第一部「ジェネリック・シンドロームその4」
さて、腹を括って後3時間。
「抗生物質は症状によらず使いきって下さい。お大事に」
42才女性、風邪。
「先月と同じ内容ですね。最近寒くなってきましたが、血圧は落ち着いておられますか?」
76才男性、定期処方。
「血栓ができなくなるようにする薬の種類が変更になりました。この薬なら納豆を食べても大丈夫ですが、引き続き体のアザや歯茎からの出血が続くときはすぐに先生にご相談ください。」
82才男性、3年前に肺塞栓になってから、使うと納豆が食べられなくなるタイプの抗凝固薬を服用していたが、どうしても納豆が食べたいとゴネたらしい。3年我慢したのに、何故今更。
淡々と薬を準備して、必要なことを伝える。
こんな感じで20人ほど応対して、気が付いたら営業時間が終了していた。
「今日は結構きつかったですね。」
今日の薬剤師は3名、事務員も3名、16時からの3時間で54人の来局。新人にはキツかろうが、残念ながら通常運行だ。
「まぁ、一日の累計が100人までの日がトラブル無しで過ごせれば、及第点だね。」
そんなことより。俺は声を少し低く意識し、神妙な顔を作る。
「さて、俺の貴重な時間を使って追加の講義をする上で、一つ重要な質問がある。曖昧な解答をすると、俺の機嫌を大きく損なうから気を付けて答えて下さい。」
途端、松木も神妙な顔つきになる。普段高圧的なつもりはないが、真面目な後輩にとって先輩の威光はとても大きいらしい。
「何が食べたい?」
何事も緊張と緩和が大事だ、と誰かが言った。表情豊かな女性は魅力的だが、自分の思った通りに表情を変える女性は、一際魅力的だ。
「すいません、考えてなかったです。」
彼女の破顔にあわせて自分の表情を崩すのがコツ。ミラーリング効果で、共感と信頼を演出だ。患者とのコミュニケーションに役立つと思って培った技術であって、決してこういう時の為のものではない。決して。
「まぁ、閉局準備中に・・・。」
考えてくれと言いかけて、遮られた。
「このタイミングで言いにくいんですけど、トラブルです。」
存在を忘れていたが、板倉だ。
「在庫をチェックしましたが、数が合わない。」
「計数過誤ですか?」
「そうです、規則では今日中に解決して報告書を作ってもらわなくちゃないけません。」
本当に済まなそうに言うのだから、なおのことタチが悪い。
「俺ですか?」
「残念ながら。」
ご丁寧に書類が揃っている、足りない薬の銘柄、調剤者、鑑査者、服薬指導者を見れば、責任が誰にあるかわかる。薬を持ってきたのは、事務の斉藤、鑑査して服薬指導したのは、俺だ。
経過を見れば、俺がヒートを2枚数え間違えたのが解る。
「俺が20錠多く渡したんですね。」
「最近多いですね。」
「最近?俺の着任から三ヶ月で5回。全部、斉藤さんがピックアップしたものを俺が鑑査で見落としてる。」
自分が見落としているのが悪い、それは認める。だが、回避できているものの、斎藤が間違った数を持ってくるケースはもっと多い。
「言いたいことはわかります。」
珍しく察しがいいな。
「それでも、俺の責任です。言い訳するつもりはありません。」
こんな事で「浮かれているからミスが増える」なんてレッテルを貼られてはたまったものではないが、他からはそう見えるような隙が俺にあったのは確かだ。
「すまん、松木、講義はまた今度になる。」
「すいません。」
板倉が謝るのはお門違いだし、そんな言葉に価値はない。
「私、待ちますよ。」
「これから患者宅に電話して、事実確認して回収、エリアマネージャーに電話して謝って、過誤報告書を作成するんだ、1時間は掛かる。明日も朝からだし、無理はしなくていいよ。」
残念ながら、不機嫌な顔は隠せていない。自覚はあるが、抑えられなかった。嫌われるかな。
「お疲れ様。」
悲しい、心底。
「はい、お疲れ様です。」
去っていく松木を目の端で未練がましく追った。
失意の中、まずは患者に電話を掛ける。
幸い、回収に快く応じてくれた。回収したらエリアマネージャーに、経緯を報告。「最近多いぞ気を付けろ」というテンプレートの説教を貰って、報告書を作る。
「さて、もう一息。昼飯遅かったのに、何でこんなに腹減るんだ?」
立ち上げておいたパソコンの前に腰を降ろし、誰にともなく呟く。
「私もお腹空きました。」
「うわ!何でいるの!?」
患者宅に出掛けている間に、板倉が閉局しておくと言っていたし、実際戻ったら鍵が掛かっていた。
「帰るのやめたんです。」
「板倉は知ってる?」
「退勤は切ってあるので、残業時間は関係ないですよ。」
「抜かりないなぁ。」
「当然です。あ、ベーグル買って来ましたけど、サーモンマリネとブルーベリーチーズどっちがいいですか?」
「ブルーベリーかな。ありがとう。でも、良かった?」
「私が食べる分は、季節限定のマロンペーストとクランチチョコのやつです。残った方は明日の朝ごはん。」
「抜かりないねぇ。」
「何が食べたいか考えて、狙っていたカフェのテイクアウトにしました。」
「なるほど。ちなみに、昼に出した問題は解けた?」
キーボードを叩きながらベーグルをかじる。
歯応えと麦っぽい旨味が強いベーグルに、クリームチーズと、粒の大きいブルーベリージャムの酸味が良い。コーヒーとの相性もばっちり。
「考えられる限りでは、この方別の医院で沢田の鉄剤使ってるんですけど。これって理由になりますか?」
「うん、正解だけど、何か疑問?」
「いえ、単純に溶け方の違いや、吸収のされ方の違いが、薬効に影響しないのかなって。」
「体内での血中濃度の推移、これを薬物動態というけど、確かに、基剤や添加物によって薬物動態が変わる可能性はある。というか、変わらない可能性の方が低い。だけど、薬物動態が変わることで薬効に影響が出る可能性はどの程度だと思う?」
暫しの沈黙、キーボードを叩く音と、ベーグルを齧る音が聞こえる。つくづく、日本人は間違えることを恐れる民族だ。
「ブー、時間切れ。体内の薬物動態の話をするなら、定常状態であるかどうかが考慮に入る。」
定常状態とは、体内での吸収と排出のスピードが同じになって、常に体内で薬の濃度が一定に保たれている状態の事を言う。
「定常状態の場合、1回の吸収の速度や吸収量の誤差は充分無視できる。
逆に頓服や、1日で吸収から排出までが完結するタイプの薬とか、徐放剤みたいに錠剤そのものに特殊な細工がしてある薬の場合は薬効に影響する可能性があるけど、これは『影響する』のであって、悪影響とは限らない。
吸収のスピードが早かったりして、血中濃度が高くなりやすいと、早く効いたり強く効く反面、濃度が長時間保てず、効果時間が短くなる。時間と強さのどちらが大事かは、その人次第だろう。
そういった観点でメーカーが選ばれていないなら、先発品や特定のメーカーが有意に有効とは言えない。だから、早急に準備が出来ないのであれば、服用しないよりはよっぽど良いので、とりあえず変更しても問題ない。ダメなら元に戻す。ここまでは良い?」
「はい。まぁ、なんとか。」
「では、具体例に話を移そう、件の患者さんのカルボシステインは1日3回毎食後。定常状態で薬効を管理する薬ではないけど、1日に3回も飲むのに、排出や吸収の誤差で、痰の切れ方が実感出来るレベルで大きく変化すると思う?」
「無理がありますね。」
「でしょう?プラシーボ効果ってのがあるから、絶対に無いとは言わないけどね。」
「次に、添加物による薬効以外の影響だけど、これはさっきのが答えになるね。同じメーカーの薬を使ってるんだから、添加物が原因のアレルギー症状が出る可能性は限りなく低い。」
「添加物ってメーカーが同じなら何の薬でも同じなんですか?」
「そりゃ全く同じじゃないけど、製品毎に全然違う添加物使ってたら、安定供給出来ないし、無駄なコストが掛かるでしょう。これはどんな製造業でも同じ、合わせられる規格は、合わせた方が効率が良いに決まってる。」
多少根拠に乏しい部分や、無理矢理こじつけたところがある気がしなくもないが、正直、医療の世界は結果論だし、確率論だ。
「まぁ、概ね根拠はこんなところかな。」
松木はというと、不安と呆れの混じったような、そしてそれ故に何かを諦めたような、複雑な表情を浮かべている。
「こんなこと、考えた事もなかったです」
「だろうね、国家試験には出ないもんなぁ。」
「そんな判断がすぐに出来るようにとか、一生掛かってもなれる気がしないんですけど、こういうのって、製品とか成分毎に1つ1つ、調べて覚えなきゃいけないんですか?」
いや、松木よ、そんな事を求められたら誰でも、それこそ薬剤師でなくても絶望するぞ。
「いやいや、そんなこと誰も出来ないよ。そもそも添加物と製剤の特徴に相関無いとか、相関の根拠が企業秘密に直結してて非公開とかってパターンがザラにあるから、覚えても意味がない。そんなことに労力使うより、メーカー毎の得意や特色なんかを知ってて、患者に上手く伝えられる方がよっぽど良いと思う。」
「マルオが塗り薬得意みたいな話ですよね。」
「そうそう、例えば痛み止めの湿布薬が得意な竹光製薬は、気管支拡張に使うツロブテロールテープも作ってるとか、ウィザードは菓子メーカーだから、口の中で溶ける製剤や粉薬の味が工夫されてたりね。」
楽しい会話に気を取られて手が止まらないように気を付けながら、小気味良くキーボードを叩く。やっていることは詰まらない報告書の作成だが、早く終わって欲しいような、終わらないで欲しいような。
「そういうのも、あんまり知らないです。」
「テレビで流れる一般用医薬品のコマーシャルとかちゃんと観てると意外と思い至るときもあるし、あとはエピソードの積み重ねだね。例えばだけど、前にレバミピド点眼剤の使用後に口の中が苦くなるって相談してきた患者さんに、魔法使いが苦味を消すのを諦めたので、諦めてくださいって言ったら、笑って帰っていった事があったよ。実際ウィザードのレバミピドOD錠、すぐに販売終了したもんな。」
「へー、それ今度使います。」
「おう、盗め盗め。」
「ちなみにうちの薬局って、製剤の特徴で選んでジェネリック採用してるんですか?」
「んーん、利益率優先。だからせっかく知ってる好事例があんまり反映できなかったり、逆にテープとか剥がれやすくて、ジェネリック自体が嫌われたりする。」
「ダメじゃないですか。」
「なー。世の中の薬局経営者が結構そんなんばっかりだから、ジェネリック普及率が7割で止まっちゃうんだよ。企業が良いもの作っても、それが判るやつに採用の決定権がないんだから。」
「唐芝先生、早く偉くなってください。」
「はは、まぁ、頑張るわ。」
ほどなくして、無事に報告書を書き上げ、解散になる。俺には残業時間がキッチリついているので、引き延ばしたりはしていない、していないとも。
「ベーグルとコーヒーごちそうさま、次は奢るからね。」
「いえいえ、次も出しても良いですけど。」
「いやそれめちゃくちゃカッコ悪いから。」
「えへへ、楽しみにしてます。」
「それじゃあ、俺は明日は休みだから、頑張ってね、お疲れ様。」
「お疲れ様です。ゆっくり休んでください。」
「あ、明日はなるべく一般用医薬品の接客が出来るように板倉先生にお願いして。俺も資料を探しときます。」
「了解です、ありがとうございます。」
松木はこの店舗から自転車で10分ほどのマンションに住んでいるらしい。おおよその場所は知っているが、もちろん詳しくは知らない。
一方の俺は、前の赴任先の近くに住んでいるので、車で30分かけて通勤している。
レトロなデザインがウリの軽自動車でトコトコと帰路を走る。
楽しかった時間を噛み締めるように思い出しながらだと、家に辿り着くのも早い。
「あれ?」
俺の部屋はアパートの2階にある2DKの角部屋、駐車スペースが建物のすぐ前なので、自分の部屋がすぐ見える。
「電気ついてる。」
嫌な予感が状況確認を急かす。案の定、鍵は空いていた。
「あ、蓮くんお帰り。遅かったね。」
俺を出迎えた女、名前を北尾桃子という。俺と同期入社の薬剤師で、俺の部屋の合鍵を持っている。まぁ、そういう関係の女性である。
背は低くないが、か細く、簡単に折れてしまいそうな体と、長い手足を大きなパーカーで覆い、胸元まである綺麗な黒髪を前に垂らして、ソファにもたれてこちらを見やる。色白で、高い鼻と切れ長の眼、薄い唇の整った顔立ち。
普段はコンタクトで、プライベートでは薄い眼鏡をかけていることを知っている同期の男は、多分俺だけだ。
「ああ、ちょっと過誤った。」
寝室に鞄を放り捨てて、朝脱ぎ捨てた部屋着にそのまま着替える。
ちょっと気持ち悪いが、客がいるので風呂は後回しだ。
「え?何やったの?」
「計数。また斉藤の罠に引っ掛かった。そのうちそっちにも回覧が回ってくるよ。」
「うわー、またか。ずっと言ってるもんね、可哀想に。ご飯は?」
「ちょろっと食べてきた。」
「そっか、一応色々買ってきたよ。」
知ってる。既に足元にビール缶が3本転がっていて、テーブルには駅前の総菜屋の値引きの品が並んでいる。
ついでにテレビに写っているのは、俺が最近ハマっている国内ドラマの3話目だ。
店が閉まってから3時間程経過しているから、その点とも符合する。
それぐらいはここにいるはずだ、折角だし手料理の1つでも、と思わなくはないが、三食コンビニ飯か外食の俺の家には、まともな食材が無いので仕方がないか。
「ありがとう、まあ適当に食うよ。」
こちらもビールの缶を開け、買い置きのおつまみを出したりして、彼女がいるという環境に体を慣らすようにリラックスモードに入っていく。昨夜思い立ってトイレ掃除をしておいて本当に良かった。
「何?」
「どうしたの?何でいるの?」
「何?嬉しくないの?」
「いや、嬉しいでしょ、普通に。そういうことじゃなくて。」
やましい動揺が全く無いとは言わないが、本心から嬉しいサプライズだったし、はっきり嬉しいと言われた彼女は、まんざらでもないといった顔をしたので、気取られてはいないようだ。
「急に明日が休みになったから、どっか行こうかと思って。」
「へー、珍しい。」
2018年現在で、日本の薬剤師は約32万人いるが、正社員として雇用されている者が簡単に休みがもらえるような職業ではない。
「なんか、昼間にマネージャーが突然来て、今日の午後と明日は休みで良いよって。まぁ、私今月全然休んでなかったからね。」
可哀想に。
どの業界にもよくある話だが、今月の頭に「急病」による退職者が出たため、そのしわ寄せを一身に受けて、彼女は今日まで、全ての営業日に開局から閉局まで勤務するハメになっっていたのだ。
「桃子ちゃんとこ先月から日曜日閉めてるし、あの人なら平然と放置すると思ったけど。」
厚生労働省の政策に反して、大手の薬局チェーンは年中無休の薬局営業から手を引く傾向にある。
1つの店舗を毎日開けるより、休日込みで複数の店舗を営業する方が利益が得られるし、薬剤師の求人でもウケが良いからだ。
「流石にヤバイと思ったんじゃない?社員が新人と私だけになったし、管理薬剤師も来月から私になるから、ご機嫌伺いよ。」
聞くところによると、前任の管理薬剤師の病の兆候は元々あったため、彼女の店舗の日曜日の営業中止は現在の状況の布石だったらしい。
退職を願い出てからの期間が短く、引き継ぎ期間が皆無であることから、「病状」は察するに余りある。
突然シフトに負荷が掛かり、重責まで押し付けられた桃子までトんでしまわないように、マネージャーも気を使ったのだ。
「うわー、全然喜べない出世。上手く回る気もしないし。」
「でしょう?だから可哀想な私を慰めて欲しくて。」
「ほう、じゃあ映画でも観にいくか?イ○ンだけど。」
「地元の中学生かよ。車出してよ。」
「どこ行くの?」
「美味しいものが食べたいです。」
「せめてジャンルを絞ってくれ。スマホを使ってくれ。」
「えー、何が良い?」
「俺はなんでも良いし、どこまででも連れていくよ、日帰りで行けるところなら。」
「疲れてるのに、ごめんね。」
「お互い様でしょ。同じ仕事してるんだから。」
この共感がなければ、同じ会社の薬剤師でなければ、きっと桃子は俺なんか歯牙にもかけないだろう。
いくらか疲れた顔をしていても、甘えるような上目使いの彼女は、そう思えるほどには可愛らしかった。
「そっちの新人かわいい?」
「まぁ、良い子だよ、相応に聞き分けが良くて、飲み込みも早いし、使い潰さずちゃんと教育すれば良い戦力になるよ。」
何かの探りか?と思わなくもなかったので、ルックスではなく能力を答える事にした。
「ふーん。」
案の定、何か含みのある相づちである。
「そっちは?」
話がそれるように相手に同じ質問をする。深追いされると心が痛い。
「あんまり何を考えてるか分からないかなぁ、悪い子じゃないけど、出来ないことを出来ないって言えない感じ。吸入指導とか、ちゃんと出来ないのに、適当に服薬指導して帰ってくる。」
「気付いてるなら、言ってあげなよ。」
「私の担当じゃなかったし、前の管理薬剤師が、勝手に指導すると怒るタイプだったのよ。」
「まぁ、たしかにそういうのってハンデとして大きいけど、もう桃子ちゃんの仕事になるんでしょ。」
「ホント面倒臭い。」
「お察しします。」
「ベタベタして良い?」
「良いよ。」
ビールと汗の匂いのする体を抱き寄せて、何となくテレビを眺め、何となく一緒に風呂に入り、何となくセックスをして眠る。
俺達が明日どこへ行くかは、まだ決まっていない。
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