青い鳥がやってきた

山田沙夜

第1話

 朝、遠慮がちな歓声で目が覚めた。


 八時七分、日曜日に起きる時間じゃない。午前中は爆睡するつもりで、昨夜というか今朝というか、寝たのが三時すぎなのに。


 頭はくらくらするが、目覚めの気分がハイになりすぎていて、二度寝はもうむずかしい。

 パジャマだし、髪はボサボサだし……

 目でのぞけるていどに、カーテンに細いすき間をつくって外を見る。けれど古アパートの三階から見えるのは、山脈のように重なる屋根、屋根、屋根。もちろんところどころにそびえる高層、控えめな中層のマンションやアパートも見えるけれど。


「なかいさん、起きてるんなら降りてらっしゃい」

 下のほうからわたしを呼ぶ声がする。

 うっ、この声はたしかにアパートの大家……さんだ。

 ここからは姿が見えない大家さんから、大家さんからも姿が見えないはずのわたしに声がかかってしまった。カーテンの微妙な動きを察知したに違いない。寝たふりはできない状況だ。

 そういえば、アパートのすぐ横を流れている古水川で、ご町内のイベントがあるとか……、回覧板が回ってきてたような。

 浅くて緩やかで水遊びにはもってこいの小川だが、最高気温十五度の今日、水と戯れるには気温が低すぎるのではないだろうか。歯磨きして口をすすぐとき、水道の水がしみるようになってきたこのごろなのだ。


 予定のない日曜日だ。大家さんの呼び声に応えよう。冬物をまだ出していないから、真夏でもなぜか仕舞わなかったショールを肩にかけて階段をおりる。


「ありがとね。気をつけて帰ってね」

 大家さんが走っていく軽トラックに手を振っている。

 朝の挨拶をすると、「ああら、起きてきたわね」と笑った。

 いきなり寒くなったわね、コタツを出さなくちゃ、コートはまだ早いかな、と時候のおしゃべりをしつつ、アパートを半周して古水川の川べりへ。


 わあっ!


 言葉を失い古水川を見た。

 川面に朱色の金魚がかたまっている。

 よく見ると、黒い出目金や、白と朱、白朱黒の三色、色とりどり。尾もフナのような尾をしてるもの、開いた尾のものがいる。みんな小ぶりだ。

 金魚のかたまりがゆっくりほどけていく。

 ついさっき歓声をあげてわたしを起こした平均年齢の高そうな方々は、なぜかしんみり川面を見つめていた。口をへの字にして腕を組んでいる人もいた。

 子どもたちは三人だけ川岸にいた。三人とも金魚を入れたビニール袋を持っている。嬉しそうでもなく、楽しそうでもない。大人に付きあわされている感がありありだ。


「金魚、ありがとうございました。失礼します」

 その挨拶をきっかけに、「じゃ」、「お疲れさん」、「そいじゃ、また」と総勢十一名が散会していった。

「残念だったな、かなちゃん」

 八割がた白髪で背中が丸くなった男性が大家さんに声をかけた。

「お天気のせいでアイデア倒れになっちゃったわねぇ。しかたがないわ。今日はありがとう」

 さっきの歓声は、放流の一瞬だったのだ。


 古水川を泳ぐ金魚たちの賑わいに比べ、人間たちはどことなく秋も終わりの寂しさを漂わせていた。

 わたしは帰るタイミングを逸して、大家さんと肩を並べて突っ立っているしかない。


「ほんとはね、お盆あたりに古水川で金魚すくいをするつもりだったのよ。囲いを作って、そこに金魚を放してね。

 でもほら、今年は雨がひどくて、さすがの古水川も氾濫しなかったのが不思議なぐらいの水位になっちゃったでしょ」

 外の風景が見られないほどの雨だった。一階でひとり暮らしの老婦人が着の身着のまま、わたしの部屋へやってきた。エレベータなんかないのに、ずぶ濡れになりながら頑張って階段を上がってきた。婦人はわたしのスウェット上下を着て布団で横になり、わたしはカウチで寝たのだった。

「なかなか水が引かなくて、古水川も長いこと濁ったままだったでしょ。とても金魚すくいなんかできないまま、とうとうこんな時期になっちゃった。

 こんなこと、初めて」


 古水川は歩いて十分ほどの古水神社の湧き水がつくる川で、神社から歩いて一キロほどの大楠公園にある大岩で流れが地下に潜る。短い川だけれど湧水の流れはとてもきれいだ。

 大楠公園の大岩を抱くようにそそり立つ大きな楠が、川の水を全部飲んでいる、と近所の人たちはなんとなく信じている。そんな言い伝えはないのに。わたしもうすうすそう思っている。

 猿投の山から、地下を流れて、はるばるやってくる湧き水なのだ。


「わたしね、在所が弥富なのよ」

「金魚で有名な?」

 大家さんはうなづいて、「養殖をしてる親戚に金魚を融通してもらったものだから、要らなくなったというわけにもいかなくてね、町内会と相談して古水川に放流することになったの。神社に役所にと話を通して、いろいろ大変だった」 

 でもねえ……

 顔を曇らせる。

「神社の湧き水を穢すような気がするし、このこたちも冬は越せないような気がするわ」

 そういえば、この川で魚を見たことがなかったような気がする。もっとも観察したこともないけど。


「はい、これ」

 大家さんがにっこりと、金魚が五匹も入ったビニール袋を差しだした。

 わたしは、げっ! と思ったけど、とても断れる雰囲気じゃなくて、大人しくもらった。

 ベランダには、園芸が趣味の友達がくれた、一度も使ったことがない陶器の鉢カバーがある。わたしなど、土いじりなどいたしません、という顔をしてるだろうに、なぜ鉢カバーをくれるのだと思っていた。

 今日は鉢カバーとわたしと金魚の運命的出会いを感じずにはいられない。

 鉢カバーには穴がないから、水をはって、金魚の住まいにはもってこいだ。お昼寝してから、水草や餌を買いにいこう。


 バサッバサッ……

 鳥の羽音が聞こえる。大きな鷲が五羽、低く旋回している。一羽がわたしを見つけて、降りてきた。続いてもう一羽、そしてまた一羽……

 どんどん近づいて、くちばしを開ける。牙のある舌がぬるりと口を開け、わたしの顔の前で歯を鳴らす。


 ふわぁわわ……


 目が覚めた瞬間、わたしは「あー」と隣の部屋に聞こえないように、小さく悲鳴をあげた。

「遅刻だ。月曜日に遅刻なんて最悪」

 外は明るい。午後三時四八分。うっそ、みたいな時間だ。係長に電話しなくちゃ。スマホはどこだ。

 心臓をどきどきさせながら膝立ちして、すっかり目が覚めた。

 よかった。まだ、日曜だ。


 カーテン越しに、ベランダいっぱいに翼を広げた鳥を見た。これは、夢?

 起きろ、起きろ、目を覚ますんだ、わたし。しっかりしろ。


 これは現実だ。

 なに? なにが起こってるの?

 カーテンをほんの少しだけ開け、ベランダを見た。

 逆光の中で、灰色の大きな鳥がベランダの手すりにとまっている。大きな鳥は、長い足を折りたたんで、翼を広げたり閉じたりしながらバランスをとり、長い首をお辞儀でもするかのように下げ、くちばしを鉢カバーに入れている。

 くちばしは金魚を捕え、長い首へと送り込む。一匹、二匹、三匹……

 わたし、どうすればいい? 金魚を助けるの?

 だけど怖くて身体は動かない。

 ベランダへ出たら、わたしまで食べられちゃう。

 夜な夜なゾンビものホラー映画を観ていると、想像がそちらへいく。


「おー、アオサギだ。すっげえ」

 隣の住人の声に、アオサギはバサッバサッと羽音も頼もしく飛び去った。

 どきどきしながらベランダへ出ると、鉢カバーに入居したての金魚たちはどこにもいなかった。一匹もいない。

 慌てて鳥がとまっていた手すりから身を乗りだして、古水川をのぞいた。金魚が見当たらない。ゆらゆら動く小さい朱色が見つからない。

 川岸に大家さんが立っていた。


「カワセミが来てたのよ。あら、めずらしい。あら、かわいいと思いながら見てたら、金魚を捕まえて、食べちゃった。そしたらアオサギまで来ちゃった。三羽もね。そして、ご覧のとおりよ。

 神社や公園のほうへ行った金魚は、まだ生きてるかもしれないから、後で様子を見がてら散歩してくるわ。餌をやってもいいかしらねぇ。餌をやると水が汚れてしまような気がして。

 わたしも罪なことをしたものだわ」

 古希だという大家さんがひとまわり小さく見えた。


 noteより転載(2018/11/01擱筆)

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