第8話 ✳︎なんともない感情


飲み放題でも、コースでもなかったため、いつ切り上げるかタイミングが掴めなかったが、早く帰りたいと今日のことを後悔している僕の気持ちとは裏腹に、目が離れた女の子は楽しそうに笑っていた。


適当に頼んだ料理はほとんどなくなり、3杯目のビールももうすぐ飲み終わる。


「お手洗い、行ってくる」


「はーい」 


便座に腰を下ろした瞬間、お尻から背骨に冷たさが伝わってきた。

LINEの未読が14件、だいぶ溜まっている。


3通6件は広告、7件は同期とのグループLINE、1件は彼女からだった。



『今から帰る〜』


時間は10:30、そろそろ帰るかと腰を上げる。

本当はお会計を済ませて戻るのがスマートなんだろうけど、そんなことをする意味と価値を見出せなかったのでそのまま戻る。


「おまたせ、そろそろ行こうか」


席につかず、そのまま荷物をまとめる仕草をする。


「あ、わたしもお手洗いに」


目の離れた彼女は急いでトイレへ駆け込む。女性用トイレも男性用トイレも1つずつしかなく、出た時に化粧の濃い女性が1人並んでいたなを思い出し、僕はイスに腰を下ろし、残っていたビールを飲み干す。


「すみません、お会計」


「かしこまりましたー」


ショートカットで金髪の定員が無言で伝票を置き、隣の席を片付け始めた。


「あの、」


「テーブル会計でお願いします」


僕の聞こうとしたことが分かったのか、両手いっぱいの食器を抱え、戻り側に笑顔で応え立ち去った。

さっきレジに行かなくてよかった...


「お待たせ」


伝票を開こうとすると彼女が戻ってきた。


「おかえり、テーブル会計みたい」


「あ、そうだったんだ」


彼女はカバンから財布を取り出す仕草をした。


「3000円もらっていい?」


「うん、ありがとう」


少しがっかりしたような彼女の顔を見逃すことができず、男は辛いなと思いながらお札を受け取った。


とにかく早く帰りたかったため、電車までの道で何を話したかは覚えていない。ただ取り止めのない会話をしたような気がする。幸いにも電車の方向が違い、駅でお別れとなった。満員電車の中でLINEを開くと、未読メッセージが26件となっていた。


同期とのグループLINEを開くと、良一がどうやらまいちゃんとデート中らしく、康太と直也がだいぶ盛り上がっていた。


『頑張って笑』


とだけ反応し、アプリで無料漫画を読もうとすると、彼女から着信が来て、慌てて出てしまった。おそらく最寄駅に着いたか、まだ電車が来ないかで電話をかけて来たのだと思う。すぐに切りメッセージを送る。


『ごめん、今電車今から帰る。』

『そっかごめん。最寄り着いたから家着くまで電話できないかなって思ったけど今日裕也も飲み会だったよね』

『早いね』

『池袋だったからめっちゃ早く最寄駅に帰れた』

『俺ももう池袋着く』

『了解、寝てるね』


僕がどこで誰と飲んでるのかなんて全く興味も示さず、先に寝てしまう彼女に対して、自由であることへの気楽さと、少しの悲しさを同時に抱きながら、窓ガラスに映る疲れた顔の奥に光る街の明かりを眺める。


まっすぐ家に帰っていたら今頃布団で夢でも見ていたのだろう。その方がよっぽど生産性のある行動だったとやるせない気持ちになった。しかし、彼女に対する悪いことをしたという気持ちは何も湧かなかった。特に何も悪いことはしていないからだ。


このなんともない感情を抱えた僕と、なんともない日常の景色が広がっていた。


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@jun_1u1

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