第一章 一話 始まり
この日、宮城野青葉は災難だった。
朝六時にセットしたアラームを無意識のうちに消し、姉である彩夏に文字どうり叩き起こされ、朝食の焦げたパンを喉に詰まらせ、またまた彩夏の割と本気のチョップを後頭部に打たれ救済されたのだ。朝からボロボロになりながら学校へ向かい、校門をくぐったところで今日の数学の課題であったプリントを家に忘れてきたことを思い出した。
数学担当教師に課題を忘れたペナルティーとして、一枚のプリントが渡された。それは本来なら今日提出するはずであったプリントで、今から放課後居残りをして提出しろ、とのことだった。
そして今、頭を三分の一ほど回転させて問題を解いている最中であった。
「青葉も災難だね。よりによって佐久間先生の授業で課題を忘れるなんて」
青葉の友人である白石優太は、目の前で居残りさせられている青葉をからかうように笑いながら言った。
「うるせ」
「手伝ってあげようか。部活始まるまで暇だし」
「別にいい」
「まぁまぁ。照れんなって」
「照れてねぇし」
青葉に拒否権はないようだ。優太は青葉の前の席に座った。
「……」
「なに?」
「いや、イケメン顔が近くにあると、なんかムカつくなって」
「何それ、ひどくね」
この白石優太という男。勉学もスポーツも周りと比べて頭一つ飛びぬけているにも関わらず、そのお顔はどこぞの俳優とも劣らず勝負できるほどのイケメンフェイスなのである。
女子が惚れない理由を探す方が難しい。
「こんなイケメン顔が近くにあると、自分と比べれそうでなんか嫌だ」
「より俺のイケメンが際立つな」
「お前今すごく俺の心を気づけたって知ってる?」
「あはは、冗談冗談。泣くなって」
「泣いてねぇし」
特に親しくない奴にこんなことを言われたらそりゃぶち切れ案件だが、優太とは中学からの仲であって、それなりに交友関係も深い。
こんな会話も、笑って流せる。
「はぁ、これが現国だったら良かったのに」
「なんで?」
「現国の問題だったら、ある程度覚えてるからすぐ終わるだろ。でも数学だと、また一から数式を解かなきゃいけない。結論、めんどくさい」
「驚いた。てっきり、青葉はもともと課題なんてやっていないものだと思っていたよ。その言い分だと、一応課題はやってたみたいだね」
「一応はやってたさ。忘れたけどな」
「ドンマイ」
優太は時計を確認しようとして、わざとらしく大きく振りかえった。
「あー、もうこんな時間か。じゃあ青葉、俺部活行ってくる」
「おい、何も手伝ってねぇじゃん」
「ガンバ!」
元気よく三文字を言い残して、優太は教室を後にした。結局手伝うつもりなんてなかったのだろう。ただ青葉をからかいに来ただけだ。
その優太はバスケットボール部に所属している。二年生にも関わらず三年の先輩たちに混ざって試合に出ているそうだ。なんでも、先月の試合はスタメン出場だったとか。現エースにして次期キャプテンとも言われているそうだ。優太の高校生活はまさにバラ色である。
大して俺は……いや、やめておこう。それを考えたら、自覚したら、それこそ終わりである。まだ希望はある、そう思っておこう。うん。
優太が部室を後にしてから数十分が経った頃。ようやく課題であったプリントが終わった。問題の正解率はきっと悪いだろうが、今はそんなことはどうでもいい。日はすでに隠れようとしていて、空をオレンジ色に染めている。良い子は帰る時間だ。
「終わりました」
「おう、次からは忘れるなよ」
「はい。さようらな」
担当教師とのやり取りは手短に終わらせ。すぐさま帰宅に取り掛かる。
職員室を出て、薄暗い廊下を歩く。青葉は部活に所属していないため、この時間帯に学校にいるのは珍しいことである。こんなに薄暗い廊下を歩くのも、なんだか新鮮だ。
二年の廊下を歩く。普段なら休み時間にでもなれば喧騒に溢れている廊下だが、今現在に限っては、それこそ青葉以外の人類はすでに絶滅してしまったかのような、まるで世界に青葉一人だけ、みたいな、そんなよくある表現に適切な状況だった。
だが、それは違った。
青葉は見てしまった。教室から川のように流れだす血が……というわけではなく。ただ単に数メートル先を歩く女子生徒が、いた。
よく見ると、それは青葉と同じクラスの女子生徒だった。左手には文庫本を持っている。ブックカバーが掛けられているので題名はわからない。
あれは、確か、みや……宮本、なんとかさん。
黒髪のセミロングで、黒縁眼鏡が特徴である。というのも、それ以外目立った特徴がない、制服も着崩すことなく着用していて、休み時間になれば読書しているような、あまり目立たない女子生徒だ。
文庫本を手に持っているので、図書室から借りてきたのだろうか。そして今はその帰りか。
そして、宮本は昇降口がある一階ではなく、三階へと続く階段へと足を進めた。
三階に用事でもあるのだろうか。部活動にいくとしても、この時間からではおかしい。
なんとなく、嫌な予感がした。
青葉はひとまず帰ることを諦め、宮本の後を追うことにした。
「なんでストーカーみたいなことをしてるんだ俺は……」
宮本は、三階に用事があるわけではなかったらしく、屋上へと続く階段へと足を進めた。
宮本の視界に入らないタイミングで後を追う。そして宮本は屋上への扉をくぐり、屋上へと出た。
「鍵開いてんのかよ」
この学校に入学して一年ちょっと経つが、知らなかった。そもそも学校の校則として屋上への侵入は禁じられていたので、てっきり鍵でも掛かっているんだと思っていたが、実はそうではなかったらしい。今度こっそり入ってみようかな。
こっそりと、屋上へと続く扉を開いた。
少し強い風と、真っ赤な夕日が出迎えてくれた。眩しくて、目を細める。
そして、見てしまった。
いやでも見えてしまった。
屋上の柵の向こう側に立ち、先ほど手に持っていた文庫本を大事そうに胸に抱え込み、ただ茫然と立ち尽くしている、宮本の姿を。
風が吹いた。宮本の髪が揺れる。それを抑えようとして、宮本は髪に手を当てる。
その光景がどこか絵画染みていて、スケッチの才能がないことを青葉は悔やんだほどに、美しかった。
憂いな目はどこを見ているのだろう。青葉は思った。
「何してるんだ。そんなところで」
青葉は出来るだけ刺激しないように、優しく声を掛けた。
「……え?」
宮本はポカンと口を開けた。まるで世界中の人間が絶滅した荒野をさまよっていたら、偶然生きている人間に出会ったみたいな。そんな唖然とした顔。
「どうして……ここにいるの……?」
「どうしてって、まぁ、帰ると途中に宮本を見かけて、どこ行くのか気になったから」
まずい、この言い分はただのストーカーだ。
「そっか……」
「そこ、危なくないか」
宮本が立っているのは柵の向こう側である。もし落下したら骨折どころの話ではない。
「ごめん……」
「別に謝罪の言葉が聞きたかったわけじゃないんだが……」
「ねぇ、宮城野くん」
「なんだ?」
「私って、生きてる価値、あるのかな」
そんなことを淡々というものだから、素直に驚いてしまった。
青葉は知っていた。この宮本がどんな状況に置かれているのかを。
宮本は、イジメを受けている。
知っていたからこそ、その言葉は、酷く重くのしかかった。
「……わからないけど」
「そっか……そうだようね」
「まさかとは思うが、自殺しようとしてるんじゃないだろうな」
「……」
早く否定してほしかった。でも宮本は答えない。
「自殺なんて、やめ……」
言いかけて、青葉は止めた。
自分に、そんなことを言う資格はあるのだろうか。無責任に綺麗ごとを述べて、本当に宮本のためになるのだろうか。
どうであれ、結果として宮本は自ら死を選ぶほど精神を追い込まれている。本当に、生きている事が、正解だと言い切れるのだろうか。
青葉は悩んだ。
もちろん、宮本の自殺に賛成しているわけではない。でも、これは宮本の人生であって、部外者である俺が、余計な口出しをしていいのだろうか。
責任は、取れるのだろうか。
「ごめんね……自殺はしないよ」
宮本は寂しく笑った。
「じゃあ、なんでそんなところに」
「いつものことだよ」
「いつものこと?」
「そう、死にたくなって、ぎりぎりまで追い込んで、結局怖くなって、止めるの。私には、死ぬ勇気なんて、ないんだよ……」
宮本は沈みゆく夕日を眺めながら、そう呟いた。
「んじゃ、とりあえずこっちこいよ。話ぐらいは聞いてやれる」
また同じ過ちを繰り返したくはない。
「優しいんだね、宮城野くんって」
宮本は振り返って、柵に手を掛ける。それから柵を乗り越えようと、反動をつけた時である。
屋上特有の、少し強い風が、宮本をさらった。
体制が悪かった。風は宮本の体に容赦なくぶつかり、その力で宮本の体は重力に従って落下を始めようとしていた。
とっさのことだった。気が付けば、青葉は体が動いていた。まるで電気でも流されたのかと思うぐらい、自分の意思とは関係なく、動いていた。
落下寸前の宮本の手を、ぎりぎりのところで掴んだ。
宮本は宙ぶらりん。青葉が腕を話したら、宮本は地上へと落下する。
「あっぶねぇ……」
「……ごめん」
「謝るのは後でいい。とりあえず、引き上げるぞ」
「うん……」
「もう片方の腕もよこしてくれ、安定性に欠ける」
「うん……」
宮本は落下してもなお、先ほどまで胸に抱きかかえていた文庫本を左手に持っていた。それほど大事なものなのだろうか。しかし、このまま文庫本に左手を占拠されたままでは、宮本を引っ張り上げる事はできない。
「あとでその本は一緒に取りに行こう。だから今は……その手を貸してくれ」
段々腕が痺れてきた。
「わかった……」
そういうと宮本は、左手に持っていた文庫本を離した。文庫本はそれなりの速度で地面に落ちた。ボン、という音が響き渡る。
それから伸びてきた宮本の左手を掴み、引っ張り、なんとか屋上へと復帰を果たした。
柵を超えても、青葉は宮本が柵から距離が離れるまで、固く握りしめていた。なんとなく、消えてしまいそうな気がしたから。
青葉は疲労から、勢いよく腰を下ろした。
「あぁ、疲れた……」
帰宅部にはきつい。
そんな青葉の様子を、宮本はジッと見据えていた。
そして目があった。こうして宮本の顔を見るのは、なんだかんだで初めてかもしれない。
黒縁眼鏡の奥にある瞳はどこか憂いさを秘めていて、目鼻立ちは整っている。眼鏡を外せばそれなりに印象が変わるのではないだろうか。
そして宮本はゆっくりと口を開く。
「……ありがとう」
「別にいい。それより、あの本、帰りに取りに行かなくちゃだな」
「……うん」
「大事な物なのか?」
「……宝物」
「そっか」
たかが文庫本を宝物と表現するとは、それなりの理由があるのだろうか。
「ねぇ」
宮本は青葉に問うた。
「なんで私を助けたの?」
問われて、考えた。
「……理由なんてない。目の前で死なれたら、気分悪いだろ」
もしあの時宮本を助けてやれなかったら、今夜の晩御飯は喉を通らなかっただろう。
それだけ、ではないのだが。話す義理はない。
「ありがと……宮城野くん」
その笑みは酷く作られていて、酷く悲しかった。
「なぁ、この後時間あるか?」
青葉は、気が付けばそう言っていた。
「……大丈夫だけど」
「話、聞くっていったろ。もちろん、宮本が嫌じゃなきゃの話だが」
宮本は首を横に振った。
「宮城野くんなら、大丈夫、かも」
「かも、か。まぁ、とりあえず行くか、寒くなって来たし」
「うん……」
日は既に沈んでいた。四月といえど、夜の風は冷える。
それから屋上を後にして、宮本が落とした文庫本を取りに行き、その日は学校を後にした。
それが、始まりだった。
クズの群れ 朔立 @koyoizakura
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