第三部「鬣犬咬傷その2」


「全く、何で大丈夫だと言ってあげないのよ。」

戻った俺に声をかけたのは、齢40、二児の母。

産後太りにいくらか悩んでいるらしいが、年齢に相応しい、朗らかで健康的な母性と同時にかすかな色気を帯びた、弊社屈指の人気薬剤師にして、俺の従姉、石井夏子先生だ。

「いやいや、僕らが大丈夫だと言うから大丈夫なんじゃなくて、僕らの話を聞いて、患者が自分で大丈夫だと理解しないと意味ないじゃないですか。」

これは俺の矜持でもある。医療を受ける上で「誰それが言っていたから。」というのは、なんの根拠にもならないし、患者はそれを理由に、意思決定を医療従事者に丸投げするべきではない。

もちろんそのために、医療従事者は、患者に事実を曲げて伝えるべきではないのだ。

説明と理解、インフォームドコンセントとは、そう言うものだと俺は信じている。

「なら、あなたの言葉が理解出来ない患者は助けられないってこと?」

誠に残念ながら、今は母性も色気も鳴りを潜め、厳しい先輩薬剤師の顔をしている。

「あなたが自分の矜持にこだわっても、それで実際、子供が苦しんでたら意味ないでしょう。」

返す言葉もないが、自分が間違っているとも、やはり思わなかった。

「まぁ、あの母親に憤る気持ちはわかる。けど、みんながあなたほど賢い訳でも、合理的にものを考える訳でもないの。」

俺が仏頂面をしたからか、いくらか厳しい雰囲気と、声のトーンを抑えて、穏やかになる。

「だから、時には相手の感情に寄り添うことも覚えなさい。」

ぐうの音も出ない説教である。

「はい、ありがとうございます。」

身内が職場にいるというのは、本当にやりにくい。

今日は夏子姉さんが板倉の代わりに出勤しているので、上司に情けない姿を見せなくて済んで良かったが。

「お姉さんの前では一人称「僕」なんですね。」

久し振りに夏子姉さんと働けてご機嫌な福島さんのしたり顔にも、今日ばかりは本当に腹が立つ。

「やめてください恥ずかしい。」

「かわいいですよ。」

松木も遠くでニヤニヤしながら頷いている。

「ほら、もう一件小児にいっといで。私はあなたががもう少し可愛かった頃の話を二人にしてあげなきゃ。」

今日そんなに暇じゃないだろうに。仕事がしにくいよう。


8才男児。小児喘息。

「いつものお薬ですが、気管を広げる粉薬が1回1包1日2回朝夕食後で30日分と、咳発作時の吸入が1回2吸入で1日4回上限です。内服や吸入の使用に不便はないですか?」

吸入の処方はずいぶん久し振りなので、その辺りの質問があるだろうと思って構える。

「吸入はあんまり使わないんですけど、最近使用期限が切れてしまったので、また出してもらいもらいました、特に使用に不便はないです。」

はずれた。

「そういえば、ずっと気になっていたんですけど、この子の薬ってずっと飲み続けても大丈夫なんですか?」

「大丈夫とは、ええっと、長期間服用し続ける事にリスクがあるかって事ですかね?」

「はい、今はなんともなくても、何十年後とかに悪い影響が出たりはしないんですか?」

慢性疾患の子供を持つ親に多い質問だ。必然、ポピュラーな症例は喘息である。

「まず、今使ってらっしゃるプランルカストに関しては、目立った副作用の報告もなく、喘息発作コントロールの面でも好評ですし、おまけにほぼ無味で飲みやすく、大変医師からの評判の良いお薬です。その事を前提に聞いて頂きたいんですが。」

この時点で母親は、わりと安心した顔をしているが、残念ながらこれは質問の解答になっていない。

「ただ、この薬がこの世に生まれてまだ10年ちょっとしか経ってなくて、当然20年30年と服用し続けた人間がまだこの世にいないので、そういった長期的な影響を実際に検証する事が不可能なんです。なので、そのご質問に関しては、理論上問題ないとしか答えようがありません。」

母親の顔が曇る。不安を煽って申し訳ない。

「まぁしかし、これは実は医薬品に限ったことじゃなくて、化学調味料とか食品添加物なんかでも同じことが言えます。普段有機野菜しか食べさせてないとか、ロハスな生活を送ってらっしゃるわけでは?」

最初の辺りで、俺が何を言いたいか察してくれたらしく、俺の話に興味をもって聞いてくれていることがよくわかる表情をしていた。

「ふふふ、ないですね。」

「でしょうね。それでしたら、医薬品だけ気にしても、まぁあまり意味はないかなと思う次第です。」

「なるほど、大変良く分かりました。すみません、変なことを聞いて。」

「いえいえ、比較的よくある質問です。」

先程とは異なり、和やかな服薬指導だった。

「ああ、ついでに。小児期の喘息は、心肺機能が発達する二次成長期に良くなって、薬物でのコントロールを卒業する例もあるようです。医師と密にご相談いただく必要がありますが、一生の付き合いになるとは限りませんので、今は副作用の事より、喘息のコントロールの方に注力して、見守って差し上げてください。」

かく言う俺も小児喘息だったのだが、症状が軽かったのか、現在は薬によるコントロールはしていない。

「それはホントに良いお話を聞きました。ありがとうございます。」

母親は心底嬉しそうだった。

「お引き留めしてすいません。では、お大事に。」

こういう物分かりの良い患者ばかりだと俺たちの仕事は楽で良いのだが。


「へー、そうなんですかー。」

福島さんと松木が、姉さんを囲んで談笑している。俺の渾身の服用指導は、身内には評価されていないらしい。

「なんの話をしてたんですか?」

割って入るが、3人ともニヤニヤするばかりだ。

「そんなの内緒に決まってるじゃない。」

なんだこいつら。

「さて、おあつらえ向きに一段落だし、私はそろそろ、勇樹のお迎えに行く時間ね。」

姉さんがいそいそと帰り支度を始める。

「復帰してから、これくらいの規模の店は久し振りで楽しかったよ。丹下さんには会えなくて残念だったが。」

姉さんが少し遠い目をする。

斉藤の退職からほどなく、丹下マネージャーに出世の辞令が降りた。

前任の本社出向に伴い、来年度からの調剤部門統括への昇進内定が通達されたのだ。現在の彼の肩書きは、エリアマネージャー兼調剤部門統括補佐、前任者との引き継ぎと、準備に追われている。

「もう、彼が現場に出ることはないのだろうと思うと、少し寂しいかな。」

流産から2年後、無事に第二子を妊娠、出産した夏子姉さんだが、ブランクを押して現場に復帰したのは、丹下マネージャーの影響が大きい。

長年の同志である彼らが、斉藤に奪われたものは、思いのほか多かったのかもしれない。

「まぁ、現場重視のあの人が上に行けるなら、この会社はまだまだ大丈夫よ。」

やはり斉藤の始末は、現場主義者の彼が俺達に残した置き土産だった。


「それにしても、今日は子供ちゃんホントに多かったですね。」

程無く一日の業務が終了し、松木と二人で今日の売り上げを佐々木店長のもとに持っていく。

「お疲れさんです。」

休憩室には佐々木店長と、もう一人見慣れない顔の男性がいた。

40手前くらいの、中肉小柄なお兄さんだ。

「あ、年明けからこちらのエリアのマネージャーになる、犬塚といいます。宜しくお願いします。」

「お疲れ様です。」

「お疲れ様です。」

二人して声を揃える。

「ええと、こちら、うちの中堅薬剤師の唐柴先生と、1年目の松木先生ですわ。」

佐々木店長が気を効かせて紹介してくれた。

「よろしくお願いします。」

「よろしくお願いします。」

それ以上は特に話すこともないので、佐々木店長に今日の売り上げを渡して、白衣を着替えて帰る準備をする。特に荷物はないのだが、冬はジャケットを着ていたりして、意外に時間が掛かるのだ。

「へー、調剤の売り上げって、全然大したことないんですね。」

犬塚が突然声を上げた。

今日、釣り銭以外でレジに残った金額で言えば、約7万円であった。

松木がギョッとした顔で一瞬犬塚の方を見た後、見る間に青筋が立ち、怒りの表情を浮かべ始めた。

「松木!飯食い行こう!」

「はい!?」

何か言いかけていた松木の返事は、声が裏返った。

「お疲れ様でした!」

松木の背中を押して、とっとと出ていく。そのまま車の助手席に押し込んで、自分も乗り込みエンジンをかけた。

「何で止めたんですか!?あいつ、ヤバイですよ!」

発車と同時に、松木が声を上げた。

「わかってる、これは本気でヤバい。ただ、経験上あのタイミングで喧嘩すると佐々木さんにとばっちり行くだけで何も解決しないし、絶対に嫌な気分になるだけだ。」

基本的な事だが、保険調剤においての、医薬品の自己負担額は、0~3割だ、単純な話、小児をたくさん受け持って、自己負担額の無い患者の多い日は、金を払わずに帰る患者ばかりになるので、レジに金は残らない。

では、それでも働き損にならないのは何故か。

我々は月毎にレセプトというシステムを使い、保険適応分を国に請求する事で、差分の7~10割を国庫から得ている。

調剤の売り上げは、レジの中の金額だけでは確定しないのだ

「これからエリアの管理をしようって人が、保険調剤の売り上げの仕組みすら知らないなんて、そんなことありますか?」

そしてそれを臆面も無く口にする精神性が、今後の弊社の運命を如実に語っている。

親会社は、弊社の調剤部門のノウハウを吸収するために、買収したとの噂があったが、現場のエリアマネージャークラスがこの認識では、恐らくその噂は真実なのだろう。

「それだけ薬剤師の仕事を知らん奴が上に立つってことだ。例え利益の仕組みを理解しても、俺達に敬意を払うとは到底思えん。」

「地獄ですね。」

「丹下調剤部門統括の頑張りに期待しよう。」

「ああ、不安とストレスで胃が痛いです。」

「じゃあ、なんか軽いもの食いに行こう。」

「トマト系のパスタがいいです。」

「蕎麦とかどう?」

「あ、良いですね。いなり寿司とか食べたいです。」

旨い蕎麦屋がレパートリーにあったことに感謝しつつ、松木を宥めて蕎麦を啜った。




「ヤバいと言えば、最近めっちゃヤバい話があって。」

きつね蕎麦といなり寿司のセットという、油揚のウェイトの高い注文を待つ間に、松木が言ってくる。

「なになに?」

俺は先に来たニシン蕎麦を啜りながら話を聞く。

「先週の研修のあと、前に唐柴先生が言ってた「洗礼」の説明があったんですけど。」

弊社には、数年前から社会貢献活動及び、広報活動の一貫として、新人薬剤師が「商圏地域の住民を対象にした健康セミナーを行う」というイベントが催されている。

「今年、うちのエリアを含めて、どこのエリアも責任者来ないんですって。しかも例年、代休付けて日曜日に開催なのに、今年は平日の勤務時間中に抜けて現場に行って、会場のスタッフさんとの打ち合わせとか、全部一人でやれって言われました。」

「は?マジで?全部丸投げかよ。」

「ねー、これヤバいですよね。」

「いや、松木はなんで他人事なの?」

「唐柴先生がなんとかしてくれるでしょ?」

やはり蕎麦を吹いた。松木の目は本気だった。

「何とかって、何すれば良いの。」

「本社の人に話を付けて、誰か寄越してくれるか、それか先生監督しに来てください。」

「結構無茶言うねぇ。」

本社に相談という名の抗議することはヤブサカではないが、実際に誰か監督に来るか、俺が監督する許可が降りるとは思えない。

「ふふ、まぁ、無理なのは分かってるので、近々普通に講演の演目と台本を一緒に考えてください。」

俺の難色を察して、ハードルを下げてくれる。情けない話だ。

「おお、いつでも良いよ。」

「じゃあ、早速ですけど、次の日曜、私の家でどうですか?」

残念ながら、その日は桃子が先約だ。

「すまん、先約があ。」

「女ですか?」

その目は、新社会人1年目にしては、ひどく冷酷だった。

「まぁ、確かに女もいるけど、普通に同期の飲み会だ。それまでの時間で良ければ、付き合うよ。」

夕方の飲み会迄、桃子と二人で過ごす約束だったが、これは反故にした方が良さそうだ。

「じゃあ、飲み会済むまで待ってますから、帰って来てください。どうせ唐柴先生はお酒飲まないでしょ?」

「お、おう。」

松木が素面で押してくるのは珍しい。

「もう、私あんまり焦らされると、どうなるかわからないですよ。」

この時の松木の言葉と、少し呆けたような表情を色気と取った俺は、後に後悔することになる。


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