第二部「キャンサー・イン・ザ・ライ〜ライ麦畑の癌組織〜その9」
「ああ、なるほど、それで。」
寄る辺を失って同じく姿勢を戻した松木が口を挟む。
「ん?」
「唐柴先生が詮索始めた時に、丹下さんが『唐柴は放っておいて大丈夫だ』っていってたので、そういうことか、と。」
「中岡ちゃんは?」
「犯人探しに私が付いたのは、どこまで探られるか監視する目的だったんですけど、あの感じなら唐柴先生のほうがよっぽど危ないと判断しました。」
松木はシビアだが、その言葉にはどこか中岡への愛があった。
「あの巨乳ちゃんには、情報は集められても、それらをつなげる力が足りなかったみたいですね。」
福島さんの言葉には、棘があるなぁ。
「なるほど、俺は推理披露大会がしたかったけど、キミらはキミらで俺に釘を差したかったのね。」
しかし今までのやり取りは、もはや自白とも言えるものだった。
彼女らは彼女らなりに、罪悪感を抱えているのかもしれない。
「私としては一応の区切りにもなったし、例えこれでクビになっても、石井先生の復帰前に斉藤さんがいなくなってくれたので、悔いはありません。」
潔いところ大変申し訳ないが、福島さんの欠けたあの調剤室で働く事を思うと戦慄を覚える。
「私は確かに、結構追い詰められてましたけど、ちゃんと自分の意思で、「やってやるべき」だと思って斉藤さんを追い出す努力をしたんです。だからこの先どんな処分をされても悔いはありません。」
腹を括るのは良いが、実際、そういう問題ではない。端々に俺の教育の影響が見られる以上、責任の一端は確実に俺にある。「新人が自分で責任をとらせてもらえると思うな」と今度教えてやらなくては。
さて、俺はこの「集団で斎藤をハメて追い出そうとした話」の顛末を、中岡に話すべきか?
話したとして、中岡はこれをどうするか。既に創業者一族が実権を失っているとはいえ、現場から上層部に突き上げる中岡の影響力は無視できない。彼女らの処分はもちろんだが、弊社と親会社との関係に加え、弊社内でのパワーゲームにも影響する。丹下を弱体化することとも、天秤に掛けなければならない。
道義か、損得か。
中岡が独身だったら、俺は違う答えを出したかもしれない。
「いや、二人とも改まってるけど、俺もやっぱり、この件を誰にも口外するつもりないですよ。」
感情論としても、仕事としても、俺はこの件を黙秘する以外に選択肢を持たない。
ここで罪悪感から、この二人の処分を求めても、俺が得られるものは何もない。
「ええと、まぁ、やっぱりって感じですけど、本当にそれで良いんですかね?」
福島さんはどこか安堵したような、それでいて心底悲しそうな顔をした。
「いや、誰か俺にその正義感期待してる?」
ニヒルに笑ったつもりだが、うまく表情は作れたろうか。
「斉藤さんはあくまで、雇用条件が合わなくて退職するんだし、怪文書そのものは、自作自演で被害者いないし、上出来でしょう。当然ですけど、俺も斉藤がいなくなって喜んでる人間のひとりですし。よくぞやってくれたと感謝してるくらいです。」
これで自分も共犯である。共犯であるということにして欲しいと、切実に思う。
「ただ、中岡を泣かせたことだけは、3人で背負って、忘れないようにしましょう。」
癌は、自然に消失することもあるが、放置すれば勿論、命を脅かし、生活を破壊する。
命を守るためには、切除すべきなのだ。例え自らの一部であっても、どれだけ痛みを伴っても。
祝勝会、というか、一足早い斉藤さんの送別会と称して、3人で焼き肉を食べに行った。手術の後は焼き肉と相場が決まっているらしい。俺の奢りで。
そして。
「何度も裁判所にいくのは面倒なので、本当は手術してからにしようと思ったんですけどね。」
計画立案から、実行、そして休職を明けるまでの約1ヶ月の間に福島さんは氏名を「福島さをり」に変更していた。
残念ながらまだ性別は男性だが、彼女は間違いなく、「福島さをり」になったのだ。
本日付で会社に報告し、雇用関係の書類の変更も終わっているという。
今日は「福島さをり」の新しい誕生日でもあるのだ。
わざわざ車を置きに帰って、マッコリをたらふく飲んだ福島さんと、釣られて飲酒し眠りこけた松木を俺の運転で送迎する道すがら、福島さんはぼんやりと窓を眺め、こちらを見ずに聞いてきた。
「私の事口説いた日の事覚えてます?」
一瞬ハンドルを何か致命的なものに取られたが、なんとか持ち直す、冷や汗をかいて後方確認したが、幸い松木は完全に眠っている。
「突然何を言うんですか。」
「あの時、もう知ってたんですか?私の事。」
「いえ、夏子姉さんは教えてくれませんでしたし。」
「じゃあ後悔してます?」
「そんなわけないでしょう。」
あの日のことは今も鮮明に覚えている。ひどく忙しい日だったのに、普段から考えられない程スムーズに患者さんが捌けて、蓋を開ければなんのミスもなく過ごせた日だった。
「薬局を閉める時珍しく、ボスがいなくて俺と福島さんだけだったから、ここだと思って飲みに誘ったんです。誰かに言いふらすようなことじゃないし、墓まで持っていきますけど、恥ずかしいとか、後悔してるとかって意味じゃないですからね。絶対忘れられないですよ。とても貴重な体験でしたし。そっちこそ、後悔してるんですか?」
福島さんは答えなかった。
「私、石井先生と唐柴先生がきっかけで、職場でのカミングアウト始めたんです。」
「ほぉ、そうなんですか。」
福島さんも酔っているなぁと思いつつ、相手にしないと怖そうなので相づちを打つ。
「プライベートで友達とかには、言っとく方が楽ですし、普通に女として生活出来てるんで、あんまり困る事無かったんですけど、職場で言うのが何か嫌で、今までの仕事は、バレたら辞めてたんです。」
ぽつりぽつりと福島さんの話を聞く。俺はできるだけゆっくりと、なるべく遠回りで運転する事にした。松木を起こさず最後まで話を聞けるように。
「けど、石井先生に言われたんです、「自棄になるな、キャリアを諦めるな、その諦めは人生を台無しにするし、さをりを受け入れてくれる人は、きっとさをりが思っているより多い。」って。でもそれで私、気付いてしまったんですよね、友達も、私が本当は女じゃないって気が付かない人達でさえ私を受け入れてくれるけど、私自身が私自身を諦めてるなって。」
福島さんのように、周囲に比較的うまく溶け込めているトランスジェンダーにも、勿論相応の悩みがある。
ストイックな仕事ぶりの裏にも、葛藤があったのだ。
「あの日、石井先生がいなくなって、ちょうど1年だったんです。私、石井先生のことホントに大好きだから、頑張って残ってましたけど、やっぱり何か疲れちゃって、だから唐柴先生にカミングアウトして、ドン引きの空気でも作って、またそれを言い訳にしてやめてやろうと思ってたんです。」
福島さんのその思惑が外れたことは、俺が一番よく知っている。
「それなのに、唐柴先生、私が裸になっても全然引かないし、むしろ積極的だったし。」
恥ずかしいので勘弁していただけないでしょうか、運転中ですよ。
「それでまた「ああ、石井先生の言ってることって正しいんだな」って気がしちゃって。気が付いたら、売り場の社員やパートさんたちはみんな知ってる状態になってしまいました。」
「何かお互い、結構夏子姉さんの手のひらの上で踊ってますね。」
「ふふ、そうですね。」
福島さんは助手席を軽く後ろに倒して、俺の視界の端から、顔を隠した。
「でもあの夜は、ちょっと惚れちゃいそうでした。」
あの日の翌朝、俺より先に何も言わずに部屋を出た福島さんは、何事も無かったかのように調剤室に現れ、何事も無かったかのように俺と仕事をした。あの夜の「評価」を受けたのは、今日が初めてだ。
「俺に惚れると火傷しますよ。」
普段の冗談に合わせてこう返したものの、それはおよそ身の丈に合わない大それた評価だ。
俺が彼女を受け止めるには、覚悟も度量もまるで足りない。
「そうですね、というか、誰かさんに刺し殺される気がします。唐柴先生、覚悟した方がいいですよ。」
福島さんがニヤリと笑った。
そりゃないぜ。
松木の部屋に着いたので、福島さんと二人で、松木を抱える。
「ああ、松木先生、やっぱり部屋を2つ持ってるんですねぇ。」
福島さんが感慨深そうに言う。
「そうなんですか?」
「聞いてないですか?松木先生、前の恋人と結婚の約束までしてたのに、ある日突然いなくなったんですって。しかも荷物なんかも全部残して。」
初耳だったが、なるほど合点がいく。
松木の部屋に物がなく、車がいつもそこにないのは、他に置き場があるからだ。
「その彼と住んでた部屋をそのままにしてるみたいです。彼が帰って来ると思ってるのか、何か別のしがらみがあるのかは知りませんけど。」
「何でそんな事知ってるの?」
「松木先生が斎藤さんを襲撃するのを止めた日、松木先生をなだめた後、私と唐柴先生の仲を問い質されたんですけど、その時、そこに連れて行かれたんです。誤解が解けた後は、怪文書の準備もそこでやってたんですけど、そこそこ遠かったし、何でかなと思って事情を聞きました。先生が夜這いに来ても、私と鉢合わせしなかったでしょ?」
「夜這いなんかしないですよ、俺の事なんだと思ってるの?」
「えー、嘘だー。このパンツとかも先生のでしょ?」
洗濯物に紛れて転がっていた、ややくたびれトランクスを俺に投げつけてくる。
「違う。」
俺はそれを真顔で受けることになった。
「えっ嘘。」
事態を察した福島さんの顔も引きつる。
「本当に違う。これ以上はやめましょう。」
「そうですね。」
いそいそと鍵をポストに放り込み、その旨をメールに残して帰った。
車に乗り込むと、笑いが込み上げる。
「あれ元カレのですかね?」
「いや、防犯用でしょ?」
「でも、なんか使用感ありませんか?」
「だから、そこに言及するなって!」
二人して高笑いしながら、福島さんを送って帰った。
その後のことには敢えて言及しないが、俺と福島さんは更に仲良くなった、と思う。
後日、福島さんの怪文書事件で初めて真実を知ったある弊社商品部の社員から、福島さんにお付き合いの申し込みがあったのは、また別の話。
「今日、斉藤さんの送別会があったら来ますか?」
誰も話題にしなかったが、有給消化が完了し、斎藤が弊社を完全に退職する日に、中岡が聞いてきた。
実は退職が決まった直後から、送別会の日程希望と出欠確認のアンケートが始まっていたのだが、ほとんど欠席か無回答だったのだ。
急な退職の為仕方がないが、アットホームな職場がウリの弊社で、たとえ辞めていくものでも、退職日までに送別会が開かれないのはとても珍しい。
板倉は「最後くらいは」と送別会をやりたそうだったが、俺が徹底的に聞き流したので、中岡に相談したようだ。
「行きません。」
「行きません。」
「行きません。」
俺、松木、福島さんが声を揃える。
こいつら、あんだけ言ったんだから、中岡に気を使えよ。まぁ、俺も絶対行きたくないけど。
「うわー、どうしよう。板倉先生と丹下マネージャーしか来てくれないし。」
なにその地獄。
しかし、自分から引導を渡した斎藤を送る会に出なければならないとは、因果なものである。
「なぁ蓮チャ~ン、おっぱい触らせてあげるし、送別会おいでよ~。」
中岡が俺の腕を抱く、ほんの一瞬心が揺らいだが、松木と福島さんからの殺意の波動で我に返った。
「流石に嫌だな、条件がエグすぎる。」
「じゃあ、私もバックレるから4人で福島さんの復帰祝いにしよう。蓮チャンの奢りだし!」
旦那さんが拗ねないと良いなぁ。
キャンサー・イン・ザ・ライ 了
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