射干

壺天

射干

 春の陽、麗らかなその日。

 土の道を踏む青年は不意に立ち止まり、ふと思案するような顔で辺りを見回した。

 穏やかな風の渡る草木の中。

 華やかな色合いの花々に混じって、薄紫のレースハンカチを思わせる、淡く控えめな色彩――――射干しゃがの花が、そのほっそりとした茎を揺らしている。

 姿形はショウブやアヤメを思わせるくせ、それらの堂々とした佇まいには似てもつかない花弁。

 他に咲き誇る黄や薄紅の花々には目もくれず、青年は道端に花咲くそれを一輪、茎を痛めぬようやわと手折たおった。

 手の熱が、ひんやりとした茎に伝わってしまわぬよう。

 悪戯な風に、花弁がもてあそばれぬよう。

 大切に、大切に、携えて。

 青年はまた、土の道を踏みしめたのだった。








 白い壁が眩しい、森の始まりの一軒家。


「またか」


 女にしては低く、ぶっきら棒な声が青年を迎え入れる。

 前庭の畑を養っていたその人は、日によく焼けた肌に汗を浮かべて、青年を見据えた。


「手折られた花は、私は好かないと言っているのに」


 土に汚れた白いTシャツに、洗いざらして色褪せたジーンズ。

 適当に縛っただけの長い髪は、ボサボサと後れ毛が首筋を細く覆っている。

 まるっきり、自分のことは頓着していないような装いだ。

 だがそれが寧ろ、女の力強い瞳が目立つ顔立ちを引き立てているようだった。


「他に、適当なモノが思い当たらないから」


 来るときとは打って変わって、青年はまるで幼子のように掌中の花を玩びながら答えた。


「だって、お前は喜ばないだろう?」


 物をやっても、必要のないものだと受け取らない。

 何か、無償で手を貸してやろうとしても、訳も無い事だとはねつける。



 ここにある熱は、行き先を求めて狂い果てているのに。


 『何も』、『誰にも』望まないおまえを前に、この心はどこへ行けばいい。



射干それをもらったとして、私が喜ぶはずもないのに、どうしてお前は毎回……」



 女が虚しそうに髪をかき上げるのを、青年は幾重に重なる諦観の目で見つめた。


 物をやっても受け取らない。

 手を貸すことも望まれない。

 他人に何も求めぬ心が欲しかった。

 決して開かれぬ心が愛しかった。

 だからもう、どんな形でも良い。

 日ごと、月ごと、手折った野花に祈ったのは、



「天命を全うできない花を、それでもお前は生かそうとするだろう? その花が少しでも咲き続けられるよう、尽くすだろう」



 青年はそう言って、無造作に射干を女へ手渡した。

 荒れた手のなかで可憐に咲く花へ、飽くなき願いを込める。



 どうか、咲いてくれ。

 ほんの一時でもいい。

 彼女の傍で咲いていてくれ。

 もうその心を、この手の内にとは望まないから。



 だからせめて、この写し身はなを、君の手の内に。




「お前がその花の咲き続けるのを願うのを、俺は愉快に思うから」

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射干 壺天 @koten-3

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