになった。」

「じゃあ、半分こしましょう。」

そう言って松木は大きく一口エクレア齧ると、笑顔で残りを差し出してくる。

この後輩は俺をどうするつもりなのか。


このあとめちゃめちゃ頑張れた。

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