第二部「キャンサー・イン・ザ・ライ〜ライ麦畑の癌組織〜その1」

電話が鳴った。時刻は12時30分、運悪く電話の一番近くにいたのは、休憩に入る直前の俺だ。松木は先に休憩中だし、板倉は患者応対中である。

「もしもし、伊賀見です。」

門前の医院の先生だ。

「お、お疲れ様です。何かございましたか?」

午前の診療終了直後の電話、良い予感はしない。何を隠そう、俺は偉い人と話をするのが苦手なのである。

「さっき疑義照会の電話くれたの、君かい?」

「はい、そうです。」

ちなみに、さっきの疑義照会の内容はモンテルカスト錠10mgが子供の飲む量じゃないので、5mgの錠剤にして下さいというものだった。

モンテルカストは気管支拡張剤、7日分の風邪薬の一部だった。

「これって何が問題なの?」

恐ろしい質問だ、と言いたいところだが、他科の医師に小児を診せると、意外とこういう先生がいる。伊賀見先生は町医者で何でも診るが、本来の専門は循環器内科だし、当然得手不得手がある。

「一応、4mgの顆粒が6才以下の子供、6才以上の子供が5mgの錠剤、成人から10mgですね。」

「普段体の大きい子とか10mg飲んでもらってるけど、ダメなの?」

言いたいことは解る、でも先生、経験則も大事だけど、取り敢えずガイドラインに沿ってくれ。

患者は12才女子、身長150cm、体重42kg、体格だけなら立派な大人だった、女性の身体的成長は早い。

「体格的には10mgでも特に問題ないでしょう、肝機能がどうとか言われてますけど眉唾だと思いますし。けど、10mgは小児に適応がないので、多分レセプトで弾かれて保険が降りないので、病院が損しますね。」

「ああ、それでか。モンテルカスト時々返戻で返ってくるから、何でかなって思ってたんだ。あれ結構高いよね。」

国民健康保険(や社会保険等)が効かない場合、病院は患者の自己負担以外に報酬を得る事はできない。

正解には「こちらの都合で診療の一部に保険の適応でないものがあったので、差額を支払ってください」と言えば、残りを支払って貰うことも出来るのかもしれないが、落ち度が病院側にあるため、臆面もなくそんな要求をする恥知らずな病院は無いし、あったとしても早晩、廃業することになる。

故にこういった場合は、殆どの場合病院の持ち出し、この地域は先の知事選の公約通り、小児の医療費自己負担は15才まで0なので、丸損である。

「ところで、小児って何歳まで?」

マジかよ先生。

「一応15才から成人量が使えるので、それまでが目安です。」

レアケースだが、極端な話、15才の誕生日の前日に受診する小児もいる。体格的には成人量だが、戸籍上小児にあたる場面で、年齢によって線を引く事と、体格で線を引く事の、どちらが正解かは意見の別れるところだろう。

実際、ほぼ同じ条件でも弾かれる時とそうでない時がある。

「やっぱりそうだよねぇ、参考になったよ、ありがとう、お疲れ様でした。」

「いえいえ、お疲れ様でした。」

向こうが電話を切った後、こちらもゆっくりと受話器を置く。


「うへええ、緊張したぁ。」

「そんなに緊張しなくても。伊賀見先生は優しいですよ。」

患者応対終えた板倉に、簡単に電話の内容を報告するとそういうリアクションが返ってきた。

「そういう問題ではないですよ。」

板倉は軽く捉えているが、忙しい医師がわざわざ電話を寄越すのには相応の理由があると思うべきだ。

しょうもない確認事項でも、時間を割いただけの付加価値を与えられなければ、明日の信用は得られない。

「さて、では改めて休憩いただきますね。」

そう言って調剤室を出たら、カウンターでミノキシジル外用液の空箱を持った男性が立っていた。

「これってあれか?何とかいう刑事が宣伝してるやつか?」

箱でコンコンとカウンターを叩きながら威圧的に話す、態度が悪い客だ。

確かにこの鷹のマークのお薬は、長寿番組の刑事ドラマで長らく主演を勤める俳優さんがコマーシャルに起用されているが、別に刑事さんが宣伝しているわけではない。

「ええ、そうですよ。」

笑顔で応対、板倉が出てこようとしたが、手で制して続ける。

「はじめてお使いですか?」

「おう、初めて使う。こういうのって本当に効くのか?」

「一応、発毛に効果があるという宣伝が許されてるのは、この成分だけですね、効果の有無を判断するまでに半年は使ってくれというのが、メーカーの主張でもあります。」

「クーポン持ってるけど、いくらになる?」

そう言って差し出されたクーポンを見ながら、レジに本体価格と割引率を打ち込む。

「ちょうど6千円ですね。」

「高いな、効かなかったらおたく、どうしてくれるの?」

こちらを試すような顔で、そんな事をきいてくる。

どんな薬を買うときにでも、こういう人はいるが、こいつは間違いなく「無効だったら金を返す」という言質を欲しがっているのだろう。

「そういうことはメーカーさんにお問い合わせください。」

どんなに頭の悪い薬剤師でも「うちの責任です。」とは言わないだろうが、「使ってみないとわかりませんから」「体質次第なので」と答えるバカはそれなりにいそうである。

この客と、バカな薬剤師に共通する点はPL法(製造物責任法)を知らない事だ。

詳しくは省くが、使用期限の切れた物でも売らない限り、薬が効かない場合の責任は、販売者ではなく製造業者にある。

「無責任だな。」

案の定「お金返します」という返事を期待していたらしいその男性は、少しムッとしたようだった。

「はい、僕らに責任無いんですよ。」

キッパリ言う。残念ながら事実だ。

「効かなかったらお金返しますとか、そういうのないの?」

ほらやっぱり。

「ですから、それをやるのも作ってる会社であって、売ってる我々ではないんです。」

「でも、肌にあわなくて使えなかったら金返してくれるんだろ?」

「その場合は、皮膚科に行って医師の診断書をお持ちいただき、メーカーだけでなく医薬品医療機器統合機構というところに届け出をして下さい。お手伝いはしますが、基本的にはご自身で行って頂くものになります。」

取り敢えずの返金だけは受け付けるドラッグストアもあるそうだが、残念ながら弊社は違う。なんでも、過去にそんな感じの詐欺で痛い目を見ているらしい。

「勝手に使うのをやめて勝手に治ったときはどうするんだ?」

「商品の返金も含めて補償が一切受けられない可能性がありますので、何があっても受診する事をお勧めします。」

「めんどくさ。」

知ったことではない。が、口には出さない。

「そうですねぇ。でも、この世に存在する薬は全部そうです。ちなみに、失礼ですけど、今おいくつですか?」

「何でそんな事を聞くんだ?」

男性はますますムッとしているが、顔に出さないだけで、俺も相当ムッとしている。

空腹の俺にその態度で、ただで済むと思うなよ。

「その箱にも書いてありますけど、これ、65才以上の方への使用は推奨されてませんし、勿論効果が保証されてないからです。」

「何で?」

「壮年期の脱毛における効果があるという謳い文句なので、65才以上は対象外なんです。」

65才以上は医学的には高齢者です。と言うのは流石に控える。どのみち近い年齢だろうからな。

「年齢は大丈夫だよ、見たら分かるだろう。」

「ここまでのお話聞いていただいたら解ると思うんですけど、見た目がお若いかどうかでこの質問するかどうか決める訳がないじゃないですか、そういう責任はあるもので。」

後で「態度が悪かった」という言い掛かりを防ぐために、営業スマイルを崩さず、キッパリ言うのがコツだ。

俺は謝らないが、このレベルの正論を、謝罪を期待していた頭で聞いたら、流石にぐうの音も出ないのか、言い返してこない。

「ふん、足元見やがって。」

「そう思われるなら、お買い上げされなくても結構ですが、どうされますか?」

ここまで5分以上、俺の足を止めたのだから、購入して欲しいところだが、この手合いは「自分の意思で買った」という言質を取らないと後から難癖をつけてくる可能性がある。

背に腹は代えられない。

「いや、買う。」

良かった、これならきっと撤回しない。

「1日2回、朝夕を目安に、患部を清潔に保って使ってください。」

商品の図にある、本剤が有効な脱毛の状態と彼の毛髪の状態は、パッと見た目によく似ているので、まぁ、期待くらいはできるだろう。

「1日2回も使うのか?1本で何日保つんだ?」

「1回1~2ml使うとして、だいたい1ヶ月くらいですかね。」

「その割引券2点までだろ?2本にするか、どうすればいい?」

知らねぇよ、そろそろいい加減にして欲しい。

「肌に合わない可能性を自分で仰っていましたけど、2本買われるんですか?」

客は一瞬考えた後

「いいよ、2本買う。」

俺のアドバイスの甲斐なく、そう答えた。愚かだと思うが、自己責任だ、仕方がない。しめしめ。

「では、1万2千円です。」

商品を受け取って、客は帰っていく。これだけの時間捕まえておいて礼も言わない礼儀知らずにも、平等に薬効は得られる。効くと良いですね。

「腹減ったな。」

休憩室に向かう。

「すいませ~ん。」

休憩室に辿り着く前に、目薬のコーナーの前に立つ女性に呼び止められた。白衣を脱げば良かったなと、内心で後悔する。

「はーい。どうされました?」

腹が減ったよ、本当に。

「旦那の目薬欲しいんですけど、どれが良いのか。」

このお客さんは30代前半くらいの女性だが、本人がいるわけではないので、それはあまり関係無いか。

「どんな症状ですか?」

「両目が真っ赤で、毎年この時期はいつもそう。」

薬剤師は診断できないが、順当に考えて季節性のアレルギーだろう。

「病院で定期薬もらってますか?」

「貰ってないです。」

症状が軽いなら、眼科やアレルギー外来に行くより手軽だから、このお客さんの選択は正しい。昼飯が遠退こうが、これは俺達の領分である。ちゃんと相手をするべきだ。

腹をくくって商品を選ぶ。こういう症状の為の物なら、幸い選択肢は多くない。

「ちょっと高いけど医療用と同じ成分の抗アレルギー剤と、安いけどピント調節とか、今の症状と関係無い成分を含んでるやつとどっちが良いですか?」

「えー、うーん、どっちがいいんですか?」

誰か代わってくれないかなぁ。

「長く使う事になりそうなら、安い方が良いし、効かなかったら高い方にするか、眼科に行くのが良いんじゃないですかね。」

そう言って選んだ目薬を渡す。

「こっちはダメなんですか?」

ところが、お客さんは同じ薬の色違いの箱を指差した、うーん、気になりますか、そうですか。

「そっちはメントール入りです。差した時に清涼感がある方が好きな人のための商品ですけど、目が赤い人に刺激のあるものは、薬剤師としてはお勧めしません。」

「へー、そうなんですか、分かりました。じゃあこれにします。」

「はい、お大事に」

よ、ようやく解放された。

「あ、効かなかったらどうするんでしたっけ?」

「原因がアレルギーじゃない可能性があるので、眼科に行って下さい。」

日頃の行いが悪いのか、空腹な時に限ってよく患者やお客さんに捕まる気がする。

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