第二部「キャンサー・イン・ザ・ライ〜ライ麦畑の癌組織〜その4」
M&Aの公表から程無く、親会社からの新たな経営方針等の説明の為、各エリアのマネージャーと、弊社人事部長による店舗行脚が行われた。
主なトピックスは次の3点。
1:作業効率化という名の人件費削減。
2:勤続2年以上の正社員の登録販売者資格取得原則化。
3:1、2による人的リソース確保を基盤とした、登録販売者(正社員)の分散配置による出店数の増大及び一部店舗の営業時間延長。
であった。
「しかしこれらのトピックスに関しては、子会社化以前からの弊社の課題であり、長年形骸化していたものが親会社の手で活性化されるに過ぎず、本質的な経営方針には何ら変化がない」というのが、弊社の経営陣からの主な言い分となる。
そして予想通り、現場の首が締まっていく。
親会社からの出向としてエリア担当マネージャーが新たに配置され、それまでウチのマネージャーだった者たちの中に、店舗の一店長に格下げになる人事がいくつか通知された。
今回は幸いにも、薬剤師資格の保有者はじめ、調剤部門に関する具体的な人事通知はなかったが、それも「店舗展開の拡大」「効率重視の人事配置」とある以上、時間の問題だろう。
実際にどうなるかはさておき、現段階でこの説明に、調剤室にいる者から異を唱えられる事を、丹下マネージャーを含め、誰も予想だにしなかったのだが、その期待を裏切った奴がいた。
誰あろう、斉藤である。
彼女は人事部長と丹下マネージャーの前で登録販売者資格の取得を拒否、自分は登録販売者の資格が無くとも医療事務として優秀である事は明らかで、当然会社の決めた原則から外れて然るべきだと宣ったのだ。
「私はこの会社にとって薬剤師より価値がある。」
と薬剤師の資格を持つ上司に言ってのけたのは、おそらく後世に語り継がれる伝説になるだろう。
会社から改めて、交通費や受験費用が負担される旨の説明もあり、せめて受験の意志くらいポーズでも示せば良いものを、それすらも不遜な態度で拒否、丹下マネージャーの顔に盛大に泥を塗った結果、彼から
「登録販売者資格の取得の意志が無いのなら、退職を検討して頂いて結構です。」
という言葉まで引き出したのだ。
ここまでの増長を許した点に関しては、確かに丹下マネージャーに責任があったのかもしれないが、周囲からの評価は、概ね斉藤の自業自得である。
流石にそんな斉藤も焦りを覚えたのか、彼女なりの努力を開始した。
主に「他の登録販売者受験者同士の会話に参加する(自分でテキストは買わない)」「勤続2年以上のバイトに替え玉受験を打診する(特に報酬の話はしないし、受験料や交通費を出すとも言わない)」等である。
そして勿論、口を開けば、自分が合格出来ないのに福島がまともな手段で登録販売者の資格を取った筈がないと言い回ることも忘れなかった。
そんな涙ぐましい努力の結果、年に数回ある受験の機会を逃し、いよいよ後がなくなった頃に、事件は起きた。
「斎藤さん、ちょっと。」
佐々木と板倉が揃って斎藤を呼び出し、3人そろって20分ほど、仕事に穴を空けた。
幸い、今日はさほどの混雑はなかったが、調剤室にはどこか嫌な雰囲気が漂っていた。
先に戻ったのは、斎藤だった。
「お前のせいで何で私が言われなきゃいけない!」
斎藤は手近にあった書類の束を福島さんに投げつけた。
散乱する書類に、呆然とする福島さん。
「何事ですか?」
「うるさい!」
のっぴきならない雰囲気に、慌てて声を掛けた俺に一喝した。
「うるさいのはあなたでしょう!いい加減にしなさい!癇癪起こして、人に書類を投げつけて、恥ずかしくないんですか?」
「うるさい!私に説教するな!また裁判するかこの恩知らず!」
「示談金を散々ふんだくっておいて何が恩知らずだ!この豚野郎!」
混雑はないとはいえ、そこそこ人がいる。
調剤室内の音は比較的聞こえにくいが、防音ではないし、何人かの患者が中を覗き込んでくる。
「豚野郎はお前だ!」
しばらく無言で睨み合っていたが、先にバツが悪くなったのか、そう言い捨てて、斎藤はどこかへ消えた。
「マジで何なんですかあれ?」
俺と一緒に散らばった書類を拾いながら、松木が言う。
「わけが分からん。」
俺にはそれしか答えようがなかった。
「福島さん、大丈夫ですか?」
書類を拾っている間、目を伏せお腹を押さえたまま突っ立っていた福島さんに、声をかける。
「ええ、大丈夫です。」
そう答えた彼女はいつもよりいくらか表情の無いまま作業に戻った。
「あれ、何事?斎藤さんは?」
程なく、板倉が戻ってきた。現場の凍りついた空気が全く読めていない。
「一度戻って来ましたけど、福島さんに暴言と書類投げつけて、すぐにどっか行きました。」
「うわあ、最悪だな、福島さん、すいません。」
殊勝に謝るが、この男の謝罪はどうして後も心に響かないのだろう。共感的態度をとるのが下手すぎる。
「いえ、板倉先生が謝ることでは。こちらこそ、お騒がせしてすいません。」
福島さんは殊勝に謝る。板倉は格別にこういう騒ぎを嫌うので、一刻も早く「なかったこと」にしたいのだろう。それ以上は深く訊いてこなかった。
「斎藤さん、何があったんですか?」
どう考えても原因はさっきの「呼び出し」だろう、斎藤は何をそんなに憤慨したのか。
「いや、さっき本社にクレームが来たんです。」
クレームの内容は数日前、電話応対中の斎藤に、ドラッグストア側の客が声を掛けたのだという。
だがその時は、最近の人員削減を受けて、売り場には人がいなかったのだ。
「お客様いわく、その時斎藤さんが、手をひらひら振って追い払ったって言うんです。」
その後、客の存在に気がついた福島さんが対応したらしい。
いちいち店員の名札を見て名前を覚えてクレームを入れるとは、余程の事だ。
「で、斎藤さんはなんて?」
客が一方的な言いがかりを付けてくることはままあるため、こういう時は客の言うことだけを信じたりはしない、その点だけは褒められたものだ。
「追い払ったんじゃなくて、手で福島さんを呼ぶ合図をしたんですって。」
なるほど合点の行く話だが、ことこれが斎藤であれば、ただの言い訳である可能性も充分考えられる。
「それで、『そういう時は受話器を置くなりして、お客様に誤解の無いように対応して下さい』という注意をしたんですけど。」
それを「福島さんがフォローしなかった」から「お前のせい」と言って暴れたのか。
「そんな理不尽がありますか。」
誤解から生まれた不幸な事故を、決して自分だけで飲み込まず、八つ当たりで被害者を増やしたうえに、自分こそ被害者であると言い張る。なんとも斎藤らしいクズっぷりである。
「あの、斎藤さん、半休申請して帰ってしもたんですけど、いいんですか?」
佐々木さんがバツの悪い顔で言ってきた。
「理不尽クレーム一つでこの態度?」
これがまっとうな社会人だというのだから、始末が悪い。
「私も真似していいですか?」
待つ気が空を睨む。
「勘弁して下さい。」
板倉がヘラヘラと言う、こんなに「示しのつかない」話もないだろう。
なんと教育に悪い。
この件に納得したものは、誰もいなかったと思う。
恐ろしいことに、斎藤もそうだったらしい。
また別の日の早朝、開局準備中の薬局に、一通のファックス。
当店
における第一発見者は、俺。
書面は見慣れないフォントの文字が切り貼りされたものだった。
「○○店勤務ノ医療ジむ 福島さをり ハ 本名 福島功太 男性 だ。」
なんだこれは。
そして、今日のスターティングメンバーは俺ともう一人。
「何ですか?それ。」
福島さんだ。
少し寝ぼけていた頭が急速に回転を始める。
これはなんの冗談だ?
いや、それはいい。
そんなことよりこの状況をどうするか、こんなものをどうやって処理すれば良いのか。見せるべきか、隠すべきか、いずれにしても今この瞬間は、リアクションが不自然にならない時間で答えを出さなければ。
選択肢1:「何でもないですよ。」と隠す。
選択肢2:「怪文書ですよ!しかも標的は福島さん!」と興奮気味に言う。
選択肢3:「何かのお知らせみたいなのが来ていたので、捨てておきますね。」となるべく平然と言う。
・・・3だ!
意を決して振り向いた瞬間。
「すいません、ちょっと。」
ドラッグストア側の開店業務をしていたパートのおばちゃんが、おずおずと紙切れを1枚差し出してきた。
内容は、俺が今持っているものと同じである。
何故見せる、いや、隠すわけにもいかないが。
それを目にした福島さんは、ひったくるようにパートさんからそれを奪い取ると、ぐしゃりとそれを握りつぶした。
恥ずかしさと悔しさの混じった顔で、小刻みに震えるその姿を、俺は生涯忘れないだろう。
一体誰が、どうしてこんな酷いことを。
重たい沈黙、俺も福島さんも、ついでにパートのおばちゃんも体が動かない。
しかし、店内では他のスタッフが開店準備をしている一方、調剤室側には俺しかいない、手を止めてはいられないのだ。
「福島さん、ここは良いので、休憩室で座っていてください。」
そう言うと気を効かせたパートのおばちゃんが、手を引いて福島さんを休憩室に連れて行ってくれた。
飲み込む事の出来ないモヤモヤしたものを喉に支えさせながら、できる限り心を殺して、開局準備を再開する。
といっても機械類を立ち上げて釣り銭準備をし、あとは時間の許す限り調剤室と待合室の掃除くらいのものであるが。
同時に、現状で他に何をするべきかを考える。増員が来るのは約1時間後、その時間くらいまでは薬局が混雑することは希であるが、受付業務から調剤、投薬までを全て1人でやるとなると、流石に対応しきれないだろう。
せめて受付業務をやってくれる人がいないとちょっと厳しい。
そんなことを思いながら普段は事務さんに任せきりの待合室の掃除機がけをしていると、調剤室で電話が鳴った。
薬局据え付けの固定電話ではなく、普段板倉がエリアマネージャーとの連絡用に持っている携帯電話だ。
着信画面には「丹下 一舟」の文字。
これは俺にとって、ある意味解決を意味していた。
流石だな、と独り言を言って、電話に出る。
「おはようございます、唐柴です。」
「よう、蓮ちゃん元気?」
体育会系の張り気味の声で、立場に似合わない親しげな挨拶。
そんな彼はうちの店舗があるエリア一帯を取り仕切るエリアマネージャーだ。
中規模ドラッグストアチェーンである弊社には5つのエリアがあり、5人のマネージャーがいるが、薬剤師免許を保有しているのは彼だけである。
ちなみに他の4名には、各エリアの管理薬剤師の中から1名が選出されて、調剤部門の管理補佐をしている。
この補佐役、スーパーバイザーという名ばかりの役職に、雀の涙程度の手当てが付いて、エリアマネージャーからの無茶な要求と、複数の調剤室からの雑務を押し付けられるため、曰く「最強の貧乏クジ」と評される役職であるが「丹下先生がいてうちのエリアだけスーパーバイザーがいらないから、出世の枠が少ない」と嘆く者もいる。
そんな奴は板倉だけであるが。
「まぁ、なんとかやってます。てかこの状況で元気って答えるの不謹慎過ぎません?」
要件は判りきっているので、確認は割愛するが、彼にはこれで「ファックスの件を俺が把握していること」と「その内容や対応に答弁を求めていないこと」は伝わる。
丹下マネージャーは、その声に似合ったスキンヘッドの大男であるが、おまけに頭の回転が恐ろしく速いのだ。
「ははは、まぁ、それもそうだ。」
「とりあえず福島さんはヤバそうなので、休憩室に引っ込んでもらってます。なので増援がないと朝の業務がヤバいです。」
報告と要求は簡潔に。この人に相対しては、どうすべきかを考えるのは俺の仕事ではない。
そう思える程度には、俺は彼の能力を信頼し、敬意を持っている。
「そうか、福島はもう出勤してるのか。」
うーん、と言い淀む。
「とりあえず板倉には早く出てもらうように連絡した。その店はどうせ朝イチは大丈夫だろうけど、ダメでも板倉が来るまでなんとか堪えてくれ。」
「了解です。何とかします。他には何か指示ありますか?」
まぁ、おおよそ見当はつくが。
「まずは、動揺しないで、普段通りの業務ができるように心掛けてくれれば良い。一人のうちは特にな。」
ようするに、落ち着いて、変に騒がず余計なことはするなと。
「本当は俺もすぐそっち行きたいんだけど、昼過ぎ迄は他店舗の応援で動けないし、調剤部長をはじめ、店舗運営部のお偉方がまだ捕まってないから、何にどう対応するか全く決まってない。場合によっては何人かに事情を聴くかもしれんが、何とも言えん。」
つまり、自分が行くまでに誰かに何か聞かれたら、そう答えろということらしい。
「届いたファックスの現物持ってるんですけど、これどうしたら良いですか?」
「それは今日中に回収するから、とりあえず板倉が出勤したら渡してくれ。」
「了解しました。」
「じゃあ、申し訳ないけどよろしく頼む。あ、電話できそうな状態なら、福島に代わってくれ。」
「はい、ちょっとお待ちください。」
そう言って小走りで休憩室に向かう。
中には泣き腫らしてやや呆然とした福島さんと、それに付いているパートのおばちゃんがいた。
「丹下マネージャーからのお電話です。」
そういうとパートのおばちゃんが電話を受け取り、状況を訴えはじめた。
どうやらドラッグストア側の佐々木店長もまだ捕まらないらしい。そういう意味では、板倉にはよく連絡がついたものだ。
業務開始まであまり時間がないので、電話ごとパートのおばちゃんに任せて、自分の仕事に戻る。
残念ながら今の俺には、かける言葉は見つけられないし、他に出来ることもない。
しかし、意気込んで1人で調剤室の留守を預かったは良いものの、結局板倉が到着するまでの間はおろか、斎藤と松木が出勤してくるまで、患者は一人も来なかった。
開局業務があるうちは目の前に無心でやることがあったため、それに集中するだけで良かったのだが、それも終わって一人で患者を待つだけの状態になると、肩透かしにあった虚無感に負けて福島さんのことや怪文書のことを考えてしまい、溜まった書類仕事にも手をつける気にもなれず、結果的には俺も殆ど呆然としていた。
心の整理が着かず思考停止していたので、患者の迷惑にならなかったことは幸いだったが、目の前に没頭すべき仕事がないのは、手持ち無沙汰で辛かった。
丹下マネージャーからの電話を受けたときの、自分でも判る冷静さが嘘のように、何かを考えようにも、考えはまとまらず、感情も複雑に絡み合って、表に浮上してこない。
先に来た板倉と何か話した気もするが、よく覚えていない。
結局、後続の二人も殆ど間を置かずに出勤してきたので、そのまま4人で状況を確認した後、すぐに患者が来て、なし崩しに業務が始まる形になった。
福島さんはというと、どうやら丹下マネージャーから、とにかく自分が行くまで待機しているようにと言われたらしく。休憩室から出てくることはなかった。
後続の斎藤と松木にも朝の状況は徐々に詳しく伝わっていったのだが、それを踏まえた上で尚、
「同じ給料で働いてるのに、何であいつは何もしてないの!」
という斎藤と、徐々に状況が分かるにつれて
「その、何というか、すいません、沢山のことが一度に来ててうまく受け止められないです。」
という松木の真逆のリアクションであった。
板倉はと言えば。
「とにかく、気にしないでいつも通り仕事をしてもらえば大丈夫です、安心して下さい。」
ああ、そう言えと丹下マネージャーに言われたんだろうなぁ。何をどう安心しろというのか。
板倉の言葉は本心だろう、確信をもってそう思う。
だが、同時にどうしようもなく無関心が伝わる。
確かにその方が合理的であるし、実際現場の俺達には、福島さんの抜けた穴を埋める事以外に何も求められていない。
それを簡単にやってのける板倉と、結果的に自分の感情を抑えて、仕事に腐心するよう自分を追い込むプロセスを必要とする俺や松木とでは、職務遂行能力が決定的に違うと言えるのだろう。
こういう点で、板倉は本当に強い。
何故か尊敬する気にはならないが。
また、俺と松木のリアクションにも、明確に差がある。
彼女は困惑と憤り、その両方を抱えているが、俺が持っているのは憤りの感情のみだ。
俺は福島さをりが福島功太であることを、怪文書の内容が真実であることを知っていた。
故にその情報1つ分は、現状俺がこの調剤室の誰より、冷静であるべきなのかもしれない。
しかし、その事実をもって彼女を辱しめるという理不尽への憤りは、不純物を含むことなく頭を巡り膨らんでいく。
何故こんなことが行われたのか、正義感と責任感をもって、日々真面目に医療事務の仕事に勤める彼女は、何故こんな目にあわなければならなかったのか。
繰り返し頭の中でその疑問が反響する。
「唐柴先生、これ数間違ってましたよ。」
「あ、すいません。」
いや、冷静じゃないせいです、マジで。
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