1話 「あの日」と「――――――――」 2/2

◇◇◇



――歩き疲れたくらいに帰って来て溜めておいたお湯に浸かって汗を流す。


いろいろな理由で、シャワーよりもお風呂の方がいいらしいし気持ちいい。

肌の汚れや体臭が取れるとか芯から温まるとかで、運動と同じように心拍が適度に上がってぼーっとできるのも良いらしいし。


かといって朝晩と入るのはやりすぎで、湯船に浸かるのは1回だけにした方がいいらしいとか。


とにかく、そういうものらしい。


シャワーだけって言うのは物足りないし、朝晩入るのはよっぽど寒いとか温泉にいるときくらいだし、入らないなんてのは気持ち悪いし。


そういうものなんだ。


体が小さすぎるせいで大きすぎる、この湯船も見納め。

サイズ的に気を抜くとすぐに浮いちゃうのが玉にキズ。


だって子供だもんなぁ。

前は小さいって感じたけど今は大きすぎるし。


同じように広いお風呂場。

天井がとっても高く感じる。


初めのころは他人の体だからって感じてお風呂場では違和感も申し訳なさも気恥ずかしさもあったっけ。

もう慣れ切っちゃったけど。


でも……欠けてテープで補強しただけのタイルの跡がそのままなのが悲しい気がする。


まぁ直すにしても人を入れないといけないしな。

この見た目じゃ誰も家に呼べないし。


なによりただ面倒なだけだったし。


うん。


あとは、誰かに任せちゃおう。

ぜんぶ任せるんだ、これくらいはいいよね。



◇◇◇


「……ふぅ」


声って出さないのでも誰かって意外と分かる。

そんなわけで、ただのため息もなんとなく子供っぽいように感じる。


口も喉も物理的にちっこいんだからしょうがない。


そうして温かくなって汗を流してさっぱりして。

ちょっと早いけど今から出るからしょうがない。


これでたとえ今夜からお風呂に入れなくてもなんとかなりそうだ。


汗はほとんどかかないけど……それでもこの腰まで伸びている長い髪の毛を洗わないで寝るというのには抵抗あるし。


習慣って言うのは恐ろしいな。

お風呂だけは……引きこもりの時期のごく一時期しかサボらなかったくらいだ。


子供になろうと女の子になろうとお風呂だけは欠かせない。

夏でも平気でお湯に浸かるんだ。


……さて。


これからは忙しくなるだろうし緊張もするだろう。


というわけで、これまた最後になるだろうお気に入りのコーヒーも飲み納め。

少なくとも好きな豆の種類で好きな量で好きな時間に、って言うのとは。


それくらいの自由は欲しいけど……どうなることやら、だ。

コーヒー飲む自由すら奪われる可能性も、無くは無い。

そこは怖いところだけど今考えても落ち込むだけだしな。


さすがにこの後が控えているからだめだけど、どうせなら昨日のうちに残っていたお酒も高い方から順に飲んでおけばよかったかも。


ああ、もったいない。


……いや、もう飲めないとは限らない訳だし帰ってきたあとの楽しみに取っておこう。


希望という未来は大切だ。

もう帰って来られないわけじゃない……かもしれないんだから。



◇◇◇



夜は軽く野菜を中心に食べる。


運動量が少ないからそこまで多く食べなくてもいいし、自然と量も減ってくるもの。

大人になっても成長期のような食事をしていたら体重と体型がまずいことになった苦ーい経験から生まれた習慣。


代謝が落ちるというのは本当に恐ろしいことだってあのときに初めて知ったなぁ……本当に恐ろしい。

何が恐ろしいって、何も考えないで普通の量を食べるだけなのに気がつけばっていうのが下手なホラーを越えている。


さらに恐ろしかったのは元の体重に戻るまでに、なった時の倍以上の時間と労力が必要だったことか。

食欲を落として、夜はあんまり食べないって言うこのスタイルに落ちつくすまでにどれだけ苦労したことか……。


あれは改めて成長期の終わりを感じた、つらい事件だった。

まあ大学生辺りで薄々感じてたんだけど。


でも学生のときは通学って言う重労働してたんだ、学生じゃなくなればこうなるのは当たり前なのかも。

会社に通ってるわけでもなしだからな。


あと……徹夜が辛くなったりそもそも眠くてできなくなったり、無茶が効かなくなったのを感じたのとほぼ同時期だったことも、なおさらに悲しかった。


「お兄さん」から「おじさん」になっていくのは、恐ろしいことなんだって恐怖を味わった。


……30になるまでは「お兄さん」でいたいこの気持ち。

きっと30を超えてもそう思っているんだろう。


ある歳を境に諦めがつくんだろうか?

…………………………………………。


もっとも。


今となっては「おじさん」って呼ばれるどころか「お嬢ちゃん」な幼女なんだけど。


これもまた、悲しいんだ。

せめて「お坊ちゃん」で……いや、それは嫌だな、なんか。


でも、年を取るって言う実感を得たあの絶望感も今となっては懐かしい気がする。

あと15年したら、もしかしたら「また」体験することになるんじゃないかな。


そうだといいけど。


……だけど、欲を言うんだったら。

できることなら、それを今度は友人たちと同じ時期に同じように感じたい。


年を取るってそういうことみたいだし。



◇◇◇



夕食のあとは眠くなるまでお酒を飲みながらテレビや映画を見て、少しだけ良い気分になって眠くなってきたら寝る。


酒は悪いものなんだけど適量なら問題ないって信じてるし、突き詰めれば酔いを自覚して適量にコントロールできることが鍵だから。


一時期は溺れていたせいでだいぶ体がやられたけど、翌日に響かない程度を維持できるようになってるから問題は無いよね。


呑まないって言うのは無理な以上うまく付き合うしかないんだ。


大丈夫、アル中にはまだまだ遠い。

まだ大丈夫。


……大丈夫だよね?


そんな生活をこの体でやってるのは相当まずいかもだけど、止められないんだからしょうがない。

止めようって考えるだけでストレスなんだから止めない方が良いに決まっているんだ。


で、翌日に響かないとは二日酔いしないということじゃなくて、眠りが浅くなりすぎなくて翌朝の体が重くなっていないことで、内臓がちょっとでも違和感を発しない程度のことで、わりとその時の体調とか夕飯の内容とか呑むお酒とか酔う時間の過ごし方で変わる。


結局は「酒は飲んでも飲まれるな」というような、小さいころから知っているような簡単なことわざとか言い回しにたどり着くのは不思議な気がする。


どうせみんな……ずっと昔からみんな同じ目にあって同じことを自覚して伝えて、なのに自分の体で体験するまではその言葉の意味を正しくは理解できないんだろう。


僕のように。

人間なんてそういうものだ。

言葉ができたときからなんにも変わってないんだ。


――そういうものをひっくるめたすべてが、ずっと続いてきた「「僕」」の毎日だ/った。



◇◇◇



そういえば、朝は忙しかったからカーテンも閉まりっぱなしだし、空気も籠もっているな。

だからなんとなく落ち着かなかったのか。


習慣ってすっぽかすと気持ち悪いものだもんな。


僕はリビングを突っ切って窓の下に置いた踏み台に載って、今の僕にとっては重いカーテンを開けて、踏み台の上でかかとを浮かせて背伸びして高いハンドルをよいしょっと回して、窓を開けた。


さっきまで歩くときに嗅いでいた、春の気持ちいい風が家の中に入ってくる。


このあとはどうせ、たくさんの人が入ってくることになるだろうし、閉めることは……考えなくてもいいか。


家じゅうに新鮮な空気が流れ込んでいく感覚ですっきりした僕は、未だにめり込んだままの床を避けて、毎段脚を大きく上げないと上れない階段を大股で上って僕の部屋へ。


いちいち消すのもめんどくさくて付けっぱなしのパソコンの画面が気になった。


……よく考えたら、どうせパソコンから何までみんな持ち出されるだろうし、閉じておくか。


今の僕にとっては大きすぎて重すぎるしもう移動させられないサイズになった、今までずっと使ってきたパソコンを閉じて……ついでに机の上の日記帳にも今日のことを簡単に書き留めておく。



◇◇◇



健康を維持して多少は前に進むという錯覚を得ながら、ただ生きているだけの毎日。


僕と僕を守る家の中だけでほとんど完結して僕自身以外の誰も必要としないで、同時に誰からも必要とされない毎日。


僕という人間を維持するだけならそれでもよかったのかもしれないけど、時間は過ぎるもので、有限だった。


本来は経験するだろう人生にとって重要な時期を何のイベントも経験せずに、ただ年齢だけを重ね、やがては老いていき、そして……。


――毎日の健康のためという名目の儀式を設け、その事実からあえて目をそらし、考えないようにして過ごしていたその毎日は。


貴重で楽しかったけど、そろそろ終わりにしないといけないもの。

僕の夏休みは、終わったんだから。



◇◇◇


時計。


あの朝、この体になって最初に見た時計は、あのときと同じようにぴったり3時を指している。


偶然だろうけども僕はこの体になってからその偶然に助けられもしたし、苦労もした。


人や物事との「縁」というやつは、大切にしないと。

そういうのもまた、この体になってからの1年で知ったこと。


やり直しているようなものなんだから、今度こそはきちんとしたいものな。



◇◇◇



あの日の前の夜はいつもどおりに寝て、あの日の朝に目が覚めることで強制的に「日常」っていうのが終わらされた。


言いかえればあの日の前の夜に「僕」は一度死んで。

あの日の朝に「僕」が生き返った/生まれ変わった。


今となってはそう感じる、あの朝。

男から女へ、黒髪から銀髪へ、20代から10……歳、未満へ変わった朝。


――……だから僕は最後のメッセージを、彼女たちに送った。

お別れの儀式。


そうして深呼吸しても緊張でじっとりした指で操作した画面には、ある番号が表示されるプツッという音がして、ワンテンポ置いて。


『はい、――――――――です』

『――――――――――――――――、――――――――――――――――』

『お電話は、――――ですか?』


電話の反対側で女の人が言う。


……僕はもう、止まったままじゃない。


「……はい、そうです」


電話のこっち側で、僕は言う。


「僕は――――」

「――――――――――――――――です」

「――――――――――を、お願いします」


「……あぁ、急いでいないので、ゆっくりで大丈夫です」


僕が、女の子になっちゃったんだって。


大丈夫。


僕は、元の体での10年以上っていう長い時間を、この体でのたった1年ぽっちの時間で――もう、乗り越えたんだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る