第二部「キャンサー・イン・ザ・ライ〜ライ麦畑の癌組織〜その8」
福島さんの不在で精神的にも肉体的にも仕事の負荷が大きくなっていたが、そんな中でもオレの心には、中岡の涙がずっと心に引っかかっていた。
このままで良いのかと、自問自答を繰り返す。なんとかして、あいつの涙に報いる慰めの言葉は、見つけられないものか。
「でも、良かったです、もうすぐゴールですよ。」
明日から福島さんが復帰する旨の連絡が入ったのは、今日の午後の事、斎藤が有給消化開始のため、午前中で帰宅した直後だ。
やはり出来すぎている。
「ゴール、ゴールか。そうか。」
いつだったか、松木は言った。「ゴールが見えれば頑張れる」と。
怪文書から約1ヶ月、後半は斎藤というストレス源がなくなったとはいえ、実際松木は弱音も吐かず1年目にしては頑張って食らいついてくれた。
「そうか。」
つまり確かに松木には見えていたのだろう、ゴールというやつが。
「なぁ松木、ゴールの前に前祝いしようぜ。」
「いいですね。」
折角の週末に安っぽくて申し訳ないが、俺は最近行きつけのファミレスを選んだ。
俺が探しているものも、きっとそこで見つかる。
「なぁ松木、お前俺になにか隠してない?」
「はい?」
松木は心底キョトンとしているように見える。
「なぁ、お前、怪文書の前から、福島さんが男だって知ってたよな?」
「はい。」
案外、素直に認めたな。
「口が滑りましたね。」
怪文書の日から、福島さんとは、誰も連絡がとれていない。
つまり、俺と「男性の」福島さんの関係に言及したとすれば、それは怪文書の前ということになる。
俺の性癖はともかく、福島さんならまず、俺との関係の前にまず自分の性別を明かすはずだ。
「福島さんが、俺と寝たって言ったの?」
「いいえ。でも、分りますよ。」
そんな確信がなぜ持てるのか。しかし理由は聞けない。怖いし、今は関係ない。
「なんで、知らないふりしたの?」
「ふふ、どうしてでしょう。」
松木はまさにいたずらの最中の子供のようにニヤニヤしている。
「何か、楽しそうな話してますね。」
「うわー、福島さんだー。」
松木が笑顔で迎える。
やってきたのは俺の呼び出しに応じた、約1ヶ月ぶりの、いつもと変わらない「福島さをり」だ。
「やっぱりな。」
「なにがです?」
いつの間にか注文したのか、それとも勝手に持ってきたのか、オレンジジュースをストローですすりながら、彼女は飄々と松木の隣に座る。
「1ヶ月もストレス抱えて引きこもってて、その見た目のクオリティを保てる訳がない。」
「まぁ、そうですよね。」
彼女にとっては軽いバカンスだったのか、血色や髪の艶は先月よりいいようにすら見える。
「さて、役者が揃ったところで、答え合わせだ。自分の立てた推論がどの程度正解に近いのかを知りたい。だからふたりとも、少し俺の独り言を聞いてくれ。」
俺はそのために、二人を呼び出していた。
松木も福島さんも、こくりと頷く。
「まず、怪文書だけど、そもそも斎藤が、わざわざコンビニ3社に分けて3店舗のファックスを送るなんてちまちましたマネするはずがない。
確かに斉藤は短絡的な人間だから、自力でコツコツ勉強する事よりは、こういった手段で他者を蹴落とす事を選ぶだろう。
けど、コストパフォーマンスの話じゃないけど、おそらく斉藤にとっては、動機が犯行に見合ってない。
しかも斉藤には、福島さんがいなくなって仕事が増えた事に文句を言っても、福島さんがいなくなった事を喜ぶような様子がなかった。もし本当に斉藤が自分の手で彼女を追い落としたのなら、その「戦果」を誇らしく語らない筈がない。」
つまり斎藤は、犯人の人物像に合致しない。
「そこで、動機を一度保留して内容から犯人の人物像を見出だすと、犯人は几帳面で繊細、些細なミスにも敏感なやつだ。まさに斉藤とは正反対だな。そしてこれは薬剤師に必要な素養でもある。」
言って、自分にはその素養があるだろうかと考えて、気が付かなかったフリをする。
「まぁ、そういう奴に心当たりがあるわけさ。」
俺は松木を指差して苦笑するが、松木は少しうつむいたまま黙っている。
「だが、松木にも福島さんに対する動機が無い。」
俺と福島さんの間に存在するであろう信頼関係に対する嫉妬、という説をほんの一瞬妄想したが、すぐに霧散した。
「いえ唐柴先生の口からは言いにくいでしょうけど、実際、松木先生は私にヤキモチ焼いたんです。なんにも無いのに、問い詰められてヒーヒー言わされました。」
そりゃないぜ福島さん。
「そんなの信じてないですし、私、謝らないですよ。」
松木が静かに言う。認めるらしい。
「もちろん。でもまぁおあいこですし、手打ちにしましょう。」
福島さんは隣の松木に向かって手を差し出した。
松木はそれを掴む。
この修羅場で、なぜこんなに仲良しなのか。
「まぁ、動機はさておき、怪文書には福島さんを辱める目的があったわけだけど。これは失敗でした。なにせ現場の人間にとっては、これは周知の事実で、同情は引いても、社会的ダメージにはならない。」
「私は心外ですけどね。」
笑顔で向き合っているにしては緊張感が強い。
「だから、本当にそうなら、そんな涼しい顔してませんて。」
俺は、怪文書を目にした時の福島さんの顔を忘れていない。
悔しさと恥ずかしさを合わせたような顔、正義感の強い彼女はなぜ、怒りを覚えなかったのか。
「男性」であることは、それほどまでに大きな弱点だったのか。
初めはそう思った。しかし俺は、ここ数年の福島さんを知っている。
彼女は理不尽に、きちんと怒りを覚え、それを表現出来る人間だ。
そして今、俺と向き合う彼女の気迫を間近に受けて確信する。
こいつはそんなタマじゃねぇ。
「続けても良いですか?」
「ええ、是非。」
「さて、じゃあまず怪文書ですが、材料はこれです。」
俺はカバンから冊子を1冊取り出した。
「件の怪文書は、こいつを切り抜いて作られてます。MDI(月間ドラッグ・インフォメーション)はわかりますよね?こんなの薬剤師しか読まない雑誌です。」
俺は手元の冊子と怪文書を重ねて見せる。
「○年○月号の特集「福島県立病院の取り組み」の部分、白黒だけど、フォントも色合いも、文字の間隔も怪文書の「福島」と一致してるでしょ。怪文書の材料、多分これと同じものだよ。」
少し前に桃子に貸していたMDIのバックナンバーがそのままになっていてラッキーだった。
「こんなの偶然じゃないですか?」
福島さんはそう言うが、松木は驚いた顔をしている。
「表紙と中の特集記事の見出しで字のフォントが違うんですけど、両方の「福島」が使われてます。
これから切り抜いたと思う方がむしろ自然じゃないですか。」
勿論、探せばすべての文字がこの号から見つかるだろう。
「あとは、松木の家にMDIのバックナンバーでもあれば完璧ですけど、処分したみたいですね。不完全なアーカイブを残しても無意味と思ったのか、変に証拠になるのを
「これ他の人にもできません?」
福島さんは食い下がる。
「丹下エリアの薬剤師でMDI定期講読してるの俺と松木だけなんですよ。無料配布のダイジェスト版もあるけど、「福島県立病院の取り組み」の記事があるのは定期講読版だけなんです。」
つまり少なくとも、怪文書を作る動機があって、その上材料が提供できるのは松木だけなのだ。
「まぁ、部屋を探させろとは言えませんけど、松木は当たってるって顔してますね。」
松木はニヤリと笑っている。肝が太いのか、達観しているのか。
一方の福島さんは、何か得体の知れない物でも見るような目をこちらに向ける。
「こんなの、良く気が付きますね。」
ブラフと言うほど確信がなかったわけではないが、思い付きが当たっただけだ、誰も誉めてくれないのが残念だが。
「名字が絡んでいるから仕方がないけど、選んだ記事が悪すぎる、半年以内の記事だってのもあるけど、過去数年分の記事の中でも有数の面白い記事だったから、印象に残ってました。」
「気持ち悪い。」
確かに、我ながらちょっとおかしいと思うが、そりゃないぜ福島さん。
「さて次に、住所の特定と足の確保方法だけど。松木、自動車免許持ってる事会社に黙ってるよね。」
この辺りは人口10万人程度のいわゆる地方都市、主な移動手段が自動車の地域だ。
地元出身者であれば、10代から免許を取り、就職と同時に車を買うところだが、就職でこちらに移住した新社会人の松木は、まだ自分の車を持っておらず、生活圏が非常に狭い。ということになっている。
「地域がら、駐車場付きの物件を借りてるくらいじゃ証拠にならないけど、このあいだ駐車場を使った時、車の形に雨が切れてるのを見た。松木、俺よりデカい車乗ってるでしょ。」
俺は車に詳しくないが、ミニバンくらいの大きさのものが止まっていた感じだった。
「車があれば斎藤を追っかけて住所も特定できるし、もちろんコンビニ巡って怪文書も送れる。
松木の『ゴール』は当初、福島さんを居づらくして追い出し、あわよくばその罪を斎藤に押し付けて、斎藤も追い出すつもりだったんじゃないか?」
まぁ、成功したのはオマケの方だけだったわけだが。
「残念ながら、ハズレです。」
俺の渾身の推理に対し、松木はニヤニヤと笑顔で言い放った。なぜだろう、もっとこう、深刻な顔でうなだれる姿を想像していたのだが。
「は?」
「残念でしたね、唐柴先生。」
福島さんのも同じような顔でこちらを見る。何かを見透かされたような、気持ちの悪い笑顔だ。
うっわ、なんか超恥ずかしい。
「まず第一に、確かに私は免許も車も持ってますし、怪文書も作れます。でも、私に物理的な実行はできても、スケジューリングは無理です。斎藤さんの登録販売者試験の受験スケジュールや、その後の行動予測をするには、ちょっと情報が足りません。」
確かに。
「第二に、私が手を下すなら、こんなに回りくどいことはしません。」
そう言って彼女はテーブルに備え付けのナイフを手に取り、握りしめた。怖すぎる。
「第三に、本当に私が、福島さんを貶めるつもりでいたら、こんなに仲良くできると思いますか?」
松木は福島さんにしなだれかかる。これも確かに、ぐうの音も出ない。
「ついでに、唐柴先生の推理の続きを言ってあげましょうか。」
松木の髪を妖しく弄び、匂いをかぎながら、福島さんが続ける。
「かくして、不幸にも松木先生から理不尽な攻撃を受けた私は、実は全く傷ついてなかったので、逆にこの状況を利用しようと、傷ついたふりをして丹下マネージャーの同情を引き、やがて増長の末に破裂した斎藤さんと天秤に掛けた上で斎藤さんを処分するように促した。ってところですかね?」
俺が言わんとしたことと、全く同じだった。
「私はエスパーですか?それ狙ってできます?」
そうはっきりと言われると、たしかに無理がある。すいません、その通りです。もう勘弁してくれませんか。
「何か言い分はありますか?なければ、この話はお終いにして、どこか別の所で食事にしましょう。当然、わざわざ呼び出しての、この無礼のお詫びに奢ってくれますよね?」
言い分はない、俺は推理を外したわけで、ただの失礼な男だ。
中岡ちゃんのあの寂しそうな顔をなんとかしてやりたくて、別解を求めた結果、無関係な人間や、被害者を犯人呼ばわりしようとしただけだ。
なんと滑稽な。
「いや。」
無い、と続けて、二人に謝るつもりだったが、やはり何かが違う気がする。
彼女らは本当に無関係か?
「3人目がいる。」
俺の言葉に、二人は驚いたような、それでいて期待したものが目の前に出てきたときの幼な顔で互いに目を合わせていた。
「実行犯はおそらく松木であってる。なら、足りないのは情報だ。内部の事情に特に詳しいか、それを管理する立場の人間が協力してる。福島さんも、何の行動も起こさずただ待機していられたのは、心に傷がなかったからじゃなく、何もしなくても、信頼に足る誰かが事態を収集すると知ってたからだ。」
「ふふふふふ。」
「ふふふふふ。」
二人が声を出して笑う。俺の知る限り、そういう事ができる立場の人物は二人いるが、片方は最近、事態を収集する力を失い、涙をもってそれを否定した。
「黒幕は丹下マネージャーだ。」
俺も釣られて笑ってしまった。
まさにマッチポンプ、最初から結末を決められる者が、すべて仕切っていたのだ。
「これマジでやばいだろ、あの人何やってんの?」
「それはですねぇ。」
「いや、知ってるよ。石井先生が復帰するから、その前に斎藤を追い出したんだろ?」
「えー、でもそれ知ってて私達の事を犯人呼ばわりします?」
同感、我ながら勘の鈍い話だ。
「実行犯がそれを言うかね。」
悔し紛れにどうにか、その言葉だけ絞り出した。
ことの始まりは、M&Aの決定から数日、かねてよりの懸案である「薬剤師不足」の解消のために、出産などで離職した者に復帰を打診する動きが起きた。
丹下が完全に現場を離れる、つまり出世の大きな足がかりを得るための条件として、丹下エリアの薬剤師の人員拡充は絶対必要であった。その候補に、石井夏子の名があったのだ。
夏子姉さんはもちろん、元同期で元同僚の出世のためにと、無条件で一肌脱いだが、義理堅い丹下は「悪いようにはしない」という約束を守ることにしたのだそうだ。
しかし、いくら本社が現場に頓着しない状況であっても、流石に何の理由もなく、正社員1名を解雇することは出来ない。
そこで丹下は、斎藤を解雇するもっともらしい理由を用意することにしたのだ。
「福島との揉め事で両成敗の体裁を取れば、登録販売者試験の拒否と併せて、最悪クビに出来なくても俺のエリアから追い出す事ができる。」
というのが当初の作戦だったらしい。
「本当は私と丹下マネージャーの二人でやるつもりだったんですけどね。」
そう言って福島さんは松木を見やる。
福島さんは揉め事を起こすタイミングを待っていたが、どうにも決定打が無く、小さな揉め事を起こすにとどまっていた。
そんなある日、福島さんは、帰りがけの斎藤を背後からブロックで殴打しようとする松木を止めに入ったそうだ。
俺は全く知らなかった。やはり松木は限界だったらしい。
「松木先生を慰めるつもりで食事に行って、その流れで今回の計画を話したんです。そしたらぜひ一役買わせて欲しい、と。」
松木は福島さんが「男性」であることも、この時知ったのだという。
「あの時は、元気づけてもらいましたし、凄いものを見せていただきましたし、俄然やる気が出ました。」
一瞬、二人の目線が妖しく交錯したような気がした。
さておき、松木を巻き込むリスクに最初は難色を示した丹下も、迫る期限の中、「計画の破綻」と「協力者の増員」を天秤に二人から説得を受け、これを承服したらしい。
計画が露呈した時に、薬剤師なら処分されないというリスクヘッジの意味もあったそうだ。
「時期は指定されてましたが、内容は決まってなかったんです。」
怪文書を作ろうと最初に言い出したのは、松木だそうだ。
「だからって怪文書とは。」
「丹下さんにも流石にダメだろって叱られました。」
なにかが起こると準備していたとはいえ、朝からあのトラブルを聞かされた丹下は肝を冷やしたことだろう。
よくもまぁ、怪文書なんて無茶を通したものだが、結果は上々。「両成敗」を待たず、怪文書の件に触れぬまま、福島さんがいなくなっただけで、増長した斎藤は自滅した。
丹下との面談の時イヤミたっぷりに退職届を丹下に差し出して「これを受け取るか、私に登録販売者資格を求めず、登録販売者手当を付けるか選んで下さい」ときたらしい。
そして丹下は、容赦なくその書類を受理した。
「正直、私が心労か何かを理由に長期で休職すれば同じ結果になったっぽいんですけどねぇ。」
オレンジジュースを飲み終え、福島さんは姿勢を正した。
「私からも一つ良いですか?」
彼女の顔は真剣だった。
「どうして、石井先生の復帰を唐柴先生がご存知なんですか?」
丹下マネージャーが黒幕であれば聞かされていてもおかしくはない話だが、言いそびれたのか、あえて言わなかったのか。
「石井夏子先生、ひとまわり年離れてるけど従姉妹なんです。親父の兄貴の娘さん。ちょっと遠い縁だけど、俺、従姉妹の子供殺されてるんですよね、斉藤に。」
つまり立場が違えば、俺自身も充分、実行犯になり得たということだ。
「どうして言ってくれなかったなんです?」
「新人時代は変に気を使わせても良くないと思ったんで黙ってたんですけど、そしたら言うタイミングなくしちゃって。」
石井先生こと、夏子姉さんに「デキるけどアクの強い美人がいるから楽しみにしてなさい。」と言付かっており、「なんか卑怯っぽい」と変にカッコを付けて黙っていたのだが、それは言うまい。
口説くのに邪魔になるかも、と思ったわけではない。
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