第一部「ジェネリック・シンドロームその1」

第一部「ジェネリック・シンドロームその1」



「はよせい!あほ!ぼけ!かす!」

75才男性、向精神薬・・・は飲んでいない、。

心臓の血管を拡げるためのステント手術を受けて以来、ステント部分に血栓を作らない為の薬、血圧の剤に、ビタミンEの軟カプセルと、便秘薬を服用している。

75才にもなって5分以内に準備できる薬にこの啖呵、しかし待合室では大人しくしており、他の患者や受け付けた医療事務に絡んだりはしない。

早く薬を渡したいのはやまやまだが、処方箋を受け付けるにあたって、現代の薬局業務には3つのステップがある。


まずは処方内容をPC端末に入力する。

もちろん処方内容が濃ければ濃い程、入力には時間が掛かるが、前回内容が参照できる上、QRコード等で時間は随分短縮出来るようになった。

次は入力内容、若しくは処方箋自体を確認し、その内容に不備がないかを確認し、指定された薬剤を取り集める。

最近はありがたいことに、PC端末に内容を入力すれば、どの棚に何があるか覚えなくても、棚に番号を振って必要な薬がどこにあるかを教えてくれる指示書が出てくる。

ただ棚から必要な数の薬を集めるだけの単純な作業が現代の薬剤師にとっては「調剤」なのだ。


昔は、といってもIT化されていない薬局は現在もだが、薬剤師になって最初の仕事は、勤める薬局のどの棚に何がおいてあるかを覚える事だった。

これは薬局において「調剤」を行うことが薬剤師のアイデンティティであり、法律上も薬剤師にのみ認められる行為であるため、棚の中身を覚える必要があるのは薬剤師だけだったっからだ。


しかし、このシステムが一般化して以降、事実上薬剤師でない人間にも部分的に「調剤」が可能になった。

元号が令和に変わった年の4月に厚生労働省が正式に明示するまで、長らくこのシステムはグレーゾーンであり、調剤室内のあらゆるものに手を触れられるのは、法律上は薬剤師のみに与えられた「特権」であった。

その「特権」を、皮肉にも利便性を理由に、薬剤師は自らの手で手放したのだ。


長くなったが、そんな誰にでもできる「調剤」を今回は薬剤師である俺が行う。

何故なら今はまだ平成のある年の8月の昼飯時で、調剤室には俺と、昔ながらのコンプライアンスをきちんと守る医療事務しかいないからだ。


指示書がプリントアウトされるまでに、処方内容に不備がないか手早く確認する。

あんな調子だが、意外にきちんと自分で薬を管理出来ているのか、飲み忘れや便秘薬の自己調節分をきちんと医師に伝えているようで、処方内容も調整された形跡がある。

しかも命に関わる血栓の薬は飲み忘れがない。

素晴らしい心掛けだとは思うが、生真面目で横柄というギャップは、一切魅力的ではない。

本来なら、処方内容に準じた調剤がきちんと行えているかは別の薬剤師が鑑査し、ダブルチェックを行うことがマニュアル化されているが、今は俺しかいないので割愛する。

「先生すいません、ちょっといいですか?」

別の処方箋を持って医療事務の福島さんがやってくる。

待てない人の処方せんに対応している時に声を掛けるのが良くないことくらいは分かっている人なので、相応の理由だろう。

「はいはい?」

差し出された処方箋を見ると、塗り薬を混合する内容が2種類、しかも量が多い。

「何分で出来るか聞かれたんですけど、どうしましょう?」

どいつもこいつも時間、時間って!

「俺が集中してやれば15分だけど、今俺しかいないから、他の患者が来たら延びる。余裕見て30分で良いんじゃない?」

軟膏や散剤、水剤の計量混合、錠剤の粉砕などは、機械化を受けてなお、薬剤師にのみ許された行為だ。

だが、これも「特権」を手放す動きがあるらしい。

しかし現在のとこと厚生労働省も、これを薬剤師以外が行う事を違法と判断している。

「新人呼び戻せば早いけど、2種類の塗り薬を混ぜる調剤が2回要求されてるから、30分よりは絶対短くならないって伝えて。」

「わかりました、伝えます。ありがとうございます。」

かくして、おじいさんに薬を持っていくと、呼ばれてもないのに服薬指導スペースを陣取って待っている。

「お前ら一人ではなにもできんのか?」

珍しく「はよせい!」以外の言葉を吐いたので、面食らってしまった。

「はい?」

何が言いたかった理解できずに聞き返すが、おじいさんは

「一人で何にもできへんやないか、ぼけぇ。」

と繰り返す。

「何がですか?」

この時は本心から、この人が何が言いたいのかがわからなかった。


ようするに、複数人で薬の内容を確認する行為が時間の無駄で、自分の責任で薬の準備をしていないのだという言い掛かりをつけているのだ。

しかし、俺がその事に気が付いて腹を立てるのは、俺が休憩に入ってからの事だ。


「もうええ、はよせい!」

この人も「会話成立せず」である。

「3560円です」

そういうとニヤニヤしながらゆっくり財布を開けて、千円札と小銭を一枚一枚、投げるようにトレイに置いていく。

おじいさんはやはり75才なので、嫌がらせのつもりでわざとゆっくりやっているのか、それとも手元が不自由なのかが分かりにくいところだが、表情や動作からは前者であることが如実に伝わってくる。

しかしこの人には自分が「老いている」という自覚がなく、自分の嫌味な行動が、老いによる弱味に見えていることに気がついていないのだ。

そのコントラストが、もはやコントのワンシーンのようで、笑いすら込み上げてくる。

「はよせい!」

と言いたい気持ちをこらえて、ゆっくりと投げつけられる小銭を確認する。ギャラリーがいて、このなんとも可笑しなやり取りをイチから共有していたら、きっと爆笑をさらえるだろう。

「3600円お預かりですので、40円持ってきますね。」

「はよせい!」

必死に笑いをこらえながら、つり銭を渡して彼を見送る。

「お大事に。」

相手にわからないように小さく息を整えて、本人の自覚より老いた耳に届くようにはっきりと発声する。

決して伝わりはするまいが、この「お大事に」は本心から心を込めて言っている。彼の老いや、無益な攻撃性をバカにしようなどという気持ちは微塵もないのだ。

薬歴によれば彼は独居、最初の2回くらいは「前にいた女のやつは俺の事をよく知っていた」と言っていたのを覚えている。

俺が着任する1年ほど前までいたパートのおばさん薬剤師とは幾らか話をしていたようだが、彼女が離職してからは暴言を吐いている様子が記録されている。

こんなありさまで100メートル先に別の薬局があるのに、変わらずここで悪態をつきながら薬を受け取って帰る理由は何か。

以前、休憩明けに薬局の入り口で彼とすれ違ったので、彼が大声をあげる前に処方箋を預かり、彼が財布からお金を出している間につり銭を準備して、「はよせい!」と言う隙を与えないようにした事があったが、そのときの彼はとても残念そうな顔をしていた。

似たようなケースで、せっかちな患者にこの対応をしたところ、普段はムスッとしたおじさんが「ありがとう」と言って帰った事があった。

これと同じリアクションを期待してのことだったのだが、彼の表情を見て、気が付いた。

彼は寂しいのだ。


この寂しい独居老人は、恐らくここで示した攻撃性を他の所でも発揮し、徐々に孤立していくのだろう。

そして来週か10年後かはわからないが、彼が死んでしまうまで、彼の心は満たされない。

運良く死ぬまでに行政の助力を得られても、彼は感謝などしないだろう。

そのうち自分にも理由がわからない焦燥に刈られ、眠れなくなり、睡眠薬が処方される。

だが、いつまでたっても不眠は解消されず、薬の量が増えるに連れて何も分からなくなっていく。

そしてある時に「認知症」と診断されて、認知症のための薬も増えるのだ。

しかしそうなっても、期待されるほど彼の攻撃性は消えず、不眠は続くだろう。

医薬品の抗不安作用は、孤独には効果がないのだ。

薬では彼を救うことはできない。そんなものより、彼と真剣に向き合う家族か、それに準じる存在が必要なのである。

おこがましくも、町の薬局の薬剤師には、自分の力が及ばないと思われる患者に対して「お大事に」という言葉を吐く以外になにも出来ないのだ。

だから俺はせめて、心の底から「お大事に」を言う。

何かのきっかけで彼が救われますように、この分析が杞憂であり、この薬局以外での彼が穏やかで、孤独による不穏や焦燥とは無縁の人物でありますようにという願いを込めて。


「私あの人嫌いです、いつも大きな声で怖いです。」

そりゃないぜ、福島さん。

「それで?塗り薬を混ぜなきゃいけない人は?」

医療従事者にあるまじき台詞は聞こえなかったふりをして、次の仕事を確認する。

「明日で良いって言って帰りました。これぐらいの時間か、夕方にまた来るそうです。」

「そうか、なら、軟膏を練るのは新人にやってもらおう。」

「またそうやって面倒臭そうなのを押し付けて、可哀想に。」

「いや、新人教育の教材に丁度良いってだけだからね。面倒くさいからとかじゃないからね。だから、俺が休憩から戻るまでは調剤に手をつけないでもらってください。」

「はいはい、そういうことにしておきますね。」

何故信用がないのかはさっぱりわからないが、取り敢えず急ぎの調剤がなくなったので、指導歴の記載に入る。

「私も休憩に入って良いですか?」

調剤併設店の場合、営業時間中に調剤室内に薬剤師がいない状態を作ってはならないので、たとえ患者が来なさそうでも、他の薬剤師が戻るまで俺は昼飯にありつけない。

しかし、医療事務員にそんなことは関係ないのである。

「良いですよ、あーマジ腹へったわー。良いですよ。」

「いってきます。」

容赦無し。

時刻は13時30分、管理薬剤師が戻るまでは、あと30分だ。

午前中に来た患者のラインナップを何となく確認する。

前回から内容が変わらない人や、ただの風邪なんかがほとんどだが、薬の種類が変わったり、増量や減量がある人の経過確認の引き継ぎがある人もちらほらいる。

一人平均4分として、7、8人分書けば昼飯だ。


「すいません、遅くなりました。」

およそ平均通りの時間をかけて15人目の薬剤服用歴を書き終えた頃、管理薬剤師が帰ってきた。

「マネージャーから電話があって戻れませんでした、すいません。」

本当に悪いと思うなら休憩から戻ってから折り返せ、と思うのだが、彼にとってはこれが正しい優先順位であるらしい。

彼の名誉のために断っておくが、決してこれは腹を空かせた俺への嫌がらせではない。

単に「昼の休憩を何時にするか」ということが、部下の生活の質に影響するという感覚が欠如しているのだ。

「いえいえ、大丈夫ですよ。」

しかし、それをわざわざ指摘して喧嘩をするのが面倒な程度には、俺は空腹だった。

「では休憩をいただきます、あ、軟膏の混合が1件来てますが、来局明日なので新人にやってもらおうと思います。」

努めて患者に向けるのと同じ笑顔を作ったつもりだったが、うまくいったかは怪しい。

「了解です、いってらっしゃい。」

休憩に入るのを遅らせた手前、いくらか遠慮があるのだろうが、俺を送り出す彼の笑顔は、それでも何か言いたげだ。

俺の不機嫌が顔に出ている事をとがめたいのか、それともマネージャーから何かの伝達事項でもあるのか。

心に余裕があれば「先輩からは何かありますか?」と声を掛けるのだが、半日ほど水以外のものを口にしていない俺には少しばかり難しかった。


管理薬剤師の彼、板倉は、同じ大学出身で、大学の在籍期間も重なっており、学生時代からの先輩後輩の関係にあたる。入社以前からお互い知らない仲ではないが、こんな感じでどうにも彼とはソリが合わない。


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