第二部「キャンサー・イン・ザ・ライ〜ライ麦畑の癌組織〜その3」
「お待たせしました、薬剤師の唐柴です。」
服薬指導用のカウンターが埋まっているわけではないが、座っている患者のところに直接赴く。
悪足掻きだが、患者の意に沿わない話をすると分かっている時には、なるべく患者にリラックス出来る体勢をとってもらう。幸い、この人と、板倉が応対している患者以外には、他には患者はいない。
「はいはい、どうも」
飄々とした印象の男性である、70才としては若々しい部類だ。
「インフルエンザじゃないって伺ってるんですけど。」
「うん、今は違うけど、インフルエンザになったら飲もうと思って。」
この時点で処方箋を破り捨てて追い返したいところだが、踏み止まる。まだ彼の改心を諦めるのは早い。
「いやいや、検査もせずに自分でインフルエンザってわからないでしょ。」
「熱が38度いくらか越えたらインフルエンザなんじゃないの?」
「熱が38度以上出る病気なんてたくさんあるし、この薬はインフルエンザにしか効きませんよ?」
「ええっ?そうなの?なんかテレビで良い薬が出たってやってたから、貰ってみようと思って、行きつけのお医者に出してもらったんだけど。」
医療用医薬品は一般にテレビでコマーシャルされることはない。理由は単純、こういうバカが医師のもとに殺到するからだ。
彼らには「医師は自分の診断に応じて、治療に必要と思われる薬を処方するものであり、適応しない薬は出さないし、そこに患者が欲しているかどうかは関係がない」という概念が無い。
そして、少し想像力があれば分かることだが、税金で賄われる医療において「医師に欲しいと言えば、根拠を持たずに何でも手に入る」という感覚がいかに不健全であるかを理解していない。
処方する医師も問題であるが、「自分は医師と親密な関係にあるので、欲しいと言えばどんな薬でも処方してもらえる」という倫理観を平然と持つ患者は、一定数存在する。
まぁ、医師との関係を自慢気に強調して横柄な態度をとる患者も少なくないので(実際は通院歴が長いだけで、相手にされていない老人の場合が多い)、この患者はまだマシな方だ。
「テレビで良いって言ってても、それが自分に当てはまるとは限らないですよ。」
さて、「テレビでやっていた」という件の新薬だが、媒体は「朝の報道番組のインフルエンザ特集」である。インフルエンザの予防法を紹介する内容の最後に、新薬が開発された旨と効果や特徴が報道されたのだ。
誤解の無いように触れておくが、この新薬は確かに、画期的かつ有効な「良い薬」だ。
インフルエンザ治療薬の肝は「単回」か「5日間継続」かと、「内服」か「吸入」かである。
現在までの選択肢は「五日間の内服」「五日間の吸入」「単回吸入」の3つであった。
五日間継続の2つは、途中でやめてしまうケースが圧倒的に多く、単回吸入は、特に小児において失敗率が高い(体感では8才以下の失敗率が特に高い、吸えと言っているのに、練習ではちゃんと吸えているのに、薬を吹き出す子供のなんと多いことか。)という問題を抱えている。
しかし、小此木の新薬は「単回服用」、1回2錠をその場で飲めば治療は終了、あとは熱が下がるのを待つだけ。この簡便さは画期的であるし、小此木は声を大にしてこの発明を誇るべきだ。
だから、報道の内容を間違っているとは思わない。
「いやでも折角貰ったし、予備にもっておくよ。」
ただ、お陰でこの手のバカの相手をさせられる現場の薬剤師がいることは、どうか製薬企業にもご配慮頂きたい。
「ですから、これは予備する薬ではありません。予防にもなりませんからね。」
「なんで?」
「今までのインフルエンザの薬は、ウィルスが自滅するまで封じ込める薬だったので、ある程度予防にも使えましたが、この新しい薬はウィルスを直接殺す薬なので、殺す相手がいないと効果がありません。テレビで言ってませんでしたか?」
あまり正確ではないが、ざっくり説明するなら、この理解で充分だ。
「そんなの覚えてないよ。」
そうですか。
呆れてものが言えず、思わず暫しの沈黙を作ってしまう、さて、なんと言ったものか。
「ええ、じゃあどうすれば良いの?」
沈黙を破っていただけて大変ありがたいが、それを俺達に聞いてどうするというのか。
「できればこんなデタラメな薬を持って帰って頂きたくはありませんが、どうしてもと仰るなら、次にインフルエンザだと思った時に、その行きつけの先生のところに持って行って、先生の目の前で飲んでください。」
「忘れそうだわ。」
なら、そもそも「予備」が欲しいって言うんじゃねぇよ。
「処方せんを見なかった事にしてこちらで処分する事も出来ますし、判断はお任せします。」
ここまでのやり取りで、伝えるべき事は伝えた。あとは本人のモラルを問う事しか出来ない。
「いや、貰って帰るよ。」
駄目だったか。仕方なく会計を伝えて、座ったままで精算していただく。
「ごめんね。」
そう言って患者は帰っていく、おそらく、俺に世話を掛けた事を詫びたのだろうが、あんたが謝るべきは、税金の無駄遣いだよ。
「調剤拒否でも良かったんじゃありませんか?」
とは、福島さんの言だ。
「急性疾患の薬をその場で渡さないで、患者さんをたらい回しにしたら、ほぼ確実に悪化するでしょ。嘘だと分かってても、万が一本当だったら困るし、その判断は医師にしか許されていない。」
ピシャリと言い放つようにする、福島さんの正義感は大きく買うが、自分の職能を逸脱する傾向は頂けない。決して空腹で機嫌が悪いせいではないのだ。
書類を片付けて休憩室に戻ろうとすると、また次が来た。
「おい!誰か!」
さっきの人と変わらない年頃の、大柄な男性である。
声がデカい、怖い。然るに、松木に任せるのは気が引ける。
「どうしましたか?」
結局俺が応対する。板倉は何故か突然調剤室から消えていた。
「この薬なんやけどな!」
そう言って彼はお薬手帳を差し出してきた。関西弁が更に威圧感を助長する。
「この通り薬売ってくれや!」
「処方せんはお持ちですか?」
「せやから、それが無いねん。今度からずっとここで薬買うたるし、多少高くなってもエエから薬売ってくれや。」
こちらを理不尽に睨み付け、大きな声でわめく。
最早患者とも呼べない代物だった。
当たり前だが、処方箋が必要な医薬品を一般に販売するのは違法であり、彼の行為は立派な犯罪教唆だが、恐らく無知で悪意はないので、それは言わないことにする。
「この中にあるお薬は、処方箋がないと何があっても外には出せないです。お金の問題じゃありません。」
調剤室を指差して、こちらも負けじと声を張る、気迫で負けたら長引くだろうという、確信に近い予感があった。
「なにも根拠無く薬くれって言うてる訳やない、薬手帳見てくれたらええ!」
やはり大声を出せば無理が通ると思っているのか、同じことを大きな声で繰り返す。
ページを開いてバシバシと指差す。案の定だが、血糖降下剤やら、血圧の薬等、市販に無いうえに定期的な検査を必要とする薬ばかりが記載されている。
口ぶりから、この薬局で薬を渡したことはなさそうだ、恐らくも元々行きつけていた薬局で断られて、流れてきたのだろう。どこで同じことをしても、門前払いに決まっているが。
「ですから!そういう問題ではありません!そこにかいてある薬が欲しければ、病院に行ってください!」
確かにこの人は横柄で短慮であるが、本質的な問題はそこではない。
「病院なんか行っても、長いこと待たされて同じ薬が出るだけや!それやったら最初っからここでくれやって言うてんねん!」
現代の医療制度というものが理解出来ていない事もそうだが、まずもってこの人は自分が何の為に薬を飲んでおり、何故医師のもとを訪れているのかを理解していない。
『血圧の薬と血糖の薬を飲んでいる』事は理解しているのだろう、ただ、「定期的に医師の診察を受け、血圧の推移や血糖の基準値(HbA1c値)を確認し、それに応じた処方を受ける」必要があることを理解していない。
また、数年単位で状態と処方内容が変わっていないのだとしても「内服によって数値が固定化されているのであり、決して自身の状態が改善しているわけではない」ということが理解出来ていない。
数年この状態であるならば、彼の治療の状態は「安定」ではなく、「停滞」だ。
生活習慣病であるならば、血圧のコントロールも、血糖値のコントロールも、治療のゴールは「内服で基準値に納める」事ではなく、内服せずに基準値に納める事であるし、先天的、あるいは遺伝的疾患でのコントロール不良であれば、尚のこと精密な定期診断が、生命の確保に直結する。
つまりいずれにしても医師の判断が必須であるのだが、具体的な症状がないせいか、この人はその理解に乏しい。
長い年月その「停滞」を受け入れた事で、医療を受けることにも、薬を飲むことにも慣れ過ぎてしまっているのだ。
もちろん自分の血圧や、血糖の状態も把握していないし、自分の努力と医師との相談によって薬を減らしたいとも思っていない。
最後に彼が医師に「いつもと変わりない」以外のことを伝えたのは、いったいいつなのだろうか。
「あかんのか!」
大声で叫ぶ。少し早めの認知症だと決め付けるのは簡単だが、彼をこのような、客観的に誰が見ても異常な行動に駆り立てたのは誰か、考える必要がある。
彼が自分の状態を理解しておらず、「何」が「何故」必要なのかを理解できていないのは何故か。
『患者に自分の状態と、必要な治療およびその方法を説明し、理解させ、治療を選択させる』事を「インフォームドコンセント」という。あらゆる医療従事者が、現場に出る際最初にならう医療の基本的な行動原理である。
これは単に、診療した医師と、服薬指導した薬剤師が、インフォームドコンセントを尽くしていない事の証明である。
あるいは、かつてはそうしたのかもしれないし、どれだけ説明を尽くしても、彼がそれを理解しなかったのかもしれない。
ただ彼は現実の問題として、確実にそれらの理解を失っている。
「あかんです!」
変な関西弁が出てしまったが、相手と同じ声量で言い返す。
残念ながら、彼に欠けている理解をイチから説明するのは、ここに至るまで薬を渡していた薬剤師の仕事であって、俺の仕事ではない。
そもそも俺は今、休憩時間中ではなかったか。
流石に論外だと気が付いたのか、患者は少し口ごもった後
「どこでも一緒か?」
と、いくらか落ち着いた声になった。それでもこちらを睨むのは止めない。
「それをやってる薬局があるなら、通報したら潰れますね。」
こちらも負けじと、真っ直ぐに相手を睨み返す。
「そうか。」
男性はそれだけ言って、それだけ言って詫びも言わずに帰っていく。
俺はため息をついて、手近な椅子に座り込んだ。
「お疲れ様です。」
松木だった。
「何、今日。厄日?」
「ふふ、何だか野生の熊を追い返してる人みたいでした。」
松木は笑っているが、実際笑い事ではない。
「威嚇で道理を曲げようなんて、確かに動物と変わらんけどな。こういう人はレアだけど、暴力に発展する可能性もあるから、松木先生は、こういうのが来たら大人しく男性に任せて下さい。」
「私は自力で応対しろと?」
「福島さんは余裕でしょうよ。」
めちゃくちゃ睨まれた。さっきの患者より福島さんの方が怖い。
「嘘です、ちゃんと呼んでください。」
「いいです、自分で対処します。」
へそを曲げられてしまった。
「全く、俺日頃の行い悪いのかなぁ。」
「まぁ、確かに悪いですけどね。」
松木が意味深げにニヤけてこちらを見やる。
そして福島さんが、「何事か!?」と、先程より怖い顔をこちらに向けようとするのがわかったので、俺はそそくさと休憩室に戻った。
日頃の行い、悪いか、やっぱり。
休憩室に戻ると、俺と調剤室を放置して消えていた板倉が電話をしていた。
「何をしてらっしゃるんですかね?」
苛立っていたので、電話を切るのを待って、板倉に皮肉のひとつも言ってやろうと声を掛けたが、当人は神妙な顔だった。
「唐柴先生、大変です。」
「何かあったんですか?」
流石に険しい雰囲気だったので、俺もつられて真顔になる。
「M&Aです。弊社は子会社化して、経営本体が変わるそうです。」
「うわー、遂に来ましたか。」
元々俺の入社した3年前から、噂はあったが、どうやら現実のものとなったらしい。
確かに驚くべき事だし、従業員への説明も必要だろうから、彼は本当に重要な案件で席を外したのだ。これならば仕方がない。
ただ、空腹が限界であるため、自席に戻って、食事をしながら詳しい話を聞くとしよう。
「げ。」
そこには、冷めて脂が浮いたうえに、限界までスープを吸って伸びた、かつてラーメンだったものが鎮座していた。
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