閑話休題「カフェイン中毒」

何年生きても、初めて女性の部屋に上がる時の緊張感と高揚感は変わることがない。

20代の健康な成人男性なればこそ、当然ではあるが。

「すいません、ちょっと散らかってますけど。」

「いや、良いんだけど。」

人様の住処をあんまりじろじろ見るものでは無いが、玄関を入ってすぐにキッチン、反対側に風呂とトイレがあり、その先に、俺が今いるリビング、奥は寝室か。

寝室の扉は固く閉じられているので、そこから先は預かり知れない。

リビングにはあまり物がないが、入室前に3分外で待たされたので、おそらくまとめて寝室に放り込まれたのだろう。雑誌1冊無い。

何となくソワソワフガフガしていたが、間が保たない。

「どうぞ。」

そうこうするうちにマグカップに入ったコーヒーがきた。

「ありがとう。」

「粗茶、っていうかインスタントですが。」

「お構い無く。そっちは紅茶?」

向かいに座った松木の前には、可愛らしい真っ白なカップに、ティースプーンとソーサー、ポットの横には、エッフェル塔を象ったブランデーの小瓶まである。

「はい、最近ブランデー入れるのにハマってるんです。」

そう言うと彼女は目分量で紅茶にブランデーを垂らす。

「へー、おしゃれだね。」

「あげませんよ?」

「わかってるよ。」

残念、とりあえず手元にあるものを一口啜る。

あ、これデカフェだ。


「すいません、今それしかなくて。」

顔に出たのか、謝られてしまった。文句を言うつもりは無いが、少し困った。俺はデカフェのコーヒーを飲むと頭痛がするのだ。

「唐柴先生、カフェイン中毒ですよね。結構重症じゃないですか?」

カフェインは過剰摂取による症状と同じような症状が、離脱、つまり「切れてきた」時にも起こる。

症状は主に頭痛やふらつき等である。

ちなみに、俺は体質的に離脱症状が起こりやすいらしい。

デカフェのコーヒーを飲むと、摂取したつもりのカフェインが入らないので、脳が騙されて一時的に離脱時と同じ症状が起こるのだ。

「ああ、国家試験の勉強するのにコーヒー漬けになって、そのまま習慣化してるんだけど、最近自分でも量が増えてる気がしててさぁ。」

「休憩室でもいつも飲んでるイメージです。しかもわざわざドリップのやつ。」

休憩室の茶棚には、各自自由に好きなものを置いているのだが、福利厚生で置いてあるインスタントを無視してドリップをわざわざ置いて飲むのは俺だけだ。

「ついでに言えば、最近はエナジードリンク併用してるしな。こないだ休みの日にコーヒー切らして、1日頭痛が止まらなかった。」

概算だが、離脱症状は毎日2本以上大きい方の缶で翼を授かると、高確率で発生するようになる。致死量は諸説あるため割愛。

「大変じゃないですか。」

「いやぁ、コンビニのコーヒーがドリップになって本当に良かった。」

「えー、そういう話ですか?」

「そう、大丈夫だよ、コーヒーさえ飲んでればね。」

「もう。しばらくコーヒー漸減してくださいね?」

漸減とは「徐々に減らす」という意味だ。流石にプロはやめろとは言わないか。

「お、じゃあ離脱症状で動けない俺の代わりに、あの店で起こるトラブル全部解消してくれるんだね。」

「ふふ、そんなの無理に決まってるじゃないですか。」

「いやぁ、板倉がいればなんとかなるよ。あれはあれで意外に頼りになる、というか問題を保留したままに出来るのもある意味才能だし、その問題に自分が巻き込まれないようにする能力もある。学ぶところはそれなりにあるぜ。」

実際に板倉は、自分では斉藤のトラップに引っ掛からない。それが斉藤という大きな問題に着手しない要因の一つになっているのかもしれないが。

「まあ、管理薬剤師なら、自分がミスるかどうかに関わらず、全体のミスを減らす方法を模索しなくちゃいけないんだけどな。」

俺は笑って言ったのだが、そう言うと松木はいくらか真面目な顔になってしまった。手元のカップの中身を飲み干して、同じものをもう1度作る。

「何で唐柴先生がやらないんですか?」

引っ張られて俺も、やや神妙な顔になる。

「そういうの部下がしゃしゃり出るって、上司からすると結構目障りなもんだよ。一応気を使って、なるべく越権行為は避けるようにしてるつもりなんだ、例外はあるけど。」


例外。そうだな、たとえば慣れない鑑査をしている後輩に、耳元で「早く早く」

と大声で連呼するクソ以下の非常識な医療事務に出会った場合だろうか。

そんな場合にはその医療事務を後輩から引き剥がし

「じゃあお前がやれよ!出来ないだろ!?お前資格無いんだからな!無責任に急かしてんじゃねえよ!」

と叫んで

「そもそもお前が注意しろ!」

と管理薬剤師にまで食って掛かるような事が起こるかもしれない。

そしてその後に、管理薬剤師に立つ瀬の無い思いをさせたことに思い至って自己嫌悪に陥るのだ。可愛い後輩の前で不必要に格好を付けて、必要以上に上司を貶めたのだと。


「でも、見てる人は見てますよ?」

言われるまでもない、俺は自分が間違っているとは思わないし、一定の評価をくれる人がいることも知っている。と言いたいところだが、実際ミスが多い俺の言い分に、信頼感が伴わない事は百も承知である。

「まぁでも、多分上司である板倉は俺を一人前とは評価してないと思う。俺も板倉は三流だと思ってるけどね。でも、板倉は板倉で、会社の意向に沿うように努力して、今の位置にいるし、更に上を目指してる。相応に敬意を払うべきなんだよなぁ。難しいけど。」

「計数過誤とか、ミスで評価が下がるっていう話なら、板倉先生だってミスしますよ?この間、前回と同じ内容だからって服薬指導回してきたのに、お薬1つ追加になってたんですよ。患者さんと話噛み合わなくて、ちょっと困りました。」

「ああ、それちょこちょこあるよね。だからあの人の引き継ぎは基本信用してない。」

舌の根も乾かないうちに上司の悪口を言ううちは、自分が出世する事は無いだろうな。

「けど、残念ながらこの会社は、錠剤の数を間違える事や、医薬品の高額ロスに始末書を書かせても、部下の服薬指導を妨害したり、始末書を捏造しても頓着しないんだ。それで部下のミスが減らなくても、それは部下個人の、薬剤師自身の責任だって、会社自体がそう認めてるんだ。」

ため息1つ。

「この環境で俺が出世するのは難しい。」

俺の大学入学当時、薬剤師は5年程度実務経験をもって管理薬剤師となることが望ましいという指標があったが、昨今の調剤併設ドラッグストアの増加にともない「3年以上の実務経験が望ましい」との文言に変わり、結果、人手の少ない中小のチェーン薬局には、3年目から管理薬剤師をやらせるところが増えた。

板倉もそのクチであるが、俺は3年目で、その板倉の下にいる。ちなみに板倉は6年目で、俺とは3年離れている。新規の開店があれば俺にも管理薬剤師へのランクアップの目がなくはないが、そういう話は出ていない。

それに、同期のやつは他にもいるし、会社からの信頼度は、俺の態度と始末書が物語っている。

「まぁ、暫くは我慢するよ。」

「そんなんで良いんですか?」

「良いんですかと言われるとなぁ、良いとは思ってないんだけどな。」

我ながら歯切れの悪い物言いである。冷め始めたデカフェのコーヒーにはほとんど手を着けていないのに、なんだか頭が痛い。


「何か情けないですね、残念です。」

そう言うと彼女は、カツンと音を立てて再びカップを置き、また同じものを作る。

何か、松木の目が据わっている気がする。

夕飯で酒は飲んでない、まさか紅茶のブランデーか?確かに段々ブランデーの量が増えている気がするが、それでも大した量じゃないぞ?

「正直、今の薬局、色々やりにくいんですよね。斉藤さんは正直追い出したいですし、板倉先生は杓子定規の癖に頼りないです。この間なんて、私に『お薬手帳なんて適当に貼って良い』とか言いながら、ページも詰めずに雑な感じで貼って、案の定患者さんから文句言われてるんですよ?その患者さん神経質だからって注意もしたのに。」

3杯目の紅茶を一気に飲み干す。

「あの人、全然患者さんの顔を見てないんですよ。」

この時点でエッフェル塔はただのガラスの模型になっていたが、彼女は背後の食器棚から別の小瓶を出してきた。そこには有名なジャパニーズウィスキーの名前が書いてある。

新品のそれを封切ってカップに空け、上から紅茶を注ぐ。残念ながらポットには数滴の紅茶が残るばかりだったが、彼女は気にしなかった。

「それに、唐柴先生は庇ってくれますけど、調剤室にあの人達しか居ないときとか、本当に辛くて。」

そう言うと、彼女はカップを両手で包みながら、小刻みに肩を震わせ始めた。

「中の空気は凍ってるし、斉藤さんはネチネチ言ってくるし、板倉先生は知らん顔だし、週に何回もあることじゃないですけど、私それが嫌で。だって私、何も」

思わず椅子から腰を上げて、目を伏せた松井の右頬に左手で触れ、涙を拭う、松木はカップから手を離し俺の左手に触れた。

「ああ、松木は何にも悪くない。本当にすまん、君があんまり色々そつなくこなしてるから、アレも上手くいなしてると思ってた。」

反対の手で頭を撫でる。そのまま回り込んで、座ったままの松木の頭を胸に抱いた。

彼女が落ち着くまで、しくしくと俺のシャツを濡らす松木の頭を抱えている間、自分の行動に対する、不思議な高揚感と少しの背徳感に、俺の心は苛まれていた。

変に冷静な頭で、当たると痛そうだなと思ってなんとなくタイピンを外してテーブルに置いたりしている自分が可笑しかったり、彼女の熱のある涙を前に、そんな冷めた事をする自分を嫌悪したりと、大変忙しい時間だった。自分で引き金を引いておいてなんだが、そろそろ理性がヤバい。

「ゴールが分かってれば、我慢できるんです。だから唐柴先生、早く偉くなって、あの人達を追い出して下さい。」

無茶をおっしゃる。

「それに、私、先生の仕事に対する向き合い方とか、姿勢とか、ちょっと変だと思うところもありますし、まだまだ未熟で、理解とか足りないところもありますけど、この間助けて貰ったのとか、いろいろ含めて、私は、自分が患者だったら先生みたいな薬剤師さんにかかりたいし、先生みたいな薬剤師さんが増えれば良いと思うんです。」

自分もそうなりたい、とは、流石に恥ずかしくて言えないか。

「私もそうなりたいと思います。」

言うんかい。

いや、確かに嬉しいけど、俺はシラフなので、冷静に受け止めると些か恥ずかしい。

まぁ、泣き止んでくれたので、良しとするか。

「だから、あんな人達に、それを邪魔されたくないんです。」

言いたいことは分かったが、今の俺がすぐに解決できる問題ではない。マネージャーに報告して問題を大きくするのは論外だし、きっと松木もそれを望んでいるわけではないだろう。かといって休みを含めて四六時中松木に張り付く訳にもいかない。そもそもシフトの決定権は板倉にある。

「いや、俺もまだまだ、そんな立派なもんじゃないけどさ。でも、少なくとも俺が知ってる事とか、新しく学んだことを松木に教えるのを惜しんだりいしないし、そのうち俺だって松木から学ぶことも出てくる。あんまり構えないで、お互いに切磋琢磨していければ良いんじゃ無いかと思ってるよ。それで、まぁ、二人して良い薬剤師になってさ、今のさばってる奴等にも、こいつらすげぇって、考え改めなきゃって思わせてやろうぜ。」

状況は倫理的に残念極まりないが、彼女の熱意と信頼に応える言葉を俺は必死になって紡いだ。残された理性の最後の悪あがきだった。

「だからそれまではさ、こうやってまたお喋りしようぜ。作戦会議、な?」

「うん」と頷いたのか、呻いただけかは判然としないが、松木が俺の腰に手を回し、更に体重を預けてきた。

自分が紳士でいられるかを、自分に問う。


無理だった。

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