九、憎しみの果て


 夏が過ぎ、秋が過ぎ、やがて冬の終わりを告げるように沈丁花の香りがそこら中に漂い始めました。プロビデンス山脈の目は、今年もギマンの森を見つめていました。

 その頃になると、ロン・リーの会う者のほとんどが、露骨に嫌味を言ってきたり、汚い物を見るような目で見たり、無視をするようになっていました。何かがおかしい、何か変だと思ってエッセパルに相談してみたのですが、「考え過ぎだよ」「誤解だよ」と言われるばかりでした。でも確かに、“お前は存在するな”というメッセージをあちこちから毎日受け取っていたのです。

 エッセパルは、ロン・リーのそんな様子を逐一サディに報告していました。

「サディの戦略通り、奴は悩みの蟻地獄にはまったようだ。考え過ぎて、最近どんどん痩せてきている。ストレスでかなり消耗しているみたいだな。」

「ん、順調だな。それじゃ、そろそろ次の段階に行くか。その前に、エッセパルの耳に入れておきたいことがあるんだ。」

「どうした?」

「ああ、実はさっきブンブクさんに会ってな、黒いオオカミが『エッセパルの毛並は一級品だ』と言っていたらしいぞ。」

 ロン・リーの良いことをすべて悪く解釈するようになっていたエッセパルは、拳を膝に叩きつけました。

「あいつめ、さては俺を殺したあと、毛皮にするつもりだな!なんて汚い奴なんだ。」

 憎しみの火が再び燃え上がる様子を見て、サディほくそ笑みました。こうやって、憎しみの火種は絶えることなくあちこちで燃え続けてきました。

「ああ、あいつはとんだペテン師だな、お互いに気を付けようぜ。それじゃ、今後の方針を伝えるよ。」

 サディは事細かにエッセパルに指示を出しました。それを聞いて「なるほど」とエッセパルはうなずきました。

 次の日、早速エッセパルはシャーデンと一緒にロン・リーの元を訪れました。エッセパルは何か企んでいる目をしていましたが、今のロン・リーにはそれさえもヒリヒリと心を傷めるのでした。

 シャーデンは、もうすぐロン・リーの心がおかしくなると聞いていたので、面白がって何度もロン・リーの顔を覗き込むように観察しました。

 エッセパルは、いつものように冷静に話し出しました。

「ロン・リー、最近何だか元気がないじゃないか。酒の飲み過ぎか?サディの“馬鹿”が、毎日酒を送って寄こすからな。」

 これは明らかに自分のことを“馬鹿”だと言っているのだとロン・リーは気付いていましたが、親友を失うことが怖かったので、ロン・リーは自分の心をごまかしました。というより、まだエッセパルを信頼したかったのでした。真心と誠意さえあればいつか自分のことを分かってくれるはずだという信念が、呪縛となってロン・リーの思考を止めました。そして、感じた通りのことを口にしました。

「サディは、馬鹿じゃないよ。むしろずる賢い。」

 もはやサディの片腕となっていたエッセパルは、「やはりこいつは陰で人の悪い噂を流していたのだ」と再確認しました。激しい憎しみが心の奥底から噴き出しそうになるのをこらえて、エッセパルは任務を遂行しました。

「そんなことより、最近あちこちから『ロン・リーはこの森で役に立っていない』っていう噂を耳にするんだが、そのことが原因でみんなロン・リーに冷たく当たるんじゃないか?」

「…ああ、そうかも知れない。」

「前にも君は『この森で役に立ちたい』って言ってたよな?」

「ああ、確かにそう思ってた。」

「だったら、この森の役に立ってもらえないかな?」

 ロン・リーはエッセパルに向き直りました。

「エッセパルの頼みなら喜んで。で、何をすればいいんだ?」

「シャーデンやアパシーから聞いたんだが、クリスタル湖から毎日水を運ぶのはかなりの重労働らしい。このままだと彼らはいつか潰れてしまうよ。そこで、農園の真ん中に井戸を掘って欲しいんだ。なあ、シャーデン。」

「ああ、頼むよ、この通りだ。」

 シャーデンはわざとらしく付け加えて、角のない頭を下げました。

「なるほど、それはいい考えじゃないか!それならわざわざ遠くから水を運ばなくて済むね。喜んでエッセパルとこの森のために井戸を掘ろう。」

 ロン・リーはエッセパルに頼りにされて、体中に力がみなぎりました。

 エッセパルは「馬鹿は死ななきゃ治らない」と思ってニヤッと微笑みました。

 次の朝から早速、ロン・リーは井戸を掘り始めました。サディから指示を受けたバナムとプラシボとジレンマも井戸掘りを手伝いました。その甲斐もあって、一日でロン・リーの背丈を超えるほどの縦穴が出来ました。体に付いた泥を振り落としながら、バナムは言いました。

「皆さんありがとうございました。今日はこれくらいでいいでしょう。ロン・リーさん、申し訳ないんですが、明日は朝から農園の集まりがあるので、先に一人で井戸掘りを始めていてください。我々は集会が終わり次第すぐに駆けつけますから。」



 翌日、キョゲンの滝でハデス騎士団の集会が開かれました。このとき、『秘密』を知らないのはロン・リーだけでした。

 集会は初めから騒然としていました。

「腹黒いオオカミめ、みんなの悪口ばかり言いやがって。」

「羊の皮を被ったオオカミとは、まさに奴のことだ。」

「あんな汚いオオカミは、早く処分してしまえ。」

「オオカミは狂犬病らしいぞ、近付かない方がいい。」

 あちこちからロン・リーに対する非難の声が上がるのを、サディは満足そうに眺めました。そして岩の上ですっくと立ち上がり、大きく声を張り上げました。

「それでは皆さん、これから俺様達『ハデス騎士団』の決起集会を始めます。振り返れば長い道のりでした。今まで奴に散々悪口を言われ続けた方達は、よくぞここまで我慢をしてこられました。そして、危うくサイコピアの猛獣軍団にこの森が踏みにじられるところでした。しかし、皆さんのお陰で黒いオオカミの陰謀もあと一息で阻止されようとしています。皆さんは全員、黒いオオカミの“被害者”なのです。そして、勇気を持って立ち上がった“聖なる騎士”なのです。我々の勝利は目前に迫っております。皆さんの力で、あの『黒い悪魔』を退治しようではありませんか。皆さんが懸念されている掟については、何の問題もありません。奴は自分の意思で自分の墓穴を掘っているのですから。あとは我々は、それを見ているだけでいいのです。過ちは、奴にはあっても我々にはまったくありません。俺様達こそ『正義』なのです!」

 サディは最後にそう叫ぶと、右の拳を高々と突き上げました。それと同時に「オ〜ッ!」という歓声が上がり、シュプレヒコールが馬鹿ヶ谷に響き渡りました。

「黒いロン・リーぶっ潰せ!」

「黒いオオカミぶっ潰せ!」

「黒い悪魔をぶっ潰せ!」

 シュプレヒコールは、次第にサディを讃える大合唱に変わりました。

「英雄サディ!」

「黄金のサディ!」

「伝説のサディ!」

 ハデス騎士団の聖戦士達は、しばらく黄金の英雄と自分達に酔いしれました。ピグマリオは静かに喜びと安堵を噛みしめ、エッセパルはサディと肩を組み、マラドとパリプータとブンブクはシャーデンの背中に乗ってはしゃぎました。

 ルサンチはバナムに近寄って握手を求めました。

「バナム、やっとここまで来たな。」

「ルサンチさん、まだ油断は禁物です。最後の仕上げまでもう一息です。」

 バナムの目は、笑っていませんでした。



 三日後、穴の深さはロン・リーの背丈の五倍ほどになっていました。段々と穴が狭くなったので、ロン・リーが一人で土を掘り、その土をプラシボが上に運び出していました。サディとエッセパルは毎日食べ物を運んで来ては、「今日も大変だね、ご苦労様」「みんなのためにありがとう」などと優しく声をかけてロン・リーを励まし続けました。

 その日の夜のことでした。疲れ果てて夢うつつの頃、一羽のフクロウが音もなくロン・リーの枕元にやって来ました。

「ロン・リー、私を覚えていますか?」

「ああ、あんたはあの時のユリエルか。どうしたんだい?」

「あなたに危険が迫っています。あなたはみんなから騙されていますよ。今すぐにここからお逃げなさい。」

「何を言っているんだ、みんなオイラに優しくしてくれているよ。」

「それは悪意を隠した、表面的な優しさです。言葉や態度というものは、いつも真実を語っているとは限りません。」

「でも、オイラはみんなの役に立っているじゃないか。いつかきっと、真心が通じて分かってくれるよ。」

「彼らはそれを利用しているんですよ。悪意を抱いている者に対して、いつか分かってくれるだろうと思うのは危険です。彼らの目的は、あなたの心の破壊と排除なのですから。悪意に満ちた者からは、一刻も早く離れるべきです。」

「考え過ぎだよ。」

 ロン・リーはそう言うと、寝返りをうちました。もう一度寝返ったときには、ユリエルは音もなく消えていました。

 次の朝、ロン・リーははしごで穴の底まで下ろしてもらい、また穴を掘り始めました。時間を忘れて夢中になっていましたが、ふと気がつくと誰もおらず、はしごも引き上げられていました。そろそろ食べ物を運んで来てもいい頃なのですが、いくら大声で叫んでみても、辺りは静まり返っていて何の返事もありませんでした。

 ロン・リーが途方に暮れていると、昨夜のユリエルの言葉が思い起こされました。それと同時に、今までのサディやエッセパル達の言動がすべて頭の中でつながりました。

「しまった、オイラは騙されていたんだ!これはサディの復讐だったのか…」

 そう分かった途端、ロン・リーの心に巨大なハンマーが振り下ろされました。『ドシン』という衝撃が胸を襲い、急に体が重く感じられて、ガクッと膝が折れました。そして視界は暗幕で覆われたように暗くなり、頭の中がぐるぐると回り始めました。

「や、やられた、もう駄目だ、ここから逃げられない。オイラは自分で自分の墓穴を掘っていたんだ。調子のいい言葉を信じたオイラが馬鹿だった。友達だと思っていたのに…」

 絶望と後悔、恨みと憎しみ、徒労感と屈辱、焦りと緊張、不安と恐怖、殺意と自殺願望、ありとあらゆる負の感情が、ロン・リーの心をとてつもない力で押し潰しました。あまりの悲しみで泣くことさえも出来ずに、ロン・リーはその場にうずくまってしまいました。生気の失われた表情は、一見ただ呆然としているように見えましたが、頭の中ではごうごうと音を立てて竜巻が吹き荒れ、腹の中に熱いマグマを流し込まれたように悶え苦しんでいました。心がのたうちまわった状態は際限なく続き、ロン・リーは今にも発狂しそうでした。

「誰か助けてくれー!」

 しかし、ロン・リーの悲痛な遠吠えは誰にも届きませんでした。そして、誰もこの苦しみを理解出来ないことを、ロン・リーは悟りました。

 後悔の過去と絶望の未来を何度も何度も行き来しながら、 ロン・リーは現在という時の感覚を見失いました。その中で妄想に取り憑かれたロン・リーは、心が深い闇に吸い込まれないように踏みとどまることだけで精一杯でした。

 それからどのくらい経ったでしょうか。いつの間にか、穴から見上げる空は真っ暗でした。すると、音もなくユリエルが現れて、ロン・リーに話しかけました。

「ロン・リー、生きていますか?魚を持って来ましたよ。」

 心が苦しくて張り裂けそうになるのを我慢して、必死に平静を装いましたが、ロン・リーの言葉には力がありませんでした。

「ああ、ユリエル、あんたの言うことが正しかった。オイラは馬鹿だった…、もう駄目だ。吐き気がするし、眠れないし、心臓がドキドキして妄想が止まらない。もう死ぬしかないよ。」

「諦めてはいけません。食べたくなくても食べるのです。眠くなければ、眠くなるまで待てばよいのです。どう死ぬかではなく、どう生きるかを考えましょう。さあ、生きる覚悟を決めるのです。」

「生きろと言ったって、この深い穴からどうやって出るんだ?」

「自分の力で、斜め上に掘っていくだけです。今は辛くて苦しいでしょうが、あなたが助かるには、自分で自分自身を救済するしかないのです。自分を最後に守るのは自分しかいません。どうか勇気を持ってください。」

「でも、どうしても力が出ないなぁ…」

「ロン・リー、あなたにとって大切な人はいませんか?あなたを待っている人はいませんか?生き延びたあと、やりたいことはありませんか?」

「そう言われても、オイラは一匹狼だからなぁ…」

 ロン・リーはしばらく考え込みました。

「そういえば、故郷の森にミームっていう幼なじみがいたなぁ。小さい頃、結婚しようって約束をしたっけ。元気にしているかなぁ。」

「では、ミームのことを思って、ミームのためにも生き抜くのです。例えどんなことがあっても、決して絶望してはいけません。守るべきものがあれば、どんなに辛くとも耐えられるはずです。まず今はとにかく休んで、少し元気が出たら焦らず無理せずゆっくりと掘っていきましょう。」

 思うともなく思い、考えるともなく考え、ロン・リーは自分の心を見つめて、心の声に耳を澄ませました。

「分かった、オイラ、頑張ってみるよ。」

 ロン・リーは吐き気を我慢しながら魚を食べました。そして少しずつ、斜め上に向かって土を掘り始めました。



 次の太陽が高く上った頃、サディとその仲間達は穴の様子を見に来ました。みんなで穴を覗き込むと、ロン・リーはゆっくりと土を掘っていました。

「おい、見ろよ、まだ自分の墓穴を掘っているぜ!以前お前に吠えられたときの恨みだ。」

 そう言うと、プラシボは小石を投げつけました。

 サディは悪魔のように口角を上げて言いました。

「ロンちゃん、もう崖っぷちだな。あの世でも“狂人”には気をつけな。」

 エッセパルは嬉しさを噛み殺して言いました。

「どうしてこうなったんだろうなぁ?ま、今のロン・リーには、何を言っても無駄だがな。」

 シャーデンは嘲るような顔で言いました。

「どうしてこうなったのか、色んな角度から考えてみるんだね。」

 バナムは笑いを堪えて言いました。

「サディさんの考えることは面白いですね。」

 マラドは憎しみを吐き出しました。

「歴史は勝者が書くんだ。負けた奴はおとなしく負けを認めて、じっとしていればいいんだ。」

 パリプータは怒りに燃えた目で睨みつけました。

 ジレンマは凍ったような冷たい目で蔑みました。

 ケルベロスはチラッと穴を覗き込んで、すぐにいなくなりました。

 アパシーは無表情のまま眺めていました。

 サディはこの様子を充分に楽しんでから、他の者に言いました。

「さてと、このまま放っておこうぜ。あと一ヵ月もすれば動かなくなってるだろ。」

 そう言い残してサディ達の笑い声は小さくなっていきました。

 一人残されたロン・リーはただひたすら掘り続けました。掘りながら、脳は勝手に動きました。自分も充分に人を憎む心を持っているじゃないか。復讐したいじゃないか。殺してやりたいじゃないか。醜いじゃないか。自分が正義で他人が間違っていると言いたいじゃないか。悪魔は自分の心にも住んでいる。自分もみんなと同じなのだ。そうすると、一体自分の正義とは何なんだ?答えなんてないじゃないか。でも、自分はサディのような生き方はしない。それは自分で決めることだ。そうだ、生き抜いてやる。それが答えだ。そして今自分がやるべきことは、土を掘ることだ。

 そう思うと勇気が湧いてきました。

「地獄の底から這い上がれ、這い上がれ、這い上がれ」

「乗り越えろ、乗り越えろ、乗り越えろ」

「生きるんだ、生きるんだ、生きるんだ」

 心の中でつぶやきながら、掘る速度を上げました。どんどんと掘り進めましたが、しばらくするとあの恐ろしい“虚無の暗黒”が再びロン・リーの心に襲いかかりました。

「もう駄目だ、もう駄目だ、もう駄目だ」

「諦めろ、諦めろ、諦めろ」

「死にたい、死にたい、死にたい」

 ロン・リーは心が疲れたと感じたら休みました。そして“虚無の暗黒”にじっと耐え続けて、少し元気が出てきたらまた掘り始めました。それは途方もない作業でした。

 それをどのくらい繰り返したでしょうか。ギマンの森に立ち込める霧が暁の光でじんわりと赤く染まる頃、ついにロン・リーは地表へ出ることが出来ました。泥だらけのオオカミはすっかり痩せ細ってふらふらでした。そして、そろりそろりと森の出口に向かって歩き出しました。

「ようやく出られましたね。」

 ユリエルが木の上から声をかけました。

「ああ、ユリエル、世話になったね。オイラはくだらない過去をここに置いて行くよ。それじゃあ。」

 歩き出してから振り返って見ると、ユリエルの姿はもうありませんでした。

 朝日が当たって黄金に輝く霧の中へ、見えない遠くを見つめながら、旅の途中のオオカミは姿を消して行きました。

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