2話 姿が変わっても、頼れるものは、何もなし 2/2
「けほっ。 ……うぇ――……」
あ――……古くさい臭いがする。
2年以上着ていなかった服を出したときのあの独特の臭い。
物置にして長い、昔のものをしまってある部屋に来てわざわざ探し出したのはタンスの奥にギチギチに詰められていた、かつて……最低でも10年くらい以上前から着ていない、僕が子どものころに着ていた服。
これより小さい、というより古い服がなかったからしょうがないんだけど……たぶん小学校高学年のときくらいに着ていた服は、今の僕にとってもまだ大きい。
やっぱりこの体は10歳未満……?
いや、でも、なんとか10歳は超えていたいっていう謎の気持ちがそれを否定するんだ。
ぶかぶかでだぼっとしているけどとりあえず着ているぶんには邪魔にならない程度で、家の中で歩くくらいなら脱げる心配もなさそう。
最悪ズボンとパンツさえ落ちなければ上はなんとかなるもんな。
もっともパンツまでは残してなかったからズボンで押し上げてる感覚だけど。
たまにずれるから気持ち悪い。
今は居ない母さんが「お気に入りと綺麗なものだけは記念にいくつか残しておきたい」って言って聞かなくてうっとうしいと思っていたけど……今になってはありがたい。
これがなければ僕は家の中をシャツ1枚で過ごすことになっていたからな。
女の子になっていきなりそれはないだろう。
誰もいないとは言っても僕自身の抵抗はある。
いくら家の中だからとはいえ下半身すっぽんぽんで過ごすのは……いくらひとり暮らしでニートしているからって言っても、いくらなんでもアウトだろう。
そう、僕の中の常識が言うんだ。
だって下半身丸出しだぞ?
やばいじゃん。
ほこりを被っていた鏡にぼんやりと映る「兄のお下がりを着ています」的な女の子になっている僕がぼんやりとした表情で立っているのを見る。
……顔も雰囲気も、これは昨日までと変わらずにぼーっとしているけど頭の中はいちおうまともに働いている、ように感じる。
たぶん。
少なくともお酒が入っていないことがはっきりと分かるくらいには細かく考えられるし、五感もしっかりとしている……と思う。
たぶん。
……………………………………………………。
さて。
目が覚めてから1時間ほど、うろうろとしながら考えていたことと調べたことをまとめてみると。
――この姿が変わって幼い女の子になっちゃったっていう状況は熱や昨夜のアルコールのせいではないらしくって、現実みたいで。
でも、家の中の様子も外の状況も昨日からは特に変わっているようではなくって。
変わっているのは僕の体だけ。
たった、それだけ。
それ以外にはなんにも、ない。
ただの現状確認に過ぎないけど家の中に変なものがあったりしないから、今すぐどうこうって話にならないのは助かる。
家の中はセーフゾーンだ。
引きこもりにとってはここがクリアされていないと拠り所がないんだ。
そんなことを引きこもっていた時期に実感した。
……………………………………………………。
……けどこの状況、僕の頭が狂っているって考える方がまだマシかもしれない。
だって現実で、空想の世界でない僕のいる現実で僕自身があとかたもなく……全く違うものになってしまうなんて。
とりあえずですることがなくなっちゃって、手持ち無沙汰になった途端に力が抜けていく。
………………………………どうしよう。
いや、どうしようもないんだけど……。
埃を被ってる鏡に小学生のときのシャツとズボンを着て座り込んで、ぽけーってしてる僕が映る。
パンツルック……って言うんだっけ、そんな格好をしている薄い色の女の子な僕が。
これが夢とかだったらいいんだけど、夢だったらこんなに考えられるはずもないしな。
とっても、非常にとってもこの上なくめんどくさいけど……考えない訳にはいかないよなぁ、これ。
現実を見ないと行けない。
お酒に逃げたいけど無理。
………………………………。
さっきからお腹も鳴っているし、とりあえず朝……じゃなくてもうおやつの時間も過ぎているけど、何かをお腹に入れよう……。
体のサイズにしてはやけに大きな音がもういちど、ぐぅっと鳴った。
◇
夕方を過ぎて夜に。
世界はなんにも変わっていなかった。
あ――……疲れた――……。
もうだるだるだ。
もうやだ。
何もをするにしてもいちいち体を大きく動かさないといけなかったから、とにかく疲れた。
お湯に浸かったら一気に疲れも襲ってきたし今日は早く寝よう……。
下手すると今日起きてる時間が6時間にもならないけどしょうがない。
僕は疲れたんだ。
シャワーの音と立ちこめる湯気に満ちているお風呂場で体を洗う。
シャワーヘッドが重すぎる。
お風呂のイスが高すぎる。
……結局調べて考えてを繰り返しているうちに、すっかり夜になっていた。
起きたのがとても遅かったというのもあるけど。
だって3時ってことは普段より6時間以上遅いってことで、起きてる時間の半分くらい無くなったわけで。
はじめこそこの体に戸惑いもしたけど……いちど受け入れてしまえばただ体が小さくなっただけなんだし、そこまで違和感もなかったからじっとしていると忘れるくらいだったしな。
おかげで、こんな目にあっているのにわりとふつうに過ごせちゃった。
むしろそっちの方が非現実的まである。
……慣れって怖いものだなぁ……。
ま、誰かと一緒にいたり外に出なきゃいけなかったりすれば話は別なんだろうけど僕はひとり暮らしのニートだしな、僕自身が何かに集中して気にならなければ問題が存在しないんだから。
……にしても毛がないと、本当に洗いやすい。
どこを洗ってもまるで抵抗がないからきちんと洗えているか心配になるくらいだ。
その分が髪の毛に集まっている気がする。
……この量、どんだけシャンプー使うんだろ。
1日じゃたいして汚れないだろうし、そもそも外に出ないんだから夏じゃなければ大して気にしなくてもいいんだろうけど、なんとなく習慣で洗いたくなる。
お風呂に入らないなんて……そんなことはできない。
肌が薄すぎて静脈が見えるくらいだからこするのもなんだか怖くって、軽く手のひらで洗う。
くすぐったくて困るけどしょうがないよね。
……あの後調べてわかったことといえば、テレビもネットもどこを見ても僕みたいに体とかが変わったとか、そういった騒ぎはひとつも起きていないってことだけ。
小さくなって顔が変わっただけならともかく性別まで変わって不安だった体の方も、着替えと今とで裸を見てトイレに何回か行ってしまえばすぐに慣れる。
他人の体ならともかく僕自身の体だしな。
女の子らしい女の子ならともかく、幼児だし。
仮にこれくらいの年の女の子の親戚とかの面倒を見ることになってお風呂に入れてあげるとしたって、悪いことはしていないのに悪いことをしている感じはするだろうけど……それ以上の感情が湧かないのと同じだろうか?
そんな親戚はいないけれども、もしそうだったら、だ。
庇護欲しか浮かばないだろう、僕なら。
ま、何をしても気にならないというのはいいこと。
まだ家の中の鏡やガラスが視界に入るたびに知らない子がいるって思って、びくってはなるけど。
強いて言えば、この長すぎる髪の毛がうっとうしいことくらいか。
む、なかなかシャンプー落としきれない……。
振り向いたり横になったりするたびに邪魔だしシャンプーもふだんの何倍も使ったし、洗ったら毛がキシキシする感じがするけどリンスとか持ってないからどうしようもないし。
髪の毛が長いほどに魅力は増すけど、同じくらい維持するだけでの苦労があるんだなぁ……女性って。
僕が想像もしていなかった種類の苦労だ。
あと、髪の毛って結構重いんだな。
重力をものすごく感じる気がする。
このままだと首が太くなりそう。
細すぎて折れそうだからもうちょっと頑丈になってほしいところ。
◇
ちょっと高くなったお風呂のイスから立ち上がって腕を上げてシャワーを止め、とても重くなったフタを必死な思いをして湯船にかぶせてタオルを何枚も使って髪の毛を乾かして、ようやくお風呂から出ることができた。
お風呂に入るだけで重労働。
疲れを取ろうと思って入っても出てくる頃にはまた疲れるという。
……あ、よく考えたらもう、わざわざフタとか閉めなくてもよかったんじゃ。
どうせ毎日入れるんだし入るのは僕ひとりだしでいちいちフタする意味がない気がする。
今日までなんとなくでやってた……けど、この体にとってはお風呂のフタは重すぎるしでかすぎる。
…………明日からはそうしよう。
仮にこのままだったらだけど。
戻っていてほしいけど。
火照った体を包むちょうどいい冷たさの空気を感じつつ全然乾く気配のない髪の毛にドライヤーの風を当てながら、さっきの続きを考えてみる。
ドライヤーがすっごく重いのもどうにかしたいところだけど。
……目が覚めてからずっと、見た目以外にこの体の感覚で違和感を覚えなかったりバランスを崩したりしない。
僕の意識はこの体を僕自身のものとして認識しているということ……なのかな。
だって、すべてのサイズが違うんだから転ぶくらいはしそうだし。
自分のじゃない自転車を借りるときみたいな?
………………それだと、少し乗ったら慣れるか。
まちがっているようでいて合ってる気がする例え。
転びそうになったのだって両足がズボンで絡まっていたあの1回だけだし、利き手とか箸の使い方とか普段は何も考えないでしている家電の操作も……踏み台を使わないと届かなかったりしたにしても特に考えなくてもできたし。
いちいち体を伸ばさないと何もできないのは不便だけど、不便なだけだしなぁ。
本気で不便じゃないってのもまた困る。
絶妙な加減の不便さだ。
……ここまでの結論として、考えられる事態としてはとりあえずみっつ。
まずは、僕の脳か頭か……今朝からおかしくなって狂っていて、僕がこの姿のこの子になっていると思い込んでいる。
こうしてドライヤーを重いって感じてるのも髪の毛がなかなか乾かないのも、イスの上に立たないと鏡が見えないちっこい体になってるのも、ぜーんぶ僕の錯覚的な感じで、だ。
それとも実は元から僕はこの姿で昨日までの僕は男だったと思い込んでいるか。
無いとは思うけどいきなり女の子になるよりは現実的だ。
記憶なんて言うのは形もないものだし、最初の考えが「今」狂ってるってことだったら「昨日まで」狂ってた感じ。
こうしていちいち疑問に思えてるあたり、少なくとも今狂ってるとは考えたくないしなぁ。
……………………………………………………。
……最後は、このどちらでもなくって。
現実に、本当に、リアルで、冷静に僕だけが、僕の体だけが変わってしまったということ。
僕の意識のエラーじゃなくてこの世界のエラーか何かで僕が小さい女の子になっちゃった。
エラー。
呪い。
魔法。
あとは何か。
上のふたつは僕自身を疑うことになるからこっちのほうが精神的にはだいぶマシなんだけど、逆にいちばん面倒くさいことになるという。
だって、姿が変わるなんて。
なんでこの姿になっているのかも、元の体との体積の差はどうなったのかとかいろいろとだ。
そもそも体が変わるなんてひどく非現実的なことなんだけど……なっているもんな、現実に。
今僕の五感が感じていることと思考は正常だって思いたい。
思うと、僕にはどうしようもないって言う現実が襲ってくるんだ。
……………………………………………………。
……にしても。
もうドライヤーをかけて3、4分は経っているのに髪の毛がまだほとんど乾かない。
いくらぶわーってしてもちょっとずつしか乾く気配がない。
もっとタオルで絞っておけばよかったかもな。
そういえば女の人って温泉とかで頭にタオル巻いてるし、ああするもんなのか……?
◇
あのあと10分ほどかけて髪の毛を乾かし切って、……嘘は良くないな、乾いたって言える程度になって重くなった腕を抱えながら戻ってきた僕は……クッションをおいてようやく使えるようになったイスに正座して乗っていて、机の上で動かしていたペンを置いた。
柔らかすぎて時々落ちそうになるし、今の背丈に合ったイス、用意した方がいいかも。
いや、それを言ったら床に座った方が早い気がするな。
不釣り合いに大きくなったペンを持っていた手をひらくと、ぷにっとしている印象の指がじんじんしている。
最後の日付が数ヶ月前の、いつも気まぐれで書き始めて何日かでまた忘れる日記帳の見開きをまるまる文字で埋めてぱたんと閉じる。
長文を書くのが久しぶりすぎた。
長文って言うほどじゃないけど。
書くこと自体にはそれほど変な感覚もしなかったし、書き方がわからないっていうこともなかったからよかったけど、とにかく疲れた。
書くだけで……なんて言ったらさすがにまずい気がしてきた。
けど、これでいいだろう。
とりあえず記録は取れたんだ。
起きてから今までのことを思い出せる限り細かく書いておいたし、明日どうなっても思い出せるか分かってもらえるかすると思う。
これ以上のことなんて起きないとは思いたいけど……起きたとしても、明日の僕か他の誰かが読んだら今日僕に何が起きたのかだけは分かるはず。
理想は、今日1日……いや半日か、まるまる寝ぼけていたとかこれが夢だったという方が楽なんだけど。
理想は理想だ。
だけど、念のためとはいってもさすがにデジタルとアナログの両方で残すのには疲れた。
心配しすぎじゃないかと書きながら思ったけど、頭がおかしくなったんだとしたらって考えたら残さずにいるのは不安になったしなぁ。
あと漢字を思い出せなさすぎたからってのもある。
読めるし頭にぽやって浮かぶけど書けないもどかしさだった。
明日になって読んでみて、訳がわからないことを書いたなって笑えればいいんだけど。
明日読んでみて「昨日は1日中酔っ払ってたのか」って思えた方が嬉しい。
……しっかし、まさかこれだけを書くので1時間をずっと過ぎるのには驚いた。
どれだけのろのろ字を書いていて……普段書く習慣がなかったかっていう。
学生が終わったらこうなるんだな。
そう考えると学生って偉いもんだ。
キーボードが大きくて打ちにくかったけどタイプした方は10分そこらだったし、やっぱりパソコンは偉大だ。
今となってはスマホの方が早いかも知れないけど……。
日記くらい、手書きでつけた方がいいかもな。
せめて、これからは。
将来、仮にだけどどこかで働くときとかには必要に……、いや、ないな、きっと。
やっぱり必要ないな、うん。
まぁいいや。
細かいことを考えるのは。
「……くぁ」
さっきからペンを持っていたところは痛いし、あくびは止まらないし。
寝よう。
ベッドに身を投げ出すようにして飛び乗ると思ったよりも弾んで落ちそうになってひやってなる。
……あー、体重も見た目に比例して軽いのか。
こんなことで床に落っこちてケガでもしたらどうしようもない、気をつけないとな。
……それにしても眠い。
体が変わるなんていう一大事でただでさえ普段使わない神経を使ったのに、さらにずっと考え続けたせいで頭が疲れ切っている感じ。
面倒なことなんてずっと考えないようにしてきたのに……まさかこうなるなんてな。
……………………………………………………。
……お――……。
目をつぶってちょっと、ぐるぐる回ってる感覚になる。
頭がぼーっとして芯から痺れたようになって。
お酒を飲んでいる訳でもないのにこんなに自然な感じで眠くなってきた辺り……、やっぱり、本当に、僕は………………………………。
そこで意識がぷっつり切れた。
◇◇◇
そうして急に戻る意識。
かすかに鳥の声、ときどき車の音。
………………………………朝か。
なんだか体が軽い。
まぶたを閉じたままでも分かる、今はきっと早朝だ。
昨日と違って早く起きられたのは、よく寝たから…………って。
まだぼんやりと眠くて体がだるいから腕だけを持ち上げてみる。
……目に映るのは天井の隅までよく見える視界と、肌から浮き出ていた血管も関節も見えないくらいにすべてべで小さくて柔らかい印象の、静脈が透けて見えるくらいに薄い肌の子どもの手。
丸っこい手のひら。
昨日と同じように小さいままの、今の僕の、手。
じゃあやっぱり……昨日のことって。
のそり、と体を起こす僕の視界に長い髪の毛が映る。
透明に近い髪の毛が。
……………………………………………………。
夢じゃなくて、少なくとも昨日一日のことじゃなくて……現実かぁ。
とってもめんどくさすぎることになったなぁ。
あー。
……あ――……。
そう思ってついた僕のため息は、声なんか出していないのに……どう聞いても小さな子どもの口から漏れてきたものだった。
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