安臥
清野勝寛
本文
安臥
少女は今日、全てを終わらせようと思った。家族を殺して自分も死んで、この無意味な十五年の人生に終止符を打とうと考えた。
月光以外の明かりがない部屋から、少女は息を潜めて出ていった。
新しい父親は、前の父親と比べると聖人のようだと少女は思った。自分を殴らない、蹴らない。母にも、妹にも優しく、家事を手伝い、なによりきちんと働いて、養ってくれた。母と妹の笑顔なんて、もしかしたらこれまで見たことがなかったかもしれない。
だから、少女は怖くなった。この幸せな日々が、ある日突然終わってしまうことが。全てを失ってしまうことが。
だから、死んで全てを終わらせようと思った。それと同時に、父を含めて、家族を悲しませたくないという気持ちもあった。だから、皆で一緒に死んでしまおうと考えた。
深夜三時を回ったところで、少女は二階の自室から一階の三人が寝ている部屋へ向かった。ギシ、と時折家鳴りが少女の耳に届く度、少女は体を僅かにビクつかせ、数秒後、何事もなかったかのようにゆっくりと歩き出す。少女は恐れていた。今日自分がやろうとしていることが、失敗してしまうことを。失敗してしまったら、幸せが終わってしまうという恐怖に、怯え続けることになってしまう。少女にはもう、耐えられなかった。
三人が寝ている寝室の扉を、音を立てないようにゆっくりと開く。耳を澄ませると、三人の寝息が少女の耳に届いた。まだ五歳の妹は父と母に挟まれて眠っている。母は安らかな表情で天井を向いて眠っており、父は時折小さなイビキをかいていた。三人の寝顔を見て、少女はまた、胸が苦しくなった。そして、苦しみ続けて生きることを強制する世界を呪った。幸福なら、ずっと幸福のままでいられたら、誰も不幸にならなければ、それが一番ではないのか。不幸があるから幸福が成立するのか。そうやってバランスを取っているのか。それはつまり、誰かの幸せのために、自分は一生不幸であり続けてしまうということか。そんなのは、あんまりだ。そんな世界、何の意味もない。誰かの幸福の礎になんて、なりたくない。もう、生きてなんていられない。
少女は、懐から隠していた包丁を取り出した。一歩一歩、距離を詰めていく。手を伸ばせば心臓を一突き出来る位置まで来たところで、再び少女は迷った。誰から、殺すべきだろう。
母は、あの地獄の中で、私と妹を守って、養ってくれた。蹴られる、殴られる痛みに耐えてくれた。私が父に殴られて泣いた時は、自分だって痛くて苦しい筈なのに、私を抱いて「大丈夫だよ」と声を掛けてくれた。そんな母が、ようやく幸せな日々を送れるようになったのだ。出来れば、その時まで安らかな気持ちでいて欲しい。
妹は、父のせいで声を発することが出来なくなった。泣いたら殴られてしまうから、泣くことも我慢するようになった。それでも、妹は父の怒りの矛先になることが多かった。母がそれを庇っていたけれど。もし妹がいなければ、母親の殴られる回数は減っていたのではないか。それなら、妹から殺すべきだろうか。いや、それは私も同じだ。私だって、父に目や態度が気に入らないと足蹴にされることがたくさんあった。母は、それも庇っていた。それに、妹が自分のことを初めて「お姉ちゃん」と言ってくれた時は、嬉しくて涙が止まらなかった。そんな妹の声を奪うのは、出来る限り後にしたい。
新しい父は、私達家族に全てをくれた、命の恩人だ。そんな人のことを殺すなんて……。
そこまで考えて、少女は気付いてしまった。自分では、誰の命を奪うことも出来ないと。彼らの幸福を奪うことなど、出来るはずがないと。
少女は包丁を床に落とし、泣き出した。声を殺して涙を流した。かつての習慣が、まだ彼女の中に残っている。泣き声は一番、あの男の琴線に触れるものだったから。
「どうしたんだい?」
声が聞こえて、少女ははっと顔を上げる。父が、上半身だけを起こしてこちらを見ていた。眼鏡を外していたからか、少女が泣いているということまでは分からなかったようだ。
少女は父の声に、何も答えられなかった。気付かれてしまったら、彼らを殺すことが出来ず、失敗で終わってしまう。けれど、彼らを殺せない。どうすればいいか分からず、少女はただ後ずさることしか出来なかった。
父が眼鏡を掛けて、少女をもう一度確認する。少女は扉に背を付け、ゆっくりと首を振りながら涙を流していた。
「……大丈夫だよ、ほら、おいで」
父は少女に優しく声を掛けたが、少女は声に応じなかった。父はゆっくりと立ち上がり、少女に歩み寄る。床に落ちている包丁を見て、父は少女の気持ちを悟った。
「……リビングへ行こうか」
泣き腫らした目で自分を見つめる少女の頭を軽く撫でてから、父は少女の手を取り、リビングへ向かう。それから、インスタントココアを二つ用意して、少女とソファに並んで座った。
「無理に話そうとしなくてもいいよ。でも、僕は鈍感だから、出来れば教えてくれると嬉しいんだけれど」
ココアの湯気が立たなくなった頃、少女は父に、自分が抱いている感情を全て打ち明けた。自分を含めた家族全員を殺して、自分も死のうとしていたことも、少女は包み隠さずに伝えた。
少女の気持ちを全て聞き終えてから、父は少女を抱きしめた。そして、少女のことを想って涙を流した。その態勢のまま、父は少女に優しく言葉を伝えた。
「ごめん。決して自惚れていたわけではないのだけれど、僕は、君たちと一緒に生活をしている中で、君の傷はすっかり癒えたものだと思っていたよ。でも、そんなわけないんだよな。初めて君たち姉妹に合った時の君たちの表情を考えれば、どれだけ君たちの心が深く傷付いているかなんて、気付けた筈だったのにね。ごめんね」
父の言葉に、少女は首を振った。
「だから、信じて欲しいなんて簡単には言えないんだけれど、それでも信じて欲しい。僕は君たち姉妹と、君のお母さんのことを絶対に裏切らない。幸せにする。そしてその幸せを終わらせるようなことはしない。頑張るから。その代わりと言ってはなんだけれど、もし辛いことや苦しいこと、悩んでいることがあったら、隠さずに、絶対に教えて欲しい」
少女は何度も頷きながら、また涙を流した。それは、先ほどまでの涙とは違い、温かいものであった。
「……今日は四人で一緒に寝ようか。少し狭いかもしれないけれど、今日くらいきっと、二人とも許してくれるよ」
ココアを飲み干し、片付けた後、少女は妹と父に挟まれて眠りについた。熱いくらいの家族の温かさに胸が一杯になった少女は、もう二度と家族を殺して自分も死のうだなどとは考えないだろう。
少女の安堵しきった寝顔を見て、父は少女の額にキスをしてから眠りについた。
安臥 清野勝寛 @seino_katsuhiro
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