第二部「キャンサー・イン・ザ・ライ〜ライ麦畑の癌組織その5」

当たり前だがこちらが裏でどんなトラブルに見舞われていても、患者にはそんなことは関係がない。


患者はいつものペースである。

50才女性、新規患者、初処方。

「これって、体が酸素を取り込むようにする薬じゃないんですか?」

薬を使って体が酸素を取り込むようにする方法とはなんだろう。

まぁ、気管支を拡張する薬を飲めば、吸気は増えそうであるが、彼女ち処方されているのはクロチアゼパムだ。

「いえ、これはいわゆる安定剤ですね、1回1錠を」

「安定剤なんて要りません!」

人の話を遮ってそのリアクションをするような人には間違いなく精神安定剤が必要だと思うが、彼女は要らないという。

「私はね、過呼吸があるので受診したんです、呼吸器の薬が出ているはずじゃないんですか?」

出てません。


いや、今日俺ら朝からそこそこデカい事件に巻き込まれてて、しんどいんですよ。マジで勘弁してくださいよ。


という気持ちで心が折れそうであるが、そういうわけにもいかない。

相手への嘆息と気取られないよう、呼吸を整えるように小さくため息を吐く。

「あのね、呼吸が深く大きくなるときはね、交感神経にスイッチが入っているんです、そうすると無駄に汗をかいたり、動悸がしたり、気分が急いて落ち着かなかったりします。激しい運動をした時と同じです。ここまでは解りますか?」

患者は黙ってうなずいた。

交感神経は体が起きて活動しているときに働く自律神経で、逆に副交感神経は体を休めているときに働く自律神経であるという事くらいは、今時は中学生でも知っている。

しかし、そんな簡単な理屈でも、省かず改丁寧に言葉にしていく。

「この薬は、副交感神経にスイッチを入れる薬なんです。そうする事で交感神経の方のスイッチを切るためにね。今のあなたは、副交感神経にスイッチを入れるべきところで交感神経にスイッチが入ったり、その逆があったり、交感神経のスイッチがなかなか切れない状態にあるんです。だから安静にしているのに汗をかいたり、動機や過呼吸、不眠なんかが起こるんです。これを自律神経失調症と言いますが、心当たりはありますか?」

患者はこれにも、黙ってうなずく。

「ですので、過呼吸だからといって、呼吸器に問題があるとも、体に酸素が足りていないとも限らないんです。交感神経と副交感神経は切り替え式のスイッチみたいなものなので、両方を同時にオンにしたりオフにしたりも出来ないし、ピンポイントで症状がある部分のスイッチだけを切り替えたりも出来ないので、特定の症状に応じて個別に薬が出されることもありません。というか、そんな便利な薬はこの世にありません。だから、副交感神経そのものにスイッチを入れる薬が処方されたのだと考えられます。医師はあなたの症状をちゃんと診て、適切な薬を出しておられると思いますが、ご理解いただけましたか?」

「大変良くわかりました。」

ずいぶん感心したように言ってくる。「私が聞きたかったのはそれよ」と言わんばかりだ。

医師が患者に対して、普段からどの程度説明を尽くしているかは判らないが、治療に関してこの程度の理解度で患者を送り出すなら、いい加減処方箋に、せめて診断名を書くようにしていただけないだろうか。

処方内容と患者からの情報だけで毎回その意図を汲み取るのは少々骨が折れる、というか患者が情報をくれない場合もあり、処方意図を汲み取ることが出来ない薬剤師がそこかしこにいて、現場では大変不合理な状況になっている。

「では、具体的な薬の用法に関してし説明します。1回1錠1日3回毎食後で14日分です。」

俺がこう説明すると患者はまた、憮然とした顔をする。

1つ何か言う度にイチイチ反抗的な態度をされると非常に面倒臭い。嘘でも飲み込んでくれれば良いのに、説明せざるを得ないじゃないか。

「あ、症状があるときだけ飲みたいんだと思いますけど、そういうわけにもいかないですよ。」

せめて口をついて反論される前に、こちらから釘を指す。

「え?何故ですか?」

「単純ですが、症状が出たときだけ抑えてもイタチごっこですし、効果の判定がしにくいからです。ですのでまずは2週間きちんと内服して、効果がきちんと得られたか、眠気や過度の倦怠感等、使用に不便が無いかを確認」

「最初からきちんと効く薬が良いんですけど。」

だから、人の話を遮るなよ。

「お医者さんはエスパーじゃないんでね、使ってもないのにその薬があなたに合うかどうか断言なんて出来ませんよ。」

逆に、そんなことを無責任に断言する医師の方が信用できないと思うのだが、この患者は違うらしい。


ちなみに、こういった意見の患者に多く当たった医師が、より強い薬をコンスタントに選択するようになるケースがある事は、容易に想像が付く。


一般に「こんなお医者さんは嫌だ」と言われる医師は、一部の愚かな患者の言動によって構築されている場合があるあのだ。


「じゃあどうすれば良いんですか?」

病気でしんどいのは判ります、交感神経が優位に働いていると、気分が落ち着かないのでしょうね。だとしても人の話はちゃんと聞きましょう。

あなたの病気を治す為に話をしてるんだから、せめてその努力は、積極的にしましょうよ。

「ですから、ちゃんと決まったタイミングで薬を飲んで、どうなったかお医者さんにお話しして、症状が押さえられる状況を作っていきましょう。」

「何回も通わなくちゃいけないんですか?そんな時間無いんですけど。」

あんたホンマに、医者から何を聞いてきたんや?

次いつ受診か言われてないんか?

「それを判断するのは、残念ながら僕ではありません。」

沈黙。

何もなくてもそこそこしんどい相手だったが、今日は一段と堪える。

そのあとこの女性は金を払って帰り、実際、2度と姿を現さなかった。


自律神経失調症の患者に限らないが、「原因が分かったし、症状が軽微で、治療が必要と思えるほど気にならない」と、受診を継続的にしない患者もいる。


こうして文章にでもすれば、それが重症化の可能性をはらみ、推奨される行為でない事は客観的に明らかだが、それが出来ないのが人情であろう。


皆「自分は大丈夫」だと考えるのだ。


まぁ、俺の事が気に入らなくて、別の薬局で薬をもらってるだけかもしれないが。


62才女性

処方内容、以下余白

「はははははっ」

思わず笑ってしまったが、患者は怪訝な顔をした。

俺は顔をそのままに、処方せんを広げて指差す。

「これ薬の名前も何も書いて無いですよ。」

「あらぁ、あっははは。どうしましょう。」

合点がいくと、患者も破顔した。


そう、処方せんが白紙だったのだ。処方せんの処方内容欄の末尾には、「以下余白」と自動で印刷されるようになっている事が多いので、それだけが書かれた状態である。


「流石にこれはどうしようもないですねぇ。」

部分的な訂正ならともかく、内容白紙というレベルの不備を、医院に電話を掛けるだけで済ませるのは、流石に事故の原因になる。

「医院さんに連絡しても良いですけど、それだと正しい内容のファックスを貰ってからそれを見て用意するので、医院からの返事が遅いと時間がかかるかもしれません。勿論時間が頂けるなら、それでも構いませんが。」

「ああ、いえいえ、申し訳ないですから病院に戻ってちゃんとしたの貰って来ますよ。」

賭けてもいいが、医療従事者以外の患者のほぼ全員が、受け取った処方せんの内容を確認しない。

理由は単純。何が書いてあるのか分からないからだ。

しかも提出したらすぐに薬局で回収され、受け取ってから手放すまでの時間も短いため、確認に使える時間も限られているので、その気持ちは充分理解出来る。

しかし、何が書いてあるのか分からなくても、今回のように「何も書かれていない」事は、誰が見ても判る。

今回の患者も、自分の確認不足に負い目があるため、医院にとって返す選択をしたのだろう。

これで彼女は「自分の理解出来る範囲で処方せんの内容を確認するべき」であることを学習したはずだ。恐らく今回のこれは服薬指導と同じくらい重要な学びであろう。

患者自身が医療事故を防ぐ最も手軽で効率的な手段を、彼女は手に入れたのだ。


ちなみに処方せんには、薬の内容、日数、病院の所在地に発行した医師の名前、適応になる保険や福祉の番号、そして

「処方せんの有効期間は発行日を含めて4日間」

である旨の記載がある。

白紙でなくとも、次の予約が8週後なのに28日分しか薬が出ていないとかは、薬局ではなく病院の受付で言う方が早いので、是非そうして欲しい。


あと、発行から4日以上経った処方せんは、公文書ではなくただの紙切れなので持って来ないでください。本当に。


「それにしても、お医者様なのに間違うなんて。」

処方を組み立ててるのは医師の仕事であるが、それを印刷するのが医師であるとは限らない。

だが、それを他に置いても、この言葉に苦しめられる医師は多いだろう。

「いや、お医者さんだって人間ですからね。」

患者は、「なんてとんでもないことを言うんだ。」という驚いた顔をした。

医師は人々を病の苦しみから解放し、人命を救う偉大な職業であり、高度な知性と技術を必要とする事は間違いない。

だが、それを「神」と呼ぶことは、とても危険である。彼らは、高い知性と技術をもった、尊敬すべき「人間」である。機械のように正確でも機械ではないし、不摂生な患者を叱りながら自分でも血糖降下剤を飲む。

信仰を冒涜して大変申し訳ないが、医師は神様ではないし、全員が医療ドラマの主人公と同じ事が出来るわけではない。

「だから僕らがいるんです。」

「ただの子分じゃないんですよ。」と続けようかとも思ったが、野暮ったいのでやめた。



「お前なぁ、ああいう時は意地でも処方せんを確保しろよ。」

患者を帰した後、その背後から現れたのはスキンヘッドの大男、丹下マネージャーである。

「いや、あの方は多分また戻って来られると思いますよ。」

「だとしてもだよ。」

丹下マネージャーは俺の肩をポンっと叩くとそのまま板倉を呼んで、二人して休憩室に向かった。

さて、どうなることか。


気になるところだが今はそれより、福島、丹下、板倉がゆっくり話をする時間を稼ぐ事が先決だ。

丹下マネージャーが来ると知ってか、斉藤も流石に今日は大人しい。

板倉と出ていく迄の1分ですら普段なら絶対にしない気さくで朗らかな挨拶で良い子ぶっている様は非常に不気味だったが、さておき今日の事務仕事は斉藤が主力だ。

締まっていこう。

68才女性、入眠剤の追加、初処方。その他定期処方。目の前の伊賀見先生からの処方である。


「入眠剤が1回1錠で追加です。寝つきがあんまり良くないですか?」

「いいえ、寝付けるんですが、最近途中で起きてしまって。」

不眠には2種類ある。寝付きが悪い入眠障害と、長時間睡眠がとれず夜中に起きて、その後眠れずに夜を過ごす中途覚醒だ。

彼女は後者だという。

どちらにしても入眠剤を使用し、改善が見られなければ別の入眠剤に切り替えるのを改善する迄繰り返すのが一般的だ。

相互作用に問題がありそうな併用薬もなく、このまま「布団に入る直前に飲んでね。」と言って渡せばおしまいである。

だから、俺がこう声を掛けたのは、本当に、ただなんとなくそう思ったからだ、薬学的な根拠の無いただの勘で、俺はこの患者にこの薬は効かないと思ったのだ。

「不眠に何か、心当たりはありますか?」

「夜中に何度もトイレに起きるんです。」

そしてその勘は的中した。それは入眠剤で解決するか?いや、するかもしれないけど。

「それは、先生にもそう言いました?」

「いえ、言ってないです。」

自分の症状を上手く伝えられない患者は、意外と多いそうだが、今回の件を「促されないと主張出来ない程度の頻尿」ととるか、「言えなかった主訴」ととるかは微妙なラインだ。

「うーん、この薬は睡眠に関する薬なので、夜中の頻尿は解決しないかも知れないですね。」

「そうなんですか。」

「はい、ですので、これで解決しない時は、是非泌尿器科を受診して下さい。」

今回は主訴の不眠を優先した。泌尿器科を受診して不眠の方でも手間は同じだし、循環器内科の先生に照会して泌尿器科の薬を出して貰うべきでもない。

「伊賀見先生じゃダメなんですか?」

「先生の専門は循環器ですし、泌尿器の事は泌尿器科専門の先生に診て貰って下さい。」

「先生は何でもよく勉強して、何でも分かると思ってました。」

医師は、特に内科医は全ての疾病に対応出来るという信仰もまた、多くの医師を苦しめていることだろう。

もし本当に医師が万能なら、診療科を看板に書く意味が無いということは、少し考えれば分かりそうなものだが、信仰の前にはそんな正論は無に帰すらしい。

「そりゃ勿論、お医者さんにも得手不得手がありますよ。餅は餅屋ですね。」

「でもねぇ、他の病院に行くのって、先生の気を悪くすると思って。」

権威や、あるいは金銭の為に紹介状を書き渋る医師が健全でなく、淘汰される対象であるという建前があることくらいは、そろそろ知っておいて欲しいところである。

「それは先生に直接聞いて下さい。泌尿器科に行くので紹介状を書いて下さいと言うべきか、それとも伊賀見先生は泌尿器科にも精通しておられるのか、先生に聞いてみましょう。すぐに伊賀見先生のところに行かれますか?」

戻るのであれば出来れば早急に戻って欲しいところだが、患者にも都合があろう。

「いえ、それはまた今度にします。」

多分そうなるだろうと思ったが、次に患者が姿を見せたのは翌月で、結局伊賀見医院から入眠剤に加えて過活動膀胱の治療薬が追加になった。

医師と患者のどちらの本意でそうなったのか、その経緯には言及しない。


程なく、板倉が調剤室に戻り、代わりに俺が休憩室に呼ばれた。


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