第9話 かわいい君
昔読んだ本を思い出した。
あなたの言葉がその本に出てきた一文に似ているような気がしたのだ。どんな本だっただろう、と思考を巡らせる私の横であなたがココアを飲み込んだ気配がする。その和らいだ空気に掴みかけた思考が、ゆるりと手から滑りおちた。
「どうかした?」
あなたは柔らかく笑う。その声は低いのに、眠くなるような優しさがある。低い声でこんなにも優しく話す人を私は彼に他に知らない。低い声というのはいつだって私の恐怖心を煽ってきた。怒る人の声に似ているからかもしれない。
「なんでもないです」
なんの可愛げもなく答える私に、彼は「そう?」と笑ってココアを飲み込んだ。マグカップの半分くらいになった茶色の甘ったるい液体は、あなたによく似ている。私には飲み込めない甘さとか、頭がぼーっとするような暖かさとか、そういうところが。あなたは私と視線を合わせるとまた笑った。何がおかしいのか分からなくて、私は首を傾げる。
「なんですか?」
「いや、可愛いなぁと思って」
「ちょっと意味がわからないんですけど。……あ、このクッションですか?」
「ん? まりが、だよ」
「それこそ意味がわからないです」
私の言葉で彼はまた笑った。笑い声が優しく空気を揺らして、私の鼓膜に響く。その優しい響きが、私は好きだった。よく笑うから、この人の隣は心地がいいのかもしれない。そんなことを考える私の隣で、彼はまたココアを口に含んだ。両手でマグカップを持つその手は、私のものよりもずっと大きい。
「まりはかわいいよ。世界で一番かわいい。すっごいかわいい」
優しく笑いながらそんなことをつらつらと並び立てる彼の目には、愛しさがこもっている。その目が、あんまりまっすぐに私を射抜くものだから、いたたまれなくなって抱えていたクッションに顔を埋めた。
「そういうところもかわいい」
「ほんとに意味がわからないです、頭だいじょうぶですか」
「ん? まりが可愛く見えないことの方が異常だと思うけど」
「可愛く見えることが異常です」
「まりはかわいいけどなぁ」
「……椿くんはカッコイイです」
反撃のつもりで口にした言葉は彼にどんなふうに届いたのだろう。彼の空気が優しく揺れる。それは笑い声のような気がしたけれど、顔を上げていなかったからわからない。少し、惜しいことをしたかもしれない。この人の笑顔は、見ているだけで心が暖かくなるから。
「まりは優しいなぁ」
私の頭を撫でながら、彼はまた空気を揺らす。私は悔しくなって、顔を上げた。
「優しいのはあなたです」
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