十、タオ老人とオオカミ
のどかな日和の昼下がりのことでした。空には燕達が忙しそうに飛び交っていました。そこに、山間の細道をのんびりと歩いて来る老人がおりました。黒いぼろ服をまとって、腰に瓢箪をぶら下げて、手には杖を持っていました。そして、長く伸びた白い髭は風に吹かれて、心地良さそうに歌っておりました。
スーパーノヴァとブラックホール
汝は悪魔かはたまた神か
混ざり溶けあう光と闇で
真実なんて分かりゃしないよ
聞こえているかい光の姿
見えているかい暗闇の音
味わっているかい甘美の毒
触れているかい愛情の棘
嗅いでいるかい潮の流れを
感じているかい何かの気配
禁断の剣を手に取れば…
聖なる盾を手放したらば…
谷に落ちるか踏みとどまるか
人の心は皆綱渡り
ひとたび剣を突き刺せば
虚無に飲まれて彷徨い堕ちる
盾を構えよ地獄の底で
灯し火見えるその日来るまで
深い闇夜に木霊するのは
神の言葉か悪魔の声か
薄暗がりに浮かび上がるは
血に染められた無表情
見破る『鍵』は心の奥に
澄んでなければ見つからないよ
いにしえからの叫び声
とこしえまでの繰り返し
いにしえからの繰り返し
とこしえまでの叫び声
沢の岸辺に行き倒れている黒いオオカミを見つけたのは、峠道にさしかかろうとした所でした。近付いてみると、まだかろうじて息はありました。老人は懐から丸薬を取り出し、沢の水と一緒に黒いオオカミに飲ませました。しばらくすると、黒いオオカミは意識を取り戻しました。
「おじいさん、オイラを助けてくれたのかい?」
「だいぶ辛い思いをしたようじゃのう。もう大丈夫じゃ、よい、よい。」
「ありがとう、オイラはロン・リーっていうんだ。」
「わしはタオじゃ。」
「タオじいさん、どこから来たの?」
「近くて遠い、遠くて近い所じゃよ。」
「タオじいさん、どこへ行くの?」
「遠くて近い、近くて遠い所じゃよ。」
「それって、一体どこなの⁇」
「はっはっは、誰もがそこからやって来て、誰もがやがて行く所じゃ。その前に、わしには行かねばならぬ所がある。今はそこへ行く旅の途中じゃ。」
「それはどこなの?」
「サイノツノーの森にある、トリバルジ山じゃ。」
「サイノツノーの森⁈そこはオイラの故郷だよ!オイラもそこへ行く途中だったんだ。ミームっていう幼なじみに会うつもりでね。」
「そうじゃったか、ならば、そこまで道案内してくれんかのう。」
「うん、もちろんだよ。タオじいさん、こっちこっち。」
「はっはっは、よい、よい。」
こうして、旅の途中の老人とオオカミは一緒に旅をすることになりました。
その日の夜は峠で野宿をすることにしました。一面の夜空に浮かぶ無数の星々を見上げながら、ロン・リーは今までのことをタオ老人に聞かせました。
タオ老人は瓢箪の酒を一口飲んで言いました。
「ふ〜む、昔ある人がこんなことを言っておった。『つまらない者が憎しみを抱くと、その解消のために復讐にしか頼れない。しかし、成長しようとする者にはその必要はない。自分で自分を救済できるからだ』とな。心は、失敗することで成長するのじゃ。気に病むことはない。」
「オイラ、成長したのかな?憎しみって、なかなか消えないよ。」
「それに気付いただけでも、成長じゃ。ギマンの森の者達は、自分が憎しみを抱いていることさえ気が付いておらんじゃろ。憎しみを持ちながら生きるというのは、不幸なことなのにな。あの者達は、自分の歴史に汚い足跡を自分で残したのじゃ。じゃがそれに気付けば、彼らもまた成長じゃ。人生に勝ち負けはないし、何が正解かは誰にも分からん。それは一人一人が、自分自身で考え続けるしかないのじゃ。苦しんで、我慢して、のたうちまわって、耐え抜いた者にしか見えない何かがある。心の目で見て、心の耳で聞いて、一人で歩むのじゃ。常識や正義は時代や状況によって変わるが、本当に大切なものは、何千年経っても変わらん。」
タオ老人は星空を見上げて、またぐびっと酒を飲みました。ふと横を見ると、ロン・リーはすやすやと眠っていました。
「はっはっは、よい、よい。」
何ヵ月か旅をしていると、ある小さな町に着きました。そこには大きなよろず屋があって、店の主人から奉公人にいたるまで、みんな忙しそうに働いておりました。店の前を通りかかると、主人がぶつぶつと小言を言っておりました。
「ああ、効率が悪い、効率が悪い。今日も残業だ。」
タオ老人は尋ねました。
「何をそんなに焦っておるのじゃ?」
主人は迷惑そうな顔で答えました。
「あんたと話していることも効率が悪い。」
主人はそう言い残して、忙しそうに店の奥へと入って行きました。
少し行くと、二人の画家が露店を広げて言い争いをしていました。
「俺の方が上手くて価値がある。」
「いや、俺の方がみんなから認められている。」
タオ老人がずらりと並べてある絵を見ると、どれも幸せそうな顔をした自画像ばかりでした。
「こんなに自分を飾って良く見せて、何か意味はあるのかな?」
一方の画家が答えました。
「他人に良く評価してもらうためだ。」
もう一方の画家が言いました。
「他人に羨んでもらうためだ。」
タオ老人は、また聞きました。
「何のために評価してもらうのじゃ?」
「満足して、安心するためだ。」
「優越感を満たすためだ。」
「…して、その先は?」
二人の画家は、自分の絵を評価しない老人に苛立ちを覚えました。
「永遠の満足だ。じいさん、その犬を連れてあっちへ行ってくれ。俺は早く人の評価が欲しいんだ。」
「そうだ、俺はずっと優越感を感じていたいのだ。邪魔をしないでくれ。」
老人とオオカミは追い払われました。
角を曲がって路地を行くと食堂がありました。店内からは男の怒号が聞こえて、中をのぞくと店員らしき女が泣いておりました。上等な服を着た紳士らしき男は、顔を赤らめて怒りをぶちまけていました。
「俺の服を汚しやがって、どうしてくれるんだ!」
「すみません、すみません…」
女は何度も頭を下げて謝りました。店主も一緒になって謝りましたが、それでも男の怒りが収まる様子は一向にありませんでした。
見かねて、タオ老人は男に声をかけました。
「もう、そのくらいにしてやってはどうじゃ?」
男はくるっと振り返り、老人をにらみつけて怒鳴りました。
「うるさい、薄汚い貧乏じじい!関係ない奴は引っ込んでろ!」
そう言って、老人にスープの入った皿を投げ付けました。老人のぼろ服は、男と同じようにスープで汚れました。
「これくらいにしといてやる。」と言い捨てて、男は立ち去りました。
女は老人に何度も礼を言って、服の汚れをタオルで拭き取りました。
老人は「よい、よい。」と言って立ち去りました。
またしばらく行くと、一人でため息ばかりついている男がおりました。
「ああ、俺はこの先どうすればいいんだ。やりたいことが見つからない。」
それを聞いて、タオ老人は尋ねました。
「どうかしたのか?」
「自分の進むべき道が分からないんだ。どこへ行けばいい?」
「色々と試してみてはどうじゃ?」
「そうか、そうだな。…じゃあ、まず何から試せばいいんだろう?ああ、分からない。」
男は手で顔を覆って、考え込んでしまいました。
タオ老人は、黙ってその場を去りました。ロン・リーは老人の後を追って尋ねました。
「あのままでいいの?」
「よい、よい。自分で探すしかないのじゃ。」
やがて日が陰ってきて、しとしとと雨が降り始めました。タオ老人とロン・リーは雨宿りのために寺の軒先を借りました。日が沈んで真っ暗になると、嘆きの雨音だけがいつまでも響いていました。
次の朝は雨が止んで青空は透き通っていました。しかしロン・リーの心には、またあの“虚無の暗黒”が襲って来ました。気力が失せた体は大きな水風船のように重く感じられました。強い不安が心をつつき、見上げる空は灰色に見えました。
「タオじいさん、オイラ、早くここを出たいよ。」
「うむ、よい、よい。」
老人とオオカミは町を後にしました。
また何ヵ月か旅を続けて、ようやくサイノツノーの森にたどり着きました。晩秋の森は黄色や赤のまだら模様に彩られ、所々まだ緑が残っていました。
何日もかけて、ロン・リーはミームを探して方々歩きまわりましたが、一匹のオオカミさえ見つかりませんでした。
「ここにいたオオカミ達は、もういなくなったみたいだね。」
「どうも、そのようじゃな。」
「あんなにいっぱいいたのに…。仕方がない、トリバルジ山へ行こう。」
また何日か進むと、山頂がキラキラと輝く山が見えました。
「タオじいさん、あれがトリバルジ山だよ。でもおかしいな、何で山頂が輝いているんだろう?」
老人は何も言わずに歩き続けました。
山の麓まで来ると、老人はオオカミに言いました。
「ロン・リー、もうここでよい。ここから先はわし一人で行く。道案内をしてくれて助かった。お前との旅は楽しかったぞ、ありがとう。」
「ここでお別れなの?オイラも一緒に行きたいよ。」
「お前もいずれ来る所じゃ、そう慌てなくともよい。これからは、自分の道を一人で歩め。」
「でも、オイラは山頂に輝くものを見てみたいんだ。それがオイラの選んだ道だよ。」
老人はオオカミの真剣な眼差しをみて、静かにうなずきました。
「ならば、ついて来るがよい。」
何時間もかけて、老人とオオカミはトリバルジ山を登り続けました。山頂に着いたときには、彼方に見える黒い山の稜線に夕陽が沈みかけていました。そしてロン・リーは、山頂の大きな岩の上に黄金の丸い鏡を見つけました。それは夕陽に照らされて、一点の曇りもなく光っていました。
「あれが遠くから輝いて見えていたのか⁈何て美しいんだろう…」
ロン・リーがぼんやり見とれていると、タオ老人は岩を登り始めました。そして岩の上で鏡を持ち上げて言いました。
「鉄の鏡は、いつも磨いていないとすぐに曇る。心もまた同じじゃ。もうこれで完成ということはない。ずっと磨き続けて、ずっと未完のままじゃ。」
「ずっと?」
「ああ、錆びついた心にならんようにな。」
「その黄金の鏡のようにはなれないの?」
「これになれるかなれないかは、誰にも分からん。だが、まずなろうと思わなければ、なれんじゃろうな。」
タオ老人がそう言い終わると、夕陽を浴びた黄金の鏡はゆらりゆらりと輝きを強めました。やがてその光は鏡からあふれ出て、まばゆく老人を包み込みました。そして老人は鏡とともに放射状に光を放ち始めました。あまりの眩しさに、ロン・リーは思わず目蓋をギュッと閉じました。
しばらくしてロン・リーが目を開けると、もうそこには黄金の鏡と老人はいなくなっていました。気が付くとロン・リーは石となって、もう動くことができませんでした。その姿は、あたかもタオ老人を見送るようで、また、誰かを見守るようでもありました。
ギマンの森のオオカミ 佐野心眼 @shingan-sano
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