第一部「ジェネリック・シンドロームその3」
「なぜだ。」
しかし俺の目の前には、完成した軟膏の混合調剤があった。
「これ作ったの松木先生?」
少し声を張り上げてしまったので、松木がビクッとしてこっちを向いた。
「すいません、作ったのは板倉先生ですけど、鑑査したのは私です。」
「はーい、それ中断してちょっとこっちに来ましょうねー。」
さっきの患者お薬手帳とにらめっこしていた松木がキビキビとやって来る。
「先に謝っとく、ごめんな、あんまり意味ないから指示しなかった俺が悪い。その上で聞くけど、君これ蓋開けて中見たよな?」
「はい、見ました。」
「その時に、ヘラ突っ込んでちゃんと混ざってるかは確認した?」
「やってないです。」
「基本的にはそれでいい、外観を確認しておかしくなければ問題ないし、自分より5年も長くやってる人が作ってたら普通は問題ないはずだからな。」
「何かおかしかったですか?」
「それ、板の上に出してごらん。」
混合に使ったヘラと板、そして混ぜた塗り薬の入った容器を手渡す。
容器にヘラを差し入れた時点で松木はやや青ざめた顔をしていた。
「なんか、ザラザラしてますね。」
言いながら、板の上に塗り薬を掬い出すと、ジャリジャリとした結晶がいくらか浮き出ており、松木は磁器製の板とその結晶が擦れあう感触に顔をしかめている。
「そうだね、明らかに配合変化してる。多分薬効にも影響あるよね。」
「すいません、全然気が付きませんでした」
「いや、これ外観だけじゃ分かりにくいし、結構レアなやつだからさ、知らないと回避できないよ。俺も実際、最初は同じの作って廃棄したもん。」
新人時代の苦い思い出だ。
当時の上司はミスして薬を廃棄しても「患者に渡るよりはマシだ」と笑って許してくれる人だったが、板倉は違う。
「でもこれ、そもそも基剤不一致ですよね、病院に照会して変更してもらいましょうか。」
後述するが、塗り薬には軟膏剤とクリーム剤があり、両者の混合は好ましくない旨が、おおよその薬剤師が読む教科書には記されている。
しかしながら処方箋には、その軟膏剤とクリーム剤を混合せよという指示が書いてあるのだ。
実はこれ、現場にいれば全く珍しくないし、実際殆どの例で、混合に全く問題がない。
「それも違う、これは作り手側で回避する方法があるから、混合しない理由にならない。」
そこまで言ったところで、背後に人の気配がした。
「何かおかしかったですか?」
板倉だ。いけしゃあしゃあと言ってのけるが、こいつは自分のやったことがわかっているのだろううか。
「指導するから置いといて下さいって言ってたやつあるでしょ?」
「ああ、時間があったのでやっちゃいました。」
いつぞやと同じ、何か言いたげな苦笑い。
察するに「この調剤は急がなくていい」という俺の言い分を無視した事はたいした問題ではないので、わざわざ徒党を組んで文句を言われる様なことではないと言いたいらしい。
確かに、仕事の効率を考えれば、時間のあるうちに作れるものは作っておきたいし、新人の教育よりも優先される事もあるだろう。
カツカツのシフトを遣り繰りして育てても、すぐに異動させられてしまう新人の教育より、想定よりも早く来た患者に「はよせい!」とクレームを食らう可能性を潰すことを優先したい気持ちは解らなくはない。
しかし今回の話の肝はそこではないのだ。
「いや、そうじゃなくて、配合変化してるんですよ。」
「それも病院に照会したら、そのままで良いって言われましたよ。」
信じがたいことに、彼は混合の際に明らかに質感が変わったことに気が付いたにも関わらず、それをそのまま患者に渡すことにしたらしい。
明らかに劣化したものを「病院には許可を得ている」という建前で患者に受け取らせようというのだ。
「正気で言ってるのか。」
思わず部下にあるまじき言葉を呟いてしまったが、板倉が意に介した様子はない。
前述の通り、塗り薬の混合でここまでの大きな変化はレアケースである。
現在流通している塗り薬は、どれを混ぜ合わせても基本的にはせいぜい水分が浮き上がって質感が少し変わる程度の事が殆どなので、詳しい状況を伝えずに「配合変化があります」とだけ伝えても、「無視して問題ない」という回答が返ってくる場合が多い。
ちなみに、この処方箋を書いた医師は、薬剤師が嫌いなのか、調剤薬局からの問い合わせには絶対に直接電話に出ず、看護師や事務員を介しての応答になる。この場合、「医師に直接確認した」という嘘は、記録には残せないので、「病院からの回答」として記録している。
「病院側が変化の状態を理解して回答してるとは思えません。こんなの患者に出して良いと思いますか?」
実際、皮膚科医にさえ、軟膏やクリーム剤の配合変化を把握していなかったり、無視する先生はいる。それを把握して指摘したり、改善策を提案するのは本来薬剤師の仕事だからだ。
「でも、病院側は良いって言いましたよ。」
こんな奴が薬局を管理する立場の薬剤師だというのだから、薬剤師は本当に不要な存在なのかもしれない。
「このボンクラが!」
という言葉は流石に飲み込んで、
「こんなもの、鑑査通せませんよ。松木先生にも通させません。作り直しますからね。」
「あんまりロス出して、始末書くの僕なんですけどね。」
それが理由か。
何故か我が社には、調剤の失敗による廃棄ロスと薬品の期限切れによる廃棄の合計金額が3万円以上になると、管理薬剤師に始末書を書かせるルールがある。
もちろん始末書の枚数が多ければ、それがどんなに下らない理由のものであっても、そして人事担当者がどれだけ無能でもボーナスの査定や昇進に影響する。
しかし、それを理由に患者にシャーベット状の塗り薬を渡せと。
「まぁ、それが管理薬剤師の仕事ですからね。」
もう呆れてものが言えないところだったが、何とかそれだけ言って、廃棄の医薬品がまとまっているカゴに、容器ごと失敗作を放り込む。
塗り薬1つ作り直すのに、こんなに嫌な気分になる必要はあるのか。
「すいません」
松木が先程より更に青ざめた顔をしている、瞳も潤んで充血気味だ。
まぁ、そうだよな。どんなにつまらないことでも、知らないことがあるって悔しいし、怖いよ。
「いや、いいよ、大丈夫、気を取り直して、軟膏の混合について勉強しようか。」
「はい。」
しかしその前に
「準備しとくから顔洗っといで。」
「はい。すいません」
松木は小さくうなずくと、そのまま小走りで調剤室を出ていった。泣き顔も可愛い、なんて暢気に思うのは、同じ失敗を先にした者の特権だろう。
微笑んで彼女を見送っていると、目を腫らして走っていく松木を見つけた福島さんがジロリとこちらを睨み付けた。
そりゃないぜ福島さん。
気を取り直して塗り薬を作り直す準備をする、目の前の医院の午後の診療が始まるまで、もうあまり時間がない。
ほどなくして、いくらか顔色が良くなり、ついでにメイクも整った松木が帰ってきた。
「さて、順を追って説明しよう。まずは処方内容からね。ステロイド外用剤のフルオシノニド軟膏と、保湿剤のへパリン類似物質クリームを25gずつ混合する指示になっています。基剤が軟膏剤とクリーム剤で不一致であること以外に、何か問題はありますか?」
「ないと思います、へパリン類似物質に様々な強さのステロイドを混合して処方するのはとてもポピュラーですし、このクリーム剤と別のステロイド軟膏を混ぜたこともありますけど、正直、こんな風になったのを見るのは初めてです。」
そう言って松木はまた少し不安げな顔になる。
「気付かずに渡してたらどうしましょう。」
「シフトが被ってる時は俺が気付いてるから大丈夫だけど、不安なら俺が休みの日だけ後で薬歴を確認して。さっきも言ったけど結構レアだから、流石に無いと思うけどね。」
些か不安が残る顔をしているが、あまり時間がないので、切り替えてもらおう。
「さてさて、何故かこの医院の先生は、今回の者に限らず、軟膏剤とクリーム剤の混合をしたがる傾向があります。多分内科医なので外用剤のことはよく知らないのでしょう。実際、軟膏剤との混合が問題ない、同じへパリン類似物質の「ソフト軟膏」と間違えて記載している可能性があります。ここで第一問、どうしてこうなったでしょうか?」
「一般名処方に切り替えたから、ですか?」
「正解、先日の診療報酬改定で、処方箋に医薬品の商品名ではなく、成分名を記載して、メーカーを特定させない処方、いわゆる一般名処方を記載すると処方箋発行料が上がるように変わったからです。実際、改定以前までは商品名で処方されていた事が、お薬手帳からも分かる。しかも軟膏の方で。では第二問、何故、一般名処方になった時、軟膏とクリームが切り替わったのでしょう?」
「一般名にへパリン類似物質ソフト軟膏が存在しないから。」
「正解。へパリン類似物質には、軟膏剤とクリーム剤、外用液剤はあるけど、「ソフト軟膏」なんて存在しない。」
「そもそもこの「ソフト軟膏」って、分類上は軟膏剤なんですか?クリーム剤なんですか?」
「これを知らない人が意外といてね。ソフト軟膏ってのは、先発品を開発したマルオ製薬の商標の一部で、剤形の分類じゃないんだ、だからジェネリックには「ソフト軟膏」って名前が使えない。ちなみに分類上は軟膏だよ。」
「でも、これ見た目は殆どクリーム剤ですよ?」
「そう。だから、この事をよく知らない医師も処方箋に書くときにクリームって書いてくるし、患者もみんな「このクリームと同じの下さい」って言う。患者に対しては面倒だからいちいち訂正しないけどね。」
「じゃあやっぱり軟膏に変更してもらった方がよくないですか?」
「混合以外の時も含めて、色んな医院に「ソフト軟膏」が欲しい時の一般名処方は軟膏にしてくださいって訂正の照会してるんだけど、この医院は全然直らないんだよ。」
「医師が直接電話に出ないから?」
「正解。看護師さんか受け付けの事務員さんが又聞きで喋ってるから、上手く伝わらないのか、いつも「そのままで。」っていう返事が来る。だからそのまま作るしかない。」
「じゃあ、どうするんですか?」
「現在、へパリン類似物質クリームを製造販売している会社は5社、そのうち、他社製品との混合可否のデータを公表してるのは3社で、そのうち1社だけ、クリーム剤と軟膏を
混合してもシャーベット状にならないって公表してる。なので、そこの製品を使えば、問題が解決する。ちなみに、どこだと思う?」
「まさか、マルオですか?」
「正解。流石は先発品を開発した企業だよな。じゃあ、実際に混合してみようか。」
そう言って、事前に用意した軟膏とクリームを混ぜてもらう。
「ちょっと軟化してる気がしますけど、全然ジャリジャリしてないですし、さっきのに比べたら全然気にならないです。」
「うん、全く問題ないね。」
「添加物の違いって、こんなに大きいんですね。」
「ところがどっこい、マルオは使用している添加物を公表しているし、実際、タベ製薬のジェネリックは添加物も全く同じものを使っているが、やっぱりそれでも、シャーベット状になるっていうデータが出てる。」
「じゃあ、いったい何が違うんですか?」
「マルオの学術担当と話したことがあるんだけど、曰く『同じ材料でカレーを作っても、作る人によって味が全然違うでしょ』だそうだよ、製造行程が他とは根本的に違うらしい。私たちはそこで勝負してる企業ですって胸張って言ってた。」
「うわー、マルオ格好いいですね。」
「俺もそう思うわ。」
松木が作り直した軟膏の鑑査をしているうちに、少し大きめに設定された電話の着信音がなる。目の前の医院から処方箋のファックスが来たサイン、午後の診療開始だ。
「さて、本日の授業はここまで。」
残念ながら、楽しい講義の時間は短い。
「先生、最後に一つ質問良いですか?」
「何かね?松木君。」
「この話を聞いて、私はこの後どんな気持ちで患者さんにジェネリックを推奨すれば良いですか?」
「まぁ、それは追々教えてあげるから、とりあえず今日は割り切って。」
と言って数秒考える。鉄は熱いうちに打て、と昔の偉い人は言った。これはあくまで後輩への指導であって、私的な欲求の発露ではない。
「それか、今日予定がなければ、晩ご飯でも食べながら講義するけど?」
重ねてこれは公私混同ではないしパワハラではないし緊張で声が若干上ずったりもしていない。
「えっ、良いんですか?」
好感触かよ!
「もちろん。じゃあ、楽しみもできたところで、さっきのおじいさんの処方に戻ろうか。さっさと終わらせないと、後が控えている。」
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