第7話 始まり
バイトを終えた青年はいつにも増して素早くその場を後にした。あまりの急ぎっぷりに同僚たちは声をかけることもできず、お疲れ様の声が背中に届いたかどうかは不明である。ただ、その立ち去った時の表情は久しぶりに見る輝いた表情であったため、彼女と待ち合わせでもしているんだろうと一同心の中で納得していた。
しかし実は、その当人嶺 祐也はというと、彼女である白石 美穂ではなく別の人間、しかし今1番心を動かされている相原 聡美の元へ向かおうと必死だったわけである。
彼は自分の恋愛のことを多くは語らない性格のため、同僚は誰も彼の心が彼女から離れていることも、彼女がいるにも関わらず他の女性に夢中になっていることももちろん知らない。ましてやそんなことをする人間だとは誰一人微塵も思っていないほど、本当に彼は誠実な人間であった。そう、今までは。
『さとみさん、今終わりました。遅くなってすんません。』
『お疲れ様!気をつけてきてね!駅着く時間わかったら教えてね』
『はい!餃子楽しみにしてます』
数日前抱えていた罪悪感はどこへ消えたのか、彼の頭の中は彼女と会う事でいっぱいになっていた。実は彼が彼女の家に行くのは初めてではなく、もう3回目である。2人の出会いは約1ヶ月前に遡る。それは特に寒い日のことだった。
真面目な青年は旧友に声をかけられ、とある飲み会に参加をすることになる。サークルに年下の彼女がいて、仲の良いバイトの仲間に囲まれてと、何不自由のない生活だった彼は、合コンの類に参加するのはほとんど初めてだったが、相手が内定先の1つ上の先輩ということもあり、社会勉強も兼ねて喜んで参加することとなった。
そこで彼は、1年間社会人として経験を積んできた大人の女性でありながらも、どこか隙のある女性に魅せられてしまい、大量の酒を飲むこととなる。もちろん自ら飲んでいるわけであり、決して飲まされたわけではない。そして気付くと彼女の部屋で朝目が覚め、横で裸で寝ているその美しい体付きに仰天することとなる。
「おはよう」
夜のことは全く覚えていなかった彼であったが、なんとなく家に行くことになった経緯は覚えていた。彼女の手を自分から握り、誘ったのだ。しかし、それを認めてはいけないと、彼女に誘われたと記憶をすり替えようとした。ただ、今までそんな経験がなかっただけに、なぜそんなことになったのか訳もわからなかった。彼女の話では、その日は酒に酔ってそのまま寝てしまったらしい。ほっとしたような、それでいてチャンスを逃してしまったような感覚に駆られた。その後も特に何を言うでもなくやり連絡を取るうちに、彼女のことが頭から離れなくなっていった。なんとしてもまた会いたいとそう思っていた。そしてとある金曜日、彼が内定者で懇親を深めていると、ちょうど同じ駅でしかも同じビルで彼女も飲んでいるというではないか。宴も終盤に差し掛かっており、終電も近くそろそろお開きのタイミングであったため、なんとか合流できないかと思い聞いてみるが、彼女の飲み会は今からスタートしたらしく、その好機を逃してしまった。神様からこれ以上踏み込んではならないとのお告げと思い諦めたその時、彼女からこう返信が届いたのだ。
『残念ごめんね。でも、また別日でちゃんと飲まない?』
ここで違う行動をしていたら、きっと今後の運命は大きく変わっていたかもしれないし、もしかしたらまたどこかで同じことが起きて、結局変わらない運命だったなのかもしれない。それは誰にもわからないが、ここから2人は定期的に会うようになったのだ。
『DVDもいっぱい借りておいたよー♫』
念入りに部屋の掃除をしながら、返信をする。テーブルの上には熱心に求愛をしてくる地元の男友達からもらった花束が生けてあり、その男友達からもらったぬいぐるみもちゃんと飾ってある。彼女はそんな家に、今一番お気に入りの、彼女がいる男の子をお招きする準備で大忙しだ。
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