鏡
古新野 ま~ち
第1話
朝、水道水の冷たさをこらえて睫毛にこびりついた目脂を洗い流す。黒ずんだ吹き出物が唇の端にできていた。爪で掻くと、なかなか硬質になっていることがわかった。
「賢人はいつまで寝てるつもりなんだ」という小言は母を介して聞いていた。午前8時、土曜。その母は既にパートに出掛けた後であり、リビングにいるのは酎ハイ片手に競馬予想をする父だけである。
扉の向こうから、渋い男性の声が聴こえる。報道番組の感性に歯向かうものなら、それは社会が見えていないからだという有難い言葉が聞けるだろう。
辞職して数ヶ月、体調が整いはじめたころ。その日の夕食時に義務教育レベルの知識を競う番組をつけていた。
問題は覚えていない。しかし彼は、解答者の明らかな知識不足を見て、どうしてこのような人間が世に放たれるのかとため息をついた。
その息を父は見逃さなかった。
――何か悪いのか?
――別に
――なら、なんだ
――あの人さ、よくテレビに出ててさ、人気なんやなって
――そうじゃないやろ
――別に、恥ずかしくないのかなって思っただけ
その一言を、おそらく父は待っていたに違いなかった。彼は、蛸壺の前を泳ぐ小魚を絡めとる触手のような視線を感じた。父はタバコに火をつけた。
――恥ずかしいわけない。あの人らはそれでお金を稼いでる
――恥と金儲けは違うよ
――違わない人もいて、彼らは賢人と違って税金も払って自立してるわけだから
――僕に言わせれば、あの問いに答えられないということは、まだ人としての水準を満たしていないのと同じだと思うけど
――俺もわからん。でも、社会ではそんなこと必要とされてないし、十分生きていける。現にお前も養ってこれた
――僕は、義務教育過程を満足に勉強できなかった、あるいは勉強しなくてもよかった構造の問題であって個人に責任を負わせようとはしてない。その分からない人というのを産み出す構造を批判せず全責任を個人に押し付けて笑い者にするのが良くないって言ってるだけ
どうして自分は父親を擁護しつつ対立しているのか。
――それが仕事やねんな、あの人たちの。お前は特別扱いしてほしいのか? 立派な教育を受けて、ちゃんとした暮らしもできてるのに、まだ認められたいんか? 何がいるんや?
――だから、別にって言ったんや
彼は、父が人に見えなくなった。あるいは、今まで父を人として見ていたことが誤認だったのではないかと考えた。
彼は再び洗顔フォームを手にした。その泡で顎髭を剃ることにした。ほとんど生えていない髭を確認してそこに五枚刃の剃刀をあてた。顎の先からもみあげにかけて刃を滑らせた。
男性の髭は銅線と似た堅さというから、彼は、コンセントを鋏で断ち切るような覚悟で肌に刃を食い込ませた。泡のない箇所を再び剃った。
男性司会者の声が聴こえてくる。父の笑い声も聴こえてくる。外国には他罰的でありながらも、その舌鋒の鋭さは、己の醜さを認めない。鏡の前の魔女のようだ。
真っ白な泡の中、黒ずんだ箇所を指で擦る。そこに刃をあてた。
火で炙られたような刺激が走った。黒いニキビを抉り、膿んだ白濁の汁と血の混じったものが滴る。唇の柔らかな皮膚が捲れ、洗顔フォームが傷口を覆う。泡が赤く染まる。彼は慌てて顔を流した。
この痛みは、まだ自分が人であるからだという実存、もといマゾヒストの気分がした。だが、それは本当だろうか。自分だけが自分を人であると思い込んでいるだけなんじゃないか? 父は、自分を既に人だとは思ってないんじゃないか。
彼は顔を上げて鏡にうつる自分を見つめて安堵したくなった。
鏡は事実をうつしていた。
鏡 古新野 ま~ち @obakabanashi
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